
なぜ尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた?政治家としての功績や有名な演説などを歴史好きライターがわかりやすく解説
なぜ尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれたのか?

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尾崎行雄が「憲政の神様」と呼ばれるようになったきっかけが、第一次護憲運動での活躍ぶりです。ここでは、その時の様子について見ていくことにしましょう。
桂園時代と第一次護憲運動
尾崎行雄が東京市長を務めた期間は、折しも桂園時代と呼ばれていました。桂園時代とは、西園寺公望と桂太郎の2人が交互に首相となっていた時代です。安定した政権基盤を持つ2人には特に強力な対立候補がいませんでした。衆議院は解散されることがなく、2回続けて総選挙が任期満了に伴って行われました。
陸軍大臣の後継者問題が原因で第2次西園寺公望内閣が総辞職すると、代わって第3次桂太郎内閣が成立しました。しかし、政府による軍備拡張を推進する動きに対して反発する声が高まります。さらに、憲政の擁護を要求する声や、藩閥政治に反発する声も加わりました。それらの動きは、やがて第一次護憲運動として広がりを見せたのです。
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脚光を浴びることになった桂太郎への弾劾演説
第一次護憲運動に加わっていたのは、対立する野党や新聞記者だけではありませんでした。日露戦争後の重税に苦しむ民衆なども参加したのです。各地で演説会が開かれ、尾崎行雄もそれに参加していました。桂太郎内閣は、新党結成や対立勢力の切り崩し工作などで対抗しようと試みます。
尾崎は、国会で桂太郎に対する弾劾演説を行いました。その中で、尾崎は桂のことを「常に玉座の陰に隠れて政敵を狙撃するがごとき挙動を取っている」と批判したのです。やがて、尾崎の意見に共鳴した多くの民衆が、国会議事堂を取り囲むようになります。その結果、第3次桂内閣は2ヶ月もたずに総辞職へ追い込まれました。
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大正政変後の尾崎行雄

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大正デモクラシーで「憲政の神様」として名を挙げた尾崎行雄は、その後も独自の議員生活を送ります。いったいそれは、どのようなものだったでしょうか。
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軍縮論者となる
1914(大正3)年に第2次大隈重信内閣が成立すると、尾崎行雄は司法大臣として入閣します。当時は三権分立が確立されていなかったために存在した役職で、現在の法務大臣に近かったいえるでしょう。1916(大正5)年には、加藤高明を総裁とする憲政会の創立に参加。尾崎は筆頭総務として、新しくできた政党を支えました。
1919(大正8)年、尾崎はヨーロッパ視察に出ます。そこで尾崎は、第一次世界大戦後のヨーロッパを見聞きして、それまでの思想を改めることになりました。それまではタカ派の強硬論者でしたが、一転して軍縮論者に変わります。それにより、尾崎は戦時中の政府と対立するようになったのです。
普通選挙運動に参加
大正時代の日本では、大正デモクラシーの機運が高まりを見せ、普通選挙の実現を要求する運動が盛んになります。米騒動などの形で露見した人々の生活苦への不満も、そうした機運を後押ししました。尾崎行雄もこの一連の動きを支持。普通選挙運動や婦人参政権運動を支援しました。
その一方で、普通選挙法と同時期に成立した治安維持法に対して、尾崎は反対意見を出します。さらには日本の軍国化も厳しく批判。その結果、尾崎は憲政会から除名され、議会内で孤立するようになります。それでも尾崎は己が信じる思想を貫き通して、考えを広めるために全国を遊説して回りました。
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