
なぜ尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた?政治家としての功績や有名な演説などを歴史好きライターがわかりやすく解説
第1回衆議院議員総選挙で当選
1882(明治15)年、報知新聞に在籍していた尾崎行雄は、大隈重信らがいた立憲改進党の結党に加わります。尾崎は自由民権運動に参加し、政府の条約改正交渉に反対しました。しかし、政府は自由民権運動を弾圧。保安条例を発して、尾崎を含む反対派に東京からの退去処分を下しました。
1889(明治22)年には大日本帝国憲法が公布され、翌年に衆議院選挙が行われることになります。東京から三重に移住していた尾崎は、1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙に三重県選挙区から出馬。尾崎は当選し、それ以降長きに渡り衆議院議員を務めました。
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共和演説事件
1898(明治31)年に第1次大隈重信内閣が成立し、尾崎行雄は40歳の若さで当時の文部大臣に就任しました。しかし、帝国教育会に招かれた尾崎の演説が問題視されます。日本の政治に拝金主義が蔓延しているとした尾崎の発言は、明治天皇批判にもつながり不敬にあたるとして、新聞などが批判したのです。
尾崎は責任を取って文部大臣を辞任しました。しかし、それだけで事態は収まりませんでした。事件をきっかけに、第1次大隈内閣の中心人物だった大隈重信と板垣退助の対立があらわとなります。内閣の分裂は避けられなくなり、その結果、第1次大隈内閣は半年持たずに倒れました。
東京市長になる
共和演説事件後の尾崎行雄は、日本の初代総理大臣を務めた伊藤博文と意気投合するようになります。1900(明治33)年に創立された、立憲政友会の旗揚げに参画しました。しかし、のちに伊藤と対立し、立憲政友会を離れることに。以後しばらくは、所属政党を転々とすることになります。
1903(明治36)年、尾崎は東京市長に任命されました。当時の市長は現在行われている公選制ではなく、政府から任命されるものでした。尾崎は東京市のガス・水道・電気や市電を整備して、インフラの発達に努めます。尾崎は東京市長を9年間勤め上げ、東京の発展に大きく貢献しました。
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