文化・歴史日本史江戸時代

5分でわかる俳諧!俳句とどう違う?古典にも詳しい現役塾講師ライターがやさしく解説!

よぉ、桜木健二だ。俳諧という文芸を知っているか。俳諧は松尾芭蕉によって俳句として大成されるまでに詠まれていた文芸なんだ。しかし、俳諧と俳句の違いをはっきりとわかっている人は少ないと思う。また、俳諧は江戸時代にできたイメージが強いが実を言うと違うぞ!
今回は俳諧について、高校古典も指導する現役講師ライター明東碧吾と詳しく解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライターで、社会科を専門に授業を行う。授業には楽しく、わかりやすいという定評がある。社会科だけでなく、高校古典の授業まで展開しており、古典文学に関する理解も深い。

俳諧って何だ?俳句との違いを見ていこう

image by iStockphoto

俳句は五七五の十七音で作る文芸であることは有名ですね。しかし、俳諧は名前を聞くことはあっても俳句と同一視され、同じものだという認識が強いです。では、俳諧とは一体どういったものなのでしょうか。俳諧の始まりや俳諧の広まりを見ていきましょう。

俳諧の始まりはいつ?平安時代から始まっていた俳諧

俳諧の始まりは平安時代まで遡ります。平安時代の歌集「古今和歌集」「俳諧歌」として58首収録されているのです。また、俳諧は正式には俳諧連歌と言い、正統な連歌に対して遊戯性を高め、即興的で滑稽な連歌のことを指します。

つまり、決まりや優雅さを遵守する連歌と違い、滑稽で楽しい連歌のことを俳諧と読んでいたのです。また、俳諧という文芸自体は平安時代から作られ、江戸時代に広まっているときも滑稽な歌という認識は変わらないものでした。ただ、この滑稽なものとしてのイメージがあったからこそ江戸時代に庶民の中で広まった原因になります。

俳諧を知るには連歌を知らなければ始まらない!

俳諧は室町時代に盛んだった連歌から生まれたものです。正式名称も俳諧連歌と呼ばれ、連歌が俳諧のもとであり、俳諧は連歌と同一のものになります。

連歌は五七五の発句七七の脇句を交互に詠んでいく形式の歌です。始まりは奈良時代で、平安時代は2句重ねる短連歌が流行りましたが、鎌倉時代には100〜120句を詠んでいく長連歌が流行しました。その後、100句を重ねる百韻が主流となります。

連歌は室町時代に二条良基や飯尾宗祇によって、和歌のような文芸に高められました。俳諧はこうした連歌の中から派生して誕生したのです。

俳諧は連歌!連歌が盛り上がった室町時代に俳諧も始まる

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不明 – http://tct.murrieta.k12.ca.us/reading/grade8/ph9/haiku/, パブリック・ドメイン, リンクによる

俳諧連歌は連歌が文芸として高まった中で、新たな動きとして誕生します。連歌本来の機知的滑稽さを求めた山崎宗鑑が俳諧をはじめました。山崎宗鑑は俳諧の祖とも呼ばれ、山崎宗鑑が記した「犬筑波集」は連歌集として有名ですが、内容は俳諧連歌となっているのです。

山崎宗鑑が始めた俳諧連歌ですが、同時期に荒木田守武「俳諧独吟百韻」を著し、山崎宗鑑と共に俳諧の祖となりました。

つまり、俳諧はもともと連歌ではあるが、連歌本来の機知に富んだ言語遊戯性を高めたものを指すのです。また、山崎宗鑑や荒木田守武が俳諧を始めたことで、俳諧への関心も高まりました。

俳諧が広まる江戸時代!俳諧の系譜を辿る

俳諧は江戸時代になると庶民の中で流行る文芸となります。江戸時代に俳諧が流行るきっかけを作ったのが松永貞徳です。松永貞徳は歌学研究が広がる江戸時代において、俳諧は連歌や和歌の入門段階としました。俳諧を学ぶことで連歌や和歌ができると考えたのです。

松永貞徳の俳諧は和歌を絶対視するものでしたが、西山宗因が自由で笑いの要素が強い俳諧を広げ、俳諧がさらに江戸の庶民にも広がっていくようになります。

松永貞徳と西山宗因の俳諧は共通点も多いことから、どちらの流派も学び、応用させる人々が現れました。その一人が松尾芭蕉になります。その後、松尾芭蕉は独自の俳諧の形を作り上げ、俳句の祖になったのです。

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