水戸学という学問を知っているか。水戸は茨城県水戸市のことです。水戸市から生まれた学問で、それが尊王攘夷論に発展したなど想像がつかない学問です。
今回は水戸学について、中世や近世の文化が大好きな現役講師ライター明東碧吾と詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライター。専門科目の社会科は生徒からわかりやすく面白いという定評を受けている。自身も歴史好きで、史跡や文化財鑑賞を趣味で行う。

水戸学って何だ?「大日本史」編纂が独自の思想をもたらす

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水戸学は徳川御三家の1つである水戸の徳川家から始まる学問です。水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めた日本の通史をまとめる事業である「大日本史」編纂が水戸学の始まりとなります。

また、水戸学は幕末が近づくにつれて尊王攘夷の考え方が強まった学問です。水戸藩は徳川家のお膝元でありながら、桜田門外の変を起こした水戸浪士など反幕府的な動きを見せるのは水戸学の影響があります。では、どのような学問であるかを見ていきましょう。

水戸藩は徳川副将軍が治める格式高い藩?

水戸学が生まれた水戸藩は徳川頼房から始まる水戸徳川家が支配する藩でした。水戸家は徳川御三家の1つでもありますが、唯一参勤交代をしない御三家でした。水戸藩主は代々、江戸の小石川に定住し、藩政も江戸から遠隔操作で行っていました。

物価の高い江戸住まいで、家臣を二重に取り立てて、江戸での生活と藩政を両立するのに苦心した藩でもあります。また、格式を優先する江戸幕府は当初25万石としていた水戸藩を1701年には36万まで引き上げました。実質はそんなに石高がなく、生産力が低い地域でもあったのです。

また、江戸定住を行い、本家将軍の目代を担っていたため俗称として「副将軍」と呼ばれるようになりました。ただ、何事も石高に合わせたことを行うため、常に財政難に喘ぐ状況でした。

水戸黄門、「大日本史」を編纂する!

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日本語版ウィキペディアPapakuroさん, CC 表示 3.0, リンクによる

水戸学の始まりとなった「大日本史」編纂は水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めました。徳川光圀は水戸黄門としても有名ですね。徳川光圀は中国の歴史書である「史記」を読んで感銘を受けました。この出来事が「大日本史」編纂を行うきっかけとなります。

「大日本史」は紀伝体の史書を編纂して歴史を振り返ることで、物事の善悪や行動の指針にしたいという考えがあったために編纂されたのです。これは儒教の正名論の個人がいかなる役割を果たしたかを明確にして、ふさわしい「名」を与えることに基づいています。

南北朝正閏論で水戸学が誕生?徳川光圀の研究課題

徳川光圀は天皇と朝廷を深く尊び、兵庫県の湊川に楠木正成の碑を立てました。楠木正成は鎌倉末期から後醍醐天皇に仕えた武士です。尊皇を考え方の軸に「大日本史」が編纂されます。

「大日本史」編纂の中で、南北朝正閏論を研究し、南朝を正統であるとする南朝正統論を唱えました。徳川光圀以降の水戸藩は徳川御三家ではありますが水戸学を奉じる勤皇家となっていきます。

ただ、徳川光圀は武士政権を否定するわけではなく、大義名分の中で武士政権を合理化することを研究課題として「大日本史」編纂を行っていったのです。

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水戸学は時期で二つに分かれている?水戸学の形成と発展

水戸学は前期水戸学後期水戸学に分かれます。前期水戸学は水戸藩二代目藩主徳川光圀が「大日本史」を編纂し始めたことから生まれた水戸学草創期のことです。前期水戸学で尊王攘夷論の原型が作られました。

後期水戸学は水戸藩六代目藩主徳川治保から再度「大日本史」編纂が始まったことがきっかけで始まったものです。水戸藩九代目藩主徳川斉昭によって、尊王攘夷の考えが強まりました。強烈な尊王攘夷論を主軸に展開された水戸学が後期水戸学です。

徳川光圀の前期水戸学はどんな学問?

水戸学は「大日本史」編纂から生まれた尊皇的な学問でした。では、「大日本史」編纂がどのように水戸学誕生に関わっているのでしょうか。また、徳川光圀が進めた「大日本史」は南北朝正閏論以外にどのような研究がなされていたのでしょうか。「大日本史」編纂に関する内容と前期水戸学形成について見ていきましょう。

第二代水戸藩主徳川光圀とは?

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不明 - 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川光圀は水戸黄門で知られる人物です。世直しのためにお連れの者と旅をする話ですが、実際には全国を旅したという記録はありません。

徳川光圀は二代目水戸藩主として殉死の禁止を行ったり、快風丸を使って蝦夷地の探索を行ったりしました。また、「史記」を読んで感銘を受けたことから同じように紀伝体の歴史書を編纂することを考えたのです。これが「大日本史」になります。

1657年「大日本史」編纂のための部署として史局を設置して、さまざまな文献収集を行ったのです。史局ははじめ駒込にありましたが、小石川に移り、「彰考館」と名付けられ、「大日本史」の編纂を行っていきました。

「大日本史」編纂が後世に大きな影響?

「大日本史」は紀伝体の歴史書のため、天皇を中心とした人物の列伝などの史料がたくさん集められました。また、南北朝時代について南朝正統論を主張した歴史書でもあるのです。「大日本史」を編纂する中で、日本古来の考えや天皇を尊ぶ尊皇の考え方が水戸学を形成しました。

前期水戸学では幕府のあり方を儒学の大義名分から合理的に考えようとします。つまり、尊皇論を展開しますが、江戸幕府がある意義を否定的には見ないようにしたのです。尊皇の考え方は水戸学の主軸となる考え方となり、幕末の後期水戸学に反映されました。

徳川斉昭の改革が後期水戸学を呼ぶ!

前期水戸学は徳川光圀が尊皇の考え方を持って、「大日本史」を編纂したことで、形成されました。日本の過去を振り返る中で、天皇を尊ぶ考え方が生まれました。そして、儒教的な考え方から幕府をどう合理的に考えるかにスポットが当てられていました。

徳川光圀が死んだ後に「大日本史」の編纂は一時ストップします。しかし、六代目水戸藩主の徳川治保から活動が再開され、強い尊王攘夷の考え方を持った九代目水戸藩主徳川斉昭の頃に後期水戸学が形成されたのです。では、後期水戸学が尊王攘夷の考え方を強めた背景を見ていきましょう。

「大日本史」編纂が再開される?

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草川重遠 Kusakawa Shigetoo - 日本肖像画図録 (京都大学文学部博物館図録) 思文閣出版 1991年, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川光圀が死んだ後、「大日本史」編纂は主導者である安積澹泊(あさかたんぱく)によって進められました。しかし、安積澹泊が死去してからは編纂が止まってしまったのです。

その後、彰考館総裁になった立原翠軒が徳川光圀百年忌に向けて校正を始めたことで、編纂事業が再度始まりました。しかし、藤田幽谷が立原翠軒と対立する史館動揺が起き、史館内の党派的な対立に発展したのです。その後、藤田幽谷は後期水戸学を形成する中心人物となります。藤田幽谷から尊王攘夷の考え方が強い後期水戸学が生まれるのです。

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会沢正志斎の「新論」で尊王攘夷論がまとまる?

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不明 - [1] (歴史から学ぶ大和魂), パブリック・ドメイン, リンクによる

会沢正志斎は10歳で後期水戸学の中心人物である藤田幽谷の私塾に入門しました。藤田幽谷からも学識が高いと評価され、彰考館の書写生になります。

1792年にロシアのラクスマンが根室に来航しました。この事件を受けて、藤田幽谷はロシアの南下政策に興味を持ち始めたのです。会沢正志斎もロシアに関する書物をまとめ、「千島異聞」を記しました。

1824年に水戸藩内でイギリスの捕鯨船が食糧を求めて、上陸する事件が起きたのです。この時のイギリス人船員と会沢正志斎は会見を行い、「暗夷問答」をまとめます。その翌年にイギリスなどの外国船来航に対する対策をまとめた「新論」を書き上げ、七代目水戸藩主徳川斉脩に提出するのです。しかし、内容が過激な尊皇攘夷論を展開していたため、出版はされませんでした。

「新論」が尊王攘夷論を展開し、藤田幽谷から始まる後期水戸学が尊王攘夷論を展開するきっかけとなりました。

徳川斉昭が弘道館を開校!尊王攘夷論を教える場?

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不明。 - 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

九代目水戸藩主となった徳川斉昭は会沢正志斎のもとで水戸学を学んだ人物でもあります。徳川斉昭が藩主に就任する際、中山信守らの門閥派が他家から養子を入れて水戸藩主にしようとする動きがありました。学者たちが反発することで、徳川斉昭が藩主になることができたのです。

徳川斉昭は門閥派を抑えると同時に藩政改革を行うため、広く人材を登用しようとします。そのために水戸学の学び場でもある弘道館を設置したのです。弘道館は徳川斉昭の腹心になる藤田幽谷の息子藤田東湖戸田忠太夫が尽力し、完成します。初代教授頭取には「新論」の会沢正志斎を抜擢しました。水戸学を広く学ぶ藩校となったのです。

水戸学は明治でも続いていた?

水戸学は尊王攘夷を中心とする考え方をしていたことから明治に入ってからも称揚されることがありました。水戸学は明治以降も重用されていたのです。特に顕著に水戸学が反映されたものとして「教育勅語」があります。では、後期水戸学が徳川斉昭以降どのようになったのかを見ていきましょう。

安政の大獄以後混迷を極めた水戸藩!

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Akimoto at the Japanese language Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

徳川斉昭は尊王攘夷の考えで藩政改革を進めました。そのことで、幕府は徳川斉昭を藩主から降ろします。しかし、ペリー来航で徳川斉昭は幕政に関わるようになり、復権したのです。攘夷論から軍事改革を藩内で進めていきました。

しかし、老中の井伊直弼と対立したために安政の大獄でまたも謹慎となってしまいます。徳川斉昭は桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、謹慎が解けるかというところで亡くなってしまいました。徳川斉昭の死後、門閥派が勢力を戻してきました。これに徳川斉昭派閥であった人たちが反発します。

勢力争いが激化する中で、藤田東湖の子の小四郎が天狗党を率いて、反乱を企てようとするのです。これを止めたのが水戸の三田の武田耕雲斎でした。しかし、小四郎から天狗党党首になることを熱望され、武田耕雲斎は党首となり、水戸藩内で挙兵をするのです。水戸藩は幕末の動乱と同時に藩内の対立が続き、疲弊することになります。

水戸学が影響して作られた教育勅語?

1890年に発せられた明治の教育方針である「教育勅語」は水戸学が大きな影響を与えたものです。なぜなら、発せられた時期が明治天皇の水戸行幸後になります。つまり、水戸で「大日本史」や水戸学の文献が参考にされた可能性もあるのです。

また、水戸学の中心用語である言葉が「教育勅語」に使用されています。その1つが「国体」です。「国体」とは天皇が永久に統治権を持つという日本独自の国柄を表す言葉になります。また、「斯道(しどう)」という言葉も水戸学の中心用語です。斯道とは日本古来の天皇の政道を指す言葉で、皇道という意味を持つ言葉になります。

水戸学が顕著に反映され、「教育勅語」が完成しました。忠君愛国を理念とした中には水戸学の尊皇の考え方が現れているのです。

歴史を振り返ることが尊王攘夷論を作る!

水戸学はもともと「大日本史」を編纂することから始まりました。「大日本史」を編纂することは日本の歴史を振り返ることです。国学も日本本来の姿を研究することで尊王攘夷へとたどり着きました。歴史を振り返ることで、日本という国の根底を見つめ直すことで、愛国心が高まり、尊王攘夷論へと向かっていったのです。

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幕末日本史江戸時代

水戸学って何だ?歴史編纂から生まれた学問?徳川家なのに尊王攘夷論を生んだ重要な学問を現役講師ライターが詳しくわかりやすく解説!

水戸学という学問を知っているか。水戸は茨城県水戸市のことです。水戸市から生まれた学問で、それが尊王攘夷論に発展したなど想像がつかない学問です。
今回は水戸学について、中世や近世の文化が大好きな現役講師ライター明東碧吾と詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライター。専門科目の社会科は生徒からわかりやすく面白いという定評を受けている。自身も歴史好きで、史跡や文化財鑑賞を趣味で行う。

水戸学って何だ?「大日本史」編纂が独自の思想をもたらす

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水戸学は徳川御三家の1つである水戸の徳川家から始まる学問です。水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めた日本の通史をまとめる事業である「大日本史」編纂が水戸学の始まりとなります。

また、水戸学は幕末が近づくにつれて尊王攘夷の考え方が強まった学問です。水戸藩は徳川家のお膝元でありながら、桜田門外の変を起こした水戸浪士など反幕府的な動きを見せるのは水戸学の影響があります。では、どのような学問であるかを見ていきましょう。

水戸藩は徳川副将軍が治める格式高い藩?

水戸学が生まれた水戸藩は徳川頼房から始まる水戸徳川家が支配する藩でした。水戸家は徳川御三家の1つでもありますが、唯一参勤交代をしない御三家でした。水戸藩主は代々、江戸の小石川に定住し、藩政も江戸から遠隔操作で行っていました。

物価の高い江戸住まいで、家臣を二重に取り立てて、江戸での生活と藩政を両立するのに苦心した藩でもあります。また、格式を優先する江戸幕府は当初25万石としていた水戸藩を1701年には36万まで引き上げました。実質はそんなに石高がなく、生産力が低い地域でもあったのです。

また、江戸定住を行い、本家将軍の目代を担っていたため俗称として「副将軍」と呼ばれるようになりました。ただ、何事も石高に合わせたことを行うため、常に財政難に喘ぐ状況でした。

水戸黄門、「大日本史」を編纂する!

水戸学の始まりとなった「大日本史」編纂は水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めました。徳川光圀は水戸黄門としても有名ですね。徳川光圀は中国の歴史書である「史記」を読んで感銘を受けました。この出来事が「大日本史」編纂を行うきっかけとなります。

「大日本史」は紀伝体の史書を編纂して歴史を振り返ることで、物事の善悪や行動の指針にしたいという考えがあったために編纂されたのです。これは儒教の正名論の個人がいかなる役割を果たしたかを明確にして、ふさわしい「名」を与えることに基づいています。

南北朝正閏論で水戸学が誕生?徳川光圀の研究課題

徳川光圀は天皇と朝廷を深く尊び、兵庫県の湊川に楠木正成の碑を立てました。楠木正成は鎌倉末期から後醍醐天皇に仕えた武士です。尊皇を考え方の軸に「大日本史」が編纂されます。

「大日本史」編纂の中で、南北朝正閏論を研究し、南朝を正統であるとする南朝正統論を唱えました。徳川光圀以降の水戸藩は徳川御三家ではありますが水戸学を奉じる勤皇家となっていきます。

ただ、徳川光圀は武士政権を否定するわけではなく、大義名分の中で武士政権を合理化することを研究課題として「大日本史」編纂を行っていったのです。

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