現代社会

なぜ尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた?政治家としての功績や有名な演説などを歴史好きライターがわかりやすく解説

不敬罪で起訴される

1930年代から40年代にかけての日本は、軍国主義に突き進んでいました。大政翼賛会が結成され、政党は解散せざるをえない状況に。尾崎は大政翼賛会からは距離を取り、戦時中は無所属で衆議院選挙に出馬しました。しかし、翼賛政治体制協議会から推薦を受けられなかった候補者は、不利な扱いを受けることになります。

1942(昭和17)年、尾崎は旧知の仲だった候補者の応援演説を買って出ました。当時の政府は、尾崎が演説で引用して披露した川柳が不敬罪にあたるとして尾崎を告発。尾崎は東京地検に拘束されました。しかし、すぐに釈放された尾崎は選挙で当選し、その後の裁判でも無罪を勝ち取ったのです。

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尾崎行雄は所属政党が目まぐるしく変わり、しかも政治家人生の後半は無所属の議員として活動したな。そのため、長い議員生活の中で大臣となったのは2度しかない。衆議院議長や副議長、常任委員会の委員長などにもならなかったぞ。常に妥協を許さない演説でも分かる通り、尾崎は己の信念を通し続けていたということであろう。

戦後まで政治家として活躍した尾崎行雄

image by iStockphoto

明治・大正・昭和で衆議院議員だった尾崎行雄。果たして尾崎は、戦後をどう過ごしたのでしょうか。

戦後初の総選挙でもトップ当選

太平洋戦争が終結した後は、尾崎は政界から引退するつもりでした。しかし、彼の支持者が尾崎を担ぎ出し、尾崎は衆議院議員選挙に立候補することになります。選挙の結果はトップ当選でした。戦後も尾崎は衆議院議員となり、議会の長老的存在として活動を続けました

1953(昭和28)年、いわゆるバカヤロー解散に伴う総選挙にも尾崎行雄は出馬します。しかし、結果は落選。それを受けて、ついに尾崎は政界引退を決意することとなりました。衆議院選挙の当選は25回で止まりましたが、21世紀の今でもそれは史上最多となっています。

94歳まで議員を務める

尾崎行雄の議員勤続63年も史上最長で、94歳まで議員だったのも尾崎以外にいません。長年の功績を称えられた尾崎は衆議院名誉議員の第1号となり、衆議院の正面玄関に胸像が建てられました。東京都の名誉都民第1号となったのも、かつて東京市長だった尾崎でした。名誉都民となった翌年の1953(昭和28)年に、尾崎は亡くなりました。

尾崎行雄にまつわる記念館は全国各地にあります。神奈川県相模原市と三重県伊勢市にあるのが「尾崎咢堂記念館」です。神奈川県相模原市は尾崎の生まれ故郷で、尾崎が住んだ屋敷跡に記念館が建ちました。三重県伊勢市は尾崎が一時住まいを移した地で、市内には尾崎を祭神とする合格神社もあります。

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のちに総理大臣となる三木武夫は、国会で尾崎行雄と同じ控室になったことがあったぞ。当時の最年長議員(尾崎)と最年少議員(三木)の組み合わせは、新聞などでしばしば取り上げられていたのだ。その後、三木武夫は衆議院議員を50年以上務めて、衆議院名誉議員の称号を得たな。衆議院には、尾崎行雄と三木武夫の胸像が並ぶことになったのだ。

尾崎行雄は明治から昭和まで日本の憲政を支え続けた

尾崎行雄の舌鋒鋭い演説は、大正デモクラシーの進展を求める人々を魅了しました。遠因的ではありますが、尾崎の演説で第3次桂太郎内閣が総辞職に追い込まれるほどでした。妥協なき政治姿勢は有権者に支持されて、尾崎は衆議院議員選挙連続当選25回と議員勤続63年という、とてつもない偉業を成し遂げました。常に己の信念を貫き通す尾崎行雄の政治姿勢を、今の政治家も見習うべきではないでしょうか。

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