現代社会

三島由紀夫を見出した国文学者「蓮田善明」とは?その生涯や三島由紀夫との関係などを歴史好きライターがわかりやすく解説

召集令状を受け戦地へ

蓮田善明の厳格さを表すエピソードがあります。1943(昭和18)年、赴任していた高等学校の朝礼で山本五十六の戦死が伝えられ、一同で黙祷していました。その最中に、遅れてきた生徒が現れて場の空気を乱したところ、蓮田が激昂生徒を叱りつけ、さらには手も出したそうです。

1943(昭和18)年、蓮田は召集され、南方戦線へ出征することが決まります。『文藝文化』の同人が集まって、蓮田の送別会が開かれました。その後、蓮田はインドネシアへ出征。蓮田がインドネシアにいる間に『文藝文化』は終刊を迎え、その中で蓮田の歌帖『をらびうた』が発表されました

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『鴎外の方法』『預言と回想』『花のひもとき』など、蓮田善明は多くの著書を残しているが、小説は1編しか存在が確認されていないようだな。それが『有心』だ。1941年1月に、阿蘇の垂玉温泉にある旅館に1週間滞在して書いたものだぞ。小説の内容もその時の経験について書かれたもので、蓮田が阿蘇山を登る様子とその時の心情などを事細かく描いているのだ。

なぜ蓮田善明は上官を撃ったのか?

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蓮田善明は、終戦直後の異国の地で壮絶な最期を迎えます。いったい何があったのでしょうか。

上官の態度に不信感を抱く

1945(昭和20)年、蓮田善明はシンガポールで従軍していました8月15日に、蓮田はその地で玉音放送を聞くことになります。蓮田は、太平洋戦争での日本の敗戦をそこで知ることになったのです。しかし、青年将校を中心に、最後の1人まで戦おうとする機運が生まれます

そうした動きを、蓮田の上官である中条大佐が制しました蓮田は、中条大佐が許せなかったといわれます。玉音放送を聞いた中条大佐が、その時を境に態度を豹変させて、軍部や皇室などを批判したという証言もあったそうです。今となっては真偽のほどは定かではありませんが、いずれにせよ蓮田は中条大佐に不信感を抱くようになります。

終戦から4日後の事件

1945(昭和20)年8月19日、車に乗り込もうとした中条大佐を、背後から蓮田善明が撃ちます中条大佐を射殺した後、蓮田は自らのこめかみに拳銃を当て、引き金を引きました。日本が戦争に敗れてから4日後に蓮田善明は死去。当時まだ41歳でした。

田原坂の近くで育ち、若い頃に大病を患った蓮田が、独自の死生観を持っていたのは想像に難くないでしょう。また、皇国史観を重んじていた蓮田が、皇室批判をした上官を撃つことで何かを守りたかったのかもしれません。しかし、蓮田ほどの知性がある人がそのような行為に出たことを、極めて不合理であると考える人は多いはずです。

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蓮田善明には3人の息子がいるな。そのうちの2人は医師となり、熊本県にある同じ病院の経営に関わるようになったぞ。その病院が、熊本市にある慈恵病院だ。予期せぬ妊娠や赤ちゃんの将来について対応する「こうのとりのゆりかご」(通称・赤ちゃんポスト)を設置した病院として、ニュースなどでたびたび取り上げられているのを見たことがある人もいるだろう。

社会が騒然とした三島由紀夫の最期

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三島由紀夫の生涯は、蓮田善明に触発されていたといっても過言ではありません。ここからは、三島の生涯が蓮田とどのような関係があったのかを見ていくことにしましょう。

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