今回は、尾崎行雄について学んでいこう。

尾崎には「憲政の神様」という呼び名がある。なぜそのように呼ばれていたのか、知りたい人は多いでしょう。

尾崎行雄の功績や有名な演説、そして彼が「憲政の神様」と呼ばれた理由などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政界入りするまでの尾崎行雄

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まずは、生まれてから政界入りする前までの尾崎行雄について見ていくことにしましょう。

戊辰戦争を戦った父を持つ

尾崎行雄は、1858(安政5)年に、現在の神奈川県相模原市で生まれました。父は板垣退助を尊敬していた人物で、戊辰戦争の際には板垣の軍に参加していたほどでした。明治維新後に父は役人となり、尾崎も父の転任先へとついていきます。群馬県や三重県に転居した後に、尾崎は慶應義塾に入学しました。

尾崎は慶應義塾で英語を学び、塾長であった福沢諭吉に才覚を認められるようになります。しかし、慶應義塾を中退して、現在の東京大学工学部にあたる工学寮に入学しました。ところが、工学寮も1年足らずで中退。学風が合わなかったり、理化学に嫌気が差したりしたことが原因だったようです。

新聞記者としての経験を積む

尾崎行雄は学生時代から新聞に投書し、彼の論評は好評を博していました。そんな尾崎を高く評価していたのが、慶應義塾時代の恩師である福沢諭吉でした。福沢は、尾崎を新潟新聞(現在の新潟日報)の主筆に推薦します。その時、尾崎はまだ20代前半の若者でした。

尾崎は、新潟新聞の主筆を2年間務めました。その後、知人を通じて官僚の職を得ますが、明治十四年の政変により退職に追い込まれます。1882(明治15)年、尾崎は論説委員として報知新聞に加わりました。現在の報知新聞はスポーツに様変わりしましたが、尾崎の在籍時は東京五大紙の1つに数えられるほどの有力紙でした。

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政治家として歩み始める尾崎行雄

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新聞記者として活躍した後に、尾崎行雄は政治家としての一歩を踏み出すこととなります。そこからの尾崎を見てみましょう。

第1回衆議院議員総選挙で当選

1882(明治15)年、報知新聞に在籍していた尾崎行雄は、大隈重信らがいた立憲改進党の結党に加わります。尾崎は自由民権運動に参加し、政府の条約改正交渉に反対しました。しかし、政府は自由民権運動を弾圧保安条例を発して、尾崎を含む反対派に東京からの退去処分を下しました

1889(明治22)年には大日本帝国憲法が公布され、翌年に衆議院選挙が行われることになります。東京から三重に移住していた尾崎は、1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙に三重県選挙区から出馬尾崎は当選し、それ以降長きに渡り衆議院議員を務めました。

共和演説事件

1898(明治31)年に第1次大隈重信内閣が成立し、尾崎行雄は40歳の若さで当時の文部大臣に就任しました。しかし、帝国教育会に招かれた尾崎の演説が問題視されます。日本の政治に拝金主義が蔓延しているとした尾崎の発言は、明治天皇批判にもつながり不敬にあたるとして、新聞などが批判したのです。

尾崎は責任を取って文部大臣を辞任しました。しかし、それだけで事態は収まりませんでした。事件をきっかけに、第1次大隈内閣の中心人物だった大隈重信と板垣退助の対立があらわとなります。内閣の分裂は避けられなくなり、その結果、第1次大隈内閣は半年持たずに倒れました

東京市長になる

共和演説事件後の尾崎行雄は、日本の初代総理大臣を務めた伊藤博文と意気投合するようになります。1900(明治33)年に創立された、立憲政友会の旗揚げに参画しました。しかし、のちに伊藤と対立し、立憲政友会を離れることに。以後しばらくは、所属政党を転々とすることになります。

1903(明治36)年、尾崎は東京市長に任命されました。当時の市長は現在行われている公選制ではなく、政府から任命されるものでした。尾崎は東京市のガス・水道・電気や市電を整備して、インフラの発達に努めます尾崎は東京市長を9年間勤め上げ、東京の発展に大きく貢献しました。

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なぜ尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれたのか?

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尾崎行雄が「憲政の神様」と呼ばれるようになったきっかけが、第一次護憲運動での活躍ぶりです。ここでは、その時の様子について見ていくことにしましょう。

桂園時代と第一次護憲運動

尾崎行雄が東京市長を務めた期間は、折しも桂園時代と呼ばれていました。桂園時代とは、西園寺公望と桂太郎の2人が交互に首相となっていた時代です。安定した政権基盤を持つ2人には特に強力な対立候補がいませんでした。衆議院は解散されることがなく、2回続けて総選挙が任期満了に伴って行われました。

陸軍大臣の後継者問題が原因で第2次西園寺公望内閣が総辞職すると、代わって第3次桂太郎内閣が成立しました。しかし、政府による軍備拡張を推進する動きに対して反発する声が高まります。さらに、憲政の擁護を要求する声や、藩閥政治に反発する声も加わりました。それらの動きは、やがて第一次護憲運動として広がりを見せたのです。

脚光を浴びることになった桂太郎への弾劾演説

第一次護憲運動に加わっていたのは、対立する野党や新聞記者だけではありませんでした日露戦争後の重税に苦しむ民衆なども参加したのです。各地で演説会が開かれ、尾崎行雄もそれに参加していました。桂太郎内閣は、新党結成や対立勢力の切り崩し工作などで対抗しようと試みます。

尾崎は、国会で桂太郎に対する弾劾演説を行いました。その中で、尾崎は桂のことを「常に玉座の陰に隠れて政敵を狙撃するがごとき挙動を取っている」と批判したのです。やがて、尾崎の意見に共鳴した多くの民衆が、国会議事堂を取り囲むようになります。その結果、第3次桂内閣は2ヶ月もたずに総辞職へ追い込まれました

大正政変後の尾崎行雄

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大正デモクラシーで「憲政の神様」として名を挙げた尾崎行雄は、その後も独自の議員生活を送ります。いったいそれは、どのようなものだったでしょうか。

軍縮論者となる

1914(大正3)年に第2次大隈重信内閣が成立すると、尾崎行雄は司法大臣として入閣します。当時は三権分立が確立されていなかったために存在した役職で、現在の法務大臣に近かったいえるでしょう。1916(大正5)年には、加藤高明を総裁とする憲政会の創立に参加尾崎は筆頭総務として、新しくできた政党を支えました

1919(大正8)年、尾崎はヨーロッパ視察に出ます。そこで尾崎は、第一次世界大戦後のヨーロッパを見聞きして、それまでの思想を改めることになりました。それまではタカ派の強硬論者でしたが、一転して軍縮論者に変わります。それにより、尾崎は戦時中の政府と対立するようになったのです。

普通選挙運動に参加

大正時代の日本では、大正デモクラシーの機運が高まりを見せ、普通選挙の実現を要求する運動が盛んになります。米騒動などの形で露見した人々の生活苦への不満も、そうした機運を後押ししました。尾崎行雄もこの一連の動きを支持。普通選挙運動や婦人参政権運動を支援しました。

その一方で、普通選挙法と同時期に成立した治安維持法に対して、尾崎は反対意見を出します。さらには日本の軍国化も厳しく批判。その結果、尾崎は憲政会から除名され、議会内で孤立するようになります。それでも尾崎は己が信じる思想を貫き通して、考えを広めるために全国を遊説して回りました。

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不敬罪で起訴される

1930年代から40年代にかけての日本は、軍国主義に突き進んでいました。大政翼賛会が結成され、政党は解散せざるをえない状況に。尾崎は大政翼賛会からは距離を取り、戦時中は無所属で衆議院選挙に出馬しました。しかし、翼賛政治体制協議会から推薦を受けられなかった候補者は、不利な扱いを受けることになります。

1942(昭和17)年、尾崎は旧知の仲だった候補者の応援演説を買って出ました。当時の政府は、尾崎が演説で引用して披露した川柳が不敬罪にあたるとして尾崎を告発。尾崎は東京地検に拘束されました。しかし、すぐに釈放された尾崎は選挙で当選し、その後の裁判でも無罪を勝ち取ったのです。

戦後まで政治家として活躍した尾崎行雄

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明治・大正・昭和で衆議院議員だった尾崎行雄。果たして尾崎は、戦後をどう過ごしたのでしょうか。

戦後初の総選挙でもトップ当選

太平洋戦争が終結した後は、尾崎は政界から引退するつもりでした。しかし、彼の支持者が尾崎を担ぎ出し、尾崎は衆議院議員選挙に立候補することになります。選挙の結果はトップ当選でした。戦後も尾崎は衆議院議員となり、議会の長老的存在として活動を続けました

1953(昭和28)年、いわゆるバカヤロー解散に伴う総選挙にも尾崎行雄は出馬します。しかし、結果は落選。それを受けて、ついに尾崎は政界引退を決意することとなりました。衆議院選挙の当選は25回で止まりましたが、21世紀の今でもそれは史上最多となっています。

94歳まで議員を務める

尾崎行雄の議員勤続63年も史上最長で、94歳まで議員だったのも尾崎以外にいません。長年の功績を称えられた尾崎は衆議院名誉議員の第1号となり、衆議院の正面玄関に胸像が建てられました。東京都の名誉都民第1号となったのも、かつて東京市長だった尾崎でした。名誉都民となった翌年の1953(昭和28)年に、尾崎は亡くなりました。

尾崎行雄にまつわる記念館は全国各地にあります。神奈川県相模原市と三重県伊勢市にあるのが「尾崎咢堂記念館」です。神奈川県相模原市は尾崎の生まれ故郷で、尾崎が住んだ屋敷跡に記念館が建ちました。三重県伊勢市は尾崎が一時住まいを移した地で、市内には尾崎を祭神とする合格神社もあります。

尾崎行雄は明治から昭和まで日本の憲政を支え続けた

尾崎行雄の舌鋒鋭い演説は、大正デモクラシーの進展を求める人々を魅了しました。遠因的ではありますが、尾崎の演説で第3次桂太郎内閣が総辞職に追い込まれるほどでした。妥協なき政治姿勢は有権者に支持されて、尾崎は衆議院議員選挙連続当選25回と議員勤続63年という、とてつもない偉業を成し遂げました。常に己の信念を貫き通す尾崎行雄の政治姿勢を、今の政治家も見習うべきではないでしょうか。

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現代社会

なぜ尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた?政治家としての功績や有名な演説などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、尾崎行雄について学んでいこう。

尾崎には「憲政の神様」という呼び名がある。なぜそのように呼ばれていたのか、知りたい人は多いでしょう。

尾崎行雄の功績や有名な演説、そして彼が「憲政の神様」と呼ばれた理由などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政界入りするまでの尾崎行雄

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まずは、生まれてから政界入りする前までの尾崎行雄について見ていくことにしましょう。

戊辰戦争を戦った父を持つ

尾崎行雄は、1858(安政5)年に、現在の神奈川県相模原市で生まれました。父は板垣退助を尊敬していた人物で、戊辰戦争の際には板垣の軍に参加していたほどでした。明治維新後に父は役人となり、尾崎も父の転任先へとついていきます。群馬県や三重県に転居した後に、尾崎は慶應義塾に入学しました。

尾崎は慶應義塾で英語を学び、塾長であった福沢諭吉に才覚を認められるようになります。しかし、慶應義塾を中退して、現在の東京大学工学部にあたる工学寮に入学しました。ところが、工学寮も1年足らずで中退。学風が合わなかったり、理化学に嫌気が差したりしたことが原因だったようです。

新聞記者としての経験を積む

尾崎行雄は学生時代から新聞に投書し、彼の論評は好評を博していました。そんな尾崎を高く評価していたのが、慶應義塾時代の恩師である福沢諭吉でした。福沢は、尾崎を新潟新聞(現在の新潟日報)の主筆に推薦します。その時、尾崎はまだ20代前半の若者でした。

尾崎は、新潟新聞の主筆を2年間務めました。その後、知人を通じて官僚の職を得ますが、明治十四年の政変により退職に追い込まれます。1882(明治15)年、尾崎は論説委員として報知新聞に加わりました。現在の報知新聞はスポーツに様変わりしましたが、尾崎の在籍時は東京五大紙の1つに数えられるほどの有力紙でした。

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