今回は、蓮田善明について学んでいこう。

蓮田は昭和初期から戦時中にかけて活躍した国文学者です。しかし、蓮田を語る上でかかせないのが三島由紀夫の存在でしょう。果たして、蓮田と三島にはどのような関係があったのでしょうか。
蓮田善明の生涯や三島由紀夫との関係などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

蓮田善明が『文藝文化』を創刊するまで

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はじめに、蓮田善明が生まれてから『文藝文化』を創刊するまでを一気に見ていきましょう。

熊本に生まれる

蓮田善明(はすだぜんめい)は、1904(明治37)年に熊本県で生まれました。実家は浄土真宗の寺で、父は住職でした。尋常小学校を卒業後、蓮田は熊本県立中学済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)に入学します。その頃から文学に親しむようになり、友人らと文芸雑誌を作るほどでした。

しかし、蓮田は済々黌在学中に病気を患い、半年ほど休学しました。思春期に大病にかかったことで、蓮田の独特な死生観が形成されたともいわれます。1923(大正12)年に、広島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)に入学古典文学を学び、学芸部で詩や評論などを発表していました

教員と執筆活動の両立

1927(昭和2)年に広島高等師範学校を卒業した蓮田善明は、鹿児島で陸軍の幹部候補生として入隊しました。しかし、翌年になり除隊。岐阜県の中学校(現在の高等学校に相当)で教員となりました。ほどなくして、蓮田は幼馴染みと結婚しています。

蓮田は1929(昭和4)年から長野県に転任しますが、3年後に退職し、広島文理科大学(現在の広島大学)に入学しました。というのも、蓮田は教員の仕事と並行して雑誌に評論を投稿していくうちに、向学心が芽生えたためです。在学中も蓮田は執筆活動を続け、数々の雑誌に投稿しています。

『文藝文化』の創刊

広島文理科大学で学んでいた蓮田善明は、清水文雄・栗山理一・池田勉の3人と国文学の同人になります。1938(昭和13)年4月に蓮田は成城高等学校(現在の成城大学)の教授となりますが、前任者である清水の後を引く継ぐ形でした。蓮田が転任してすぐに、志を同じくする4人は集まります。

蓮田の転任から3ヶ月後の7月、4人は国文学雑誌『文藝文化』を創刊。4人を代表する形で、蓮田が編集兼名義人となりました『文藝文化』は、日本の古典文学の復興を求めて出版されたものです。名だたる著者が投稿し、全70冊が1944(昭和19)年までに刊行されました。

蓮田善明が見出した三島由紀夫

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蓮田善明は、三島由紀夫が世に出るのを後押しした重要人物といっても過言ではありません。果たして蓮田は、三島の文壇デビューにどう関わったのでしょうか。

16歳の少年が書いた小説との出会い

1941(昭和16)年の夏、静岡県の伊豆で『文藝文化』の編集会議が行われました。当時学習院中等科(現在の学習院高等科)で教鞭を執っていた清水文雄から、とある小説を紹介されます当時16歳の少年が書いたもので、題名は『花ざかりの森』でした

『花ざかりの森』は、16歳の少年が書いたと思えないほど難解で観念的な作品です。全5章からなる短編小説で、語り手である「わたし」の祖先をめぐる4つの挿話が綴られています。それを読んだ蓮田らは『花ざかりの森』を絶賛し、優れた才能に出会えたことを祝福し合いました

「三島由紀夫」の誕生

蓮田善明らが絶賛した『花ざかりの森』は、すぐに『文藝文化』での掲載が決まります。しかし、1つ問題がありました。それは、作者の筆名をどうするかということ。作者が当時まだ16歳の少年だったため、平岡公威という本名で掲載することを懸念されたからです。

平岡少年には、「三島由紀夫」というペンネームが与えられました。少年は当初本名での掲載を希望していましたが、蓮田らの提案を受け入れて、以後終生まで「三島由紀夫」という名前で文筆活動を続けることになります。「三島」は静岡の地名から取ったとも、電話帳から無作為に選んだとも伝えられますが、はっきりとしたことはわかりません。

三島由紀夫を見出した後の蓮田善明

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三島由紀夫を見出した蓮田善明は、自らの仕事も精力的にこなすようになります。その時の様子を見ていくことにしましょう。

戦時中も精力的に評論活動

1941(昭和16)年12月8日、日本は太平洋戦争に突入しました。しかし、蓮田善明の筆が止まることはなく、むしろ執筆活動の場は広がっています。自らが関わる『文藝文化』だけでなく、『新潮』や『文學』などといった雑誌にも投稿するようになったのです。

蓮田は、天皇を中心とする皇国史観を支持していました。文学評論においても、日本古来の価値観や雅の心を重要視する傾向が見られます。特に1943(昭和18)年には、『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事記学抄』と著書を次々と発表。古代や中世の日本文学について独自の見解を示しました。

\次のページで「召集令状を受け戦地へ」を解説!/

召集令状を受け戦地へ

蓮田善明の厳格さを表すエピソードがあります。1943(昭和18)年、赴任していた高等学校の朝礼で山本五十六の戦死が伝えられ、一同で黙祷していました。その最中に、遅れてきた生徒が現れて場の空気を乱したところ、蓮田が激昂生徒を叱りつけ、さらには手も出したそうです。

1943(昭和18)年、蓮田は召集され、南方戦線へ出征することが決まります。『文藝文化』の同人が集まって、蓮田の送別会が開かれました。その後、蓮田はインドネシアへ出征。蓮田がインドネシアにいる間に『文藝文化』は終刊を迎え、その中で蓮田の歌帖『をらびうた』が発表されました

なぜ蓮田善明は上官を撃ったのか?

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蓮田善明は、終戦直後の異国の地で壮絶な最期を迎えます。いったい何があったのでしょうか。

上官の態度に不信感を抱く

1945(昭和20)年、蓮田善明はシンガポールで従軍していました8月15日に、蓮田はその地で玉音放送を聞くことになります。蓮田は、太平洋戦争での日本の敗戦をそこで知ることになったのです。しかし、青年将校を中心に、最後の1人まで戦おうとする機運が生まれます

そうした動きを、蓮田の上官である中条大佐が制しました蓮田は、中条大佐が許せなかったといわれます。玉音放送を聞いた中条大佐が、その時を境に態度を豹変させて、軍部や皇室などを批判したという証言もあったそうです。今となっては真偽のほどは定かではありませんが、いずれにせよ蓮田は中条大佐に不信感を抱くようになります。

終戦から4日後の事件

1945(昭和20)年8月19日、車に乗り込もうとした中条大佐を、背後から蓮田善明が撃ちます中条大佐を射殺した後、蓮田は自らのこめかみに拳銃を当て、引き金を引きました。日本が戦争に敗れてから4日後に蓮田善明は死去。当時まだ41歳でした。

田原坂の近くで育ち、若い頃に大病を患った蓮田が、独自の死生観を持っていたのは想像に難くないでしょう。また、皇国史観を重んじていた蓮田が、皇室批判をした上官を撃つことで何かを守りたかったのかもしれません。しかし、蓮田ほどの知性がある人がそのような行為に出たことを、極めて不合理であると考える人は多いはずです。

社会が騒然とした三島由紀夫の最期

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三島由紀夫の生涯は、蓮田善明に触発されていたといっても過言ではありません。ここからは、三島の生涯が蓮田とどのような関係があったのかを見ていくことにしましょう。

\次のページで「蓮田善明に傾倒する三島由紀夫」を解説!/

蓮田善明に傾倒する三島由紀夫

蓮田善明の言動が、三島由紀夫の生き方にも大きな影響を与えたであろうことは否定できません蓮田が出征する前に、三島に対して「日本の後のことをお前に託した」などと言ったことが事実だとすれば、なおさら三島が蓮田を常に意識していたという考えに至るはずです。そもそも、平岡公威を三島由紀夫にしたのは蓮田だったといって良いでしょう。

三島は、蓮田の自決に対して「謎はない」「なければそのほうが不思議だ」などといった感想を持っていたそうです。そのような思想が三島の作品にも表れているといえ、一例として『憂国』では青年将校とその妻の心中を描きました。さらに『憂国』は映画化され、三島本人が主演を務めています

多方面で活躍する三島由紀夫

1949(昭和24)年に初めて発表した、初めての長編小説『仮面の告白』で、三島由紀夫の小説家としての地位が確立されます。その後、『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』などの小説を次々と発表『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』といった戯曲も手掛けました

一時はノーベル文学賞の候補にまでなった三島ですが、次第に作家以外の活動にも力を入れるようになります。ボディビルや空手で体を鍛え、自衛隊には体験入隊しました。やがて、三島は民兵組織である「楯の会」を結成して、厳しい訓練を重ねるようになります。そして、1970(昭和45)年に、三島は最後の長編小説となった『豊饒の海』を書き上げました

市ヶ谷駐屯地で最期を迎える三島由紀夫

1970(昭和45)年11月25日、三島由紀夫と「楯の会」会員4名は、あらかじめ約束を取り付けていた益田兼利総監と面会するために陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ行きます面談の最中に、三島らは突然益田総監を拘束して人質としました。その後に三島はバルコニーに出て、自衛隊に決起を促す檄文を読み始めたのです。

しかし、三島の呼びかけに応える者はいませんでした。それを見届けた三島は室内に戻り、隊員1名とともに割腹自殺45歳にして三島は亡くなったのです。『蓮田善明とその死』の作者である小高根二郎へ宛てた手紙では、三島は「蓮田氏の立派な最期を羨むほかなす術を知りません」などとしたためていました

蓮田善明は三島由紀夫の生き方そのものに多大な影響を与えた

蓮田善明は、昭和初期から戦時中にかけて活躍した国文学者です。蓮田が編集を務めた『文藝文化』で、三島由紀夫は世に送り出されました。日本古来の価値観を重要視する蓮田の評論は、三島にも多大な影響を与えます。しかし、三島が蓮田から影響を受けたのは生き方そのものにもあったといえ、2人はともに40代で自ら命を落としました。

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三島由紀夫を見出した国文学者「蓮田善明」とは?その生涯や三島由紀夫との関係などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、蓮田善明について学んでいこう。

蓮田は昭和初期から戦時中にかけて活躍した国文学者です。しかし、蓮田を語る上でかかせないのが三島由紀夫の存在でしょう。果たして、蓮田と三島にはどのような関係があったのでしょうか。
蓮田善明の生涯や三島由紀夫との関係などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

蓮田善明が『文藝文化』を創刊するまで

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はじめに、蓮田善明が生まれてから『文藝文化』を創刊するまでを一気に見ていきましょう。

熊本に生まれる

蓮田善明(はすだぜんめい)は、1904(明治37)年に熊本県で生まれました。実家は浄土真宗の寺で、父は住職でした。尋常小学校を卒業後、蓮田は熊本県立中学済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)に入学します。その頃から文学に親しむようになり、友人らと文芸雑誌を作るほどでした。

しかし、蓮田は済々黌在学中に病気を患い、半年ほど休学しました。思春期に大病にかかったことで、蓮田の独特な死生観が形成されたともいわれます。1923(大正12)年に、広島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)に入学古典文学を学び、学芸部で詩や評論などを発表していました

教員と執筆活動の両立

1927(昭和2)年に広島高等師範学校を卒業した蓮田善明は、鹿児島で陸軍の幹部候補生として入隊しました。しかし、翌年になり除隊。岐阜県の中学校(現在の高等学校に相当)で教員となりました。ほどなくして、蓮田は幼馴染みと結婚しています。

蓮田は1929(昭和4)年から長野県に転任しますが、3年後に退職し、広島文理科大学(現在の広島大学)に入学しました。というのも、蓮田は教員の仕事と並行して雑誌に評論を投稿していくうちに、向学心が芽生えたためです。在学中も蓮田は執筆活動を続け、数々の雑誌に投稿しています。

『文藝文化』の創刊

広島文理科大学で学んでいた蓮田善明は、清水文雄・栗山理一・池田勉の3人と国文学の同人になります。1938(昭和13)年4月に蓮田は成城高等学校(現在の成城大学)の教授となりますが、前任者である清水の後を引く継ぐ形でした。蓮田が転任してすぐに、志を同じくする4人は集まります。

蓮田の転任から3ヶ月後の7月、4人は国文学雑誌『文藝文化』を創刊。4人を代表する形で、蓮田が編集兼名義人となりました『文藝文化』は、日本の古典文学の復興を求めて出版されたものです。名だたる著者が投稿し、全70冊が1944(昭和19)年までに刊行されました。

蓮田善明が見出した三島由紀夫

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蓮田善明は、三島由紀夫が世に出るのを後押しした重要人物といっても過言ではありません。果たして蓮田は、三島の文壇デビューにどう関わったのでしょうか。

16歳の少年が書いた小説との出会い

1941(昭和16)年の夏、静岡県の伊豆で『文藝文化』の編集会議が行われました。当時学習院中等科(現在の学習院高等科)で教鞭を執っていた清水文雄から、とある小説を紹介されます当時16歳の少年が書いたもので、題名は『花ざかりの森』でした

『花ざかりの森』は、16歳の少年が書いたと思えないほど難解で観念的な作品です。全5章からなる短編小説で、語り手である「わたし」の祖先をめぐる4つの挿話が綴られています。それを読んだ蓮田らは『花ざかりの森』を絶賛し、優れた才能に出会えたことを祝福し合いました

「三島由紀夫」の誕生

蓮田善明らが絶賛した『花ざかりの森』は、すぐに『文藝文化』での掲載が決まります。しかし、1つ問題がありました。それは、作者の筆名をどうするかということ。作者が当時まだ16歳の少年だったため、平岡公威という本名で掲載することを懸念されたからです。

平岡少年には、「三島由紀夫」というペンネームが与えられました。少年は当初本名での掲載を希望していましたが、蓮田らの提案を受け入れて、以後終生まで「三島由紀夫」という名前で文筆活動を続けることになります。「三島」は静岡の地名から取ったとも、電話帳から無作為に選んだとも伝えられますが、はっきりとしたことはわかりません。

三島由紀夫を見出した後の蓮田善明

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三島由紀夫を見出した蓮田善明は、自らの仕事も精力的にこなすようになります。その時の様子を見ていくことにしましょう。

戦時中も精力的に評論活動

1941(昭和16)年12月8日、日本は太平洋戦争に突入しました。しかし、蓮田善明の筆が止まることはなく、むしろ執筆活動の場は広がっています。自らが関わる『文藝文化』だけでなく、『新潮』や『文學』などといった雑誌にも投稿するようになったのです。

蓮田は、天皇を中心とする皇国史観を支持していました。文学評論においても、日本古来の価値観や雅の心を重要視する傾向が見られます。特に1943(昭和18)年には、『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事記学抄』と著書を次々と発表。古代や中世の日本文学について独自の見解を示しました。

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