今回は水戸学について、中世や近世の文化が大好きな現役講師ライター明東碧吾と詳しく解説していきます。
- 水戸学って何だ?「大日本史」編纂が独自の思想をもたらす
- 水戸藩は徳川副将軍が治める格式高い藩?
- 水戸黄門、「大日本史」を編纂する!
- 南北朝正閏論で水戸学が誕生?徳川光圀の研究課題
- 水戸学は時期で二つに分かれている?水戸学の形成と発展
- 徳川光圀の前期水戸学はどんな学問?
- 第二代水戸藩主徳川光圀とは?
- 「大日本史」編纂が後世に大きな影響?
- 徳川斉昭の改革が後期水戸学を呼ぶ!
- 「大日本史」編纂が再開される?
- 会沢正志斎の「新論」で尊王攘夷論がまとまる?
- 徳川斉昭が弘道館を開校!尊王攘夷論を教える場?
- 水戸学は明治でも続いていた?
- 安政の大獄以後混迷を極めた水戸藩!
- 水戸学が影響して作られた教育勅語?
- 歴史を振り返ることが尊王攘夷論を作る!
この記事の目次
ライター/明東碧吾
現役の塾講師ライター。専門科目の社会科は生徒からわかりやすく面白いという定評を受けている。自身も歴史好きで、史跡や文化財鑑賞を趣味で行う。
水戸学って何だ?「大日本史」編纂が独自の思想をもたらす
image by iStockphoto
水戸学は徳川御三家の1つである水戸の徳川家から始まる学問です。水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めた日本の通史をまとめる事業である「大日本史」編纂が水戸学の始まりとなります。
また、水戸学は幕末が近づくにつれて尊王攘夷の考え方が強まった学問です。水戸藩は徳川家のお膝元でありながら、桜田門外の変を起こした水戸浪士など反幕府的な動きを見せるのは水戸学の影響があります。では、どのような学問であるかを見ていきましょう。
こちらの記事もおすすめ
水戸藩二代目藩主「徳川光圀(水戸黄門)」の生涯をわかりやすく歴女が解説
水戸藩は徳川副将軍が治める格式高い藩?
水戸学が生まれた水戸藩は徳川頼房から始まる水戸徳川家が支配する藩でした。水戸家は徳川御三家の1つでもありますが、唯一参勤交代をしない御三家でした。水戸藩主は代々、江戸の小石川に定住し、藩政も江戸から遠隔操作で行っていました。
物価の高い江戸住まいで、家臣を二重に取り立てて、江戸での生活と藩政を両立するのに苦心した藩でもあります。また、格式を優先する江戸幕府は当初25万石としていた水戸藩を1701年には36万まで引き上げました。実質はそんなに石高がなく、生産力が低い地域でもあったのです。
また、江戸定住を行い、本家将軍の目代を担っていたため俗称として「副将軍」と呼ばれるようになりました。ただ、何事も石高に合わせたことを行うため、常に財政難に喘ぐ状況でした。
こちらの記事もおすすめ
江戸の歴史を学ぶなら必須「参勤交代」を元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説!
水戸黄門、「大日本史」を編纂する!
日本語版ウィキペディアのPapakuroさん, CC 表示 3.0, リンクによる
水戸学の始まりとなった「大日本史」編纂は水戸藩二代目藩主の徳川光圀が始めました。徳川光圀は水戸黄門としても有名ですね。徳川光圀は中国の歴史書である「史記」を読んで感銘を受けました。この出来事が「大日本史」編纂を行うきっかけとなります。
「大日本史」は紀伝体の史書を編纂して歴史を振り返ることで、物事の善悪や行動の指針にしたいという考えがあったために編纂されたのです。これは儒教の正名論の個人がいかなる役割を果たしたかを明確にして、ふさわしい「名」を与えることに基づいています。
こちらの記事もおすすめ
【中国史】学問?思想?宗教?『儒教』とは一体何?中国史マニアがわかりやすく解説
南北朝正閏論で水戸学が誕生?徳川光圀の研究課題
徳川光圀は天皇と朝廷を深く尊び、兵庫県の湊川に楠木正成の碑を立てました。楠木正成は鎌倉末期から後醍醐天皇に仕えた武士です。尊皇を考え方の軸に「大日本史」が編纂されます。
「大日本史」編纂の中で、南北朝正閏論を研究し、南朝を正統であるとする南朝正統論を唱えました。徳川光圀以降の水戸藩は徳川御三家ではありますが水戸学を奉じる勤皇家となっていきます。
ただ、徳川光圀は武士政権を否定するわけではなく、大義名分の中で武士政権を合理化することを研究課題として「大日本史」編纂を行っていったのです。
こちらの記事もおすすめ
鎌倉幕府を滅亡させた主役の一人「楠木正成」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説
\次のページで「水戸学は時期で二つに分かれている?水戸学の形成と発展」を解説!/