現代社会

三島由紀夫を見出した国文学者「蓮田善明」とは?その生涯や三島由紀夫との関係などを歴史好きライターが解説

よぉ、桜木建二だ。今回は、蓮田善明について学んでいこう。

蓮田は昭和初期から戦時中にかけて活躍した国文学者だ。しかし、蓮田を語る上でかかせないのが三島由紀夫の存在だろう。果たして、蓮田と三島にはどのような関係があったのだろうか。
蓮田善明の生涯や三島由紀夫との関係などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

蓮田善明が『文藝文化』を創刊するまで

image by iStockphoto

はじめに、蓮田善明が生まれてから『文藝文化』を創刊するまでを一気に見ていきましょう。

熊本に生まれる

蓮田善明(はすだぜんめい)は、1904(明治37)年に熊本県で生まれました。実家は浄土真宗の寺で、父は住職でした。尋常小学校を卒業後、蓮田は熊本県立中学済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)に入学します。その頃から文学に親しむようになり、友人らと文芸雑誌を作るほどでした。

しかし、蓮田は済々黌在学中に病気を患い、半年ほど休学しました。思春期に大病にかかったことで、蓮田の独特な死生観が形成されたともいわれます。1923(大正12)年に、広島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)に入学古典文学を学び、学芸部で詩や評論などを発表していました

教員と執筆活動の両立

1927(昭和2)年に広島高等師範学校を卒業した蓮田善明は、鹿児島で陸軍の幹部候補生として入隊しました。しかし、翌年になり除隊。岐阜県の中学校(現在の高等学校に相当)で教員となりました。ほどなくして、蓮田は幼馴染みと結婚しています。

蓮田は1929(昭和4)年から長野県に転任しますが、3年後に退職し、広島文理科大学(現在の広島大学)に入学しました。というのも、蓮田は教員の仕事と並行して雑誌に評論を投稿していくうちに、向学心が芽生えたためです。在学中も蓮田は執筆活動を続け、数々の雑誌に投稿しています。

『文藝文化』の創刊

広島文理科大学で学んでいた蓮田善明は、清水文雄・栗山理一・池田勉の3人と国文学の同人になります。1938(昭和13)年4月に蓮田は成城高等学校(現在の成城大学)の教授となりますが、前任者である清水の後を引く継ぐ形でした。蓮田が転任してすぐに、志を同じくする4人は集まります。

蓮田の転任から3ヶ月後の7月、4人は国文学雑誌『文藝文化』を創刊。4人を代表する形で、蓮田が編集兼名義人となりました『文藝文化』は、日本の古典文学の復興を求めて出版されたものです。名だたる著者が投稿し、全70冊が1944(昭和19)年までに刊行されました。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

蓮田善明の実家近くには田原坂(たばるざか)があるな。西郷隆盛を中心とした士族と明治政府が戦った、西南戦争(西南の役)で激戦地となった場所だ。蓮田は幼い頃から、日本の歴史を身近に感じながら育ったといえるだろう。現在の田原坂は公園となり、桜やツツジの名所としても知られているぞ。

蓮田善明が見出した三島由紀夫

image by iStockphoto

蓮田善明は、三島由紀夫が世に出るのを後押しした重要人物といっても過言ではありません。果たして蓮田は、三島の文壇デビューにどう関わったのでしょうか。

16歳の少年が書いた小説との出会い

1941(昭和16)年の夏、静岡県の伊豆で『文藝文化』の編集会議が行われました。当時学習院中等科(現在の学習院高等科)で教鞭を執っていた清水文雄から、とある小説を紹介されます当時16歳の少年が書いたもので、題名は『花ざかりの森』でした

『花ざかりの森』は、16歳の少年が書いたと思えないほど難解で観念的な作品です。全5章からなる短編小説で、語り手である「わたし」の祖先をめぐる4つの挿話が綴られています。それを読んだ蓮田らは『花ざかりの森』を絶賛し、優れた才能に出会えたことを祝福し合いました

「三島由紀夫」の誕生

蓮田善明らが絶賛した『花ざかりの森』は、すぐに『文藝文化』での掲載が決まります。しかし、1つ問題がありました。それは、作者の筆名をどうするかということ。作者が当時まだ16歳の少年だったため、平岡公威という本名で掲載することを懸念されたからです。

平岡少年には、「三島由紀夫」というペンネームが与えられました。少年は当初本名での掲載を希望していましたが、蓮田らの提案を受け入れて、以後終生まで「三島由紀夫」という名前で文筆活動を続けることになります。「三島」は静岡の地名から取ったとも、電話帳から無作為に選んだとも伝えられますが、はっきりとしたことはわかりません。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

三島由紀夫の「由紀夫」については、平岡少年が和風の名前を希望したからだったみたいだな。『野菊の墓』などで知られる伊藤左千夫のような名前を求めたらしい。ちなみに「由紀」は、大嘗祭にちなんで付けられたとのことだぞ。「三島由紀夫」という名前からして、古くから日本にある様式美を求めていたともいえるだろう。

三島由紀夫を見出した後の蓮田善明

image by iStockphoto

三島由紀夫を見出した蓮田善明は、自らの仕事も精力的にこなすようになります。その時の様子を見ていくことにしましょう。

戦時中も精力的に評論活動

1941(昭和16)年12月8日、日本は太平洋戦争に突入しました。しかし、蓮田善明の筆が止まることはなく、むしろ執筆活動の場は広がっています。自らが関わる『文藝文化』だけでなく、『新潮』や『文學』などといった雑誌にも投稿するようになったのです。

蓮田は、天皇を中心とする皇国史観を支持していました。文学評論においても、日本古来の価値観や雅の心を重要視する傾向が見られます。特に1943(昭和18)年には、『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事記学抄』と著書を次々と発表。古代や中世の日本文学について独自の見解を示しました。

次のページを読む
1 2 3
Share: