
1970年代に社会を震撼させた「連続企業爆破事件」とは?事件の全容や犯行グループなどを歴史好きライターが分かりやすくわかりやすく解説
三井物産爆破事件
三菱重工爆破事件から1か月半ほどたった日の昼過ぎ、東京の三井物産本社ビル3階の電気通信室が爆破されました。死者は出ませんでしたが、駆けつけた警官を含む10人以上が負傷する惨事となっています。奇しくもその日は、読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手が引退試合を行った日でもありました。
三菱重工爆破事件ほどの規模にはならなかったのは、犯行グループが意図的にそうしたからです。犯行の予告電話は実行の20分ほど前から掛けて、避難できる余地を作りました。また、火薬の量を減らし、爆発が大きくならないように抑えたのです。三井物産本社ビルが頑丈な造りだったのも、被害が小さくなった原因となりました。
大成建設爆破事件
三井物産爆破事件から1か月後、帝人中央研究所が爆破される事件が起きました。しかし、被害は軽微なもので、世間からはあまり注目されませんでした。それでも、同じ犯行グループによる爆破事件はこれで終わりませんでした。帝人が爆破された2週間後。今度は大成建設の本社ビルが爆破されたのです。
午前10時前に爆破予告があった後、午前11時頃に本社ビル1階の駐車場が爆発しました。社員など合わせて9人が重軽傷を負う事件でした。この日は12月10日で、警視庁は歳末特別警戒を実施していました。現場を捜査していた警官らも巻き込まれることになり、警察は危機感を募らせることとなったのです。
鹿島建設爆破事件
1974(昭和49)年12月23日の未明、東京都江東区にあった鹿島建設の資材置き場が爆破されました。大成建設爆破事件からは2週間も経っていません。事件の発生が深夜で、標的となったのが本社ではなく資材置き場だったということもあり、負傷者は出ませんでした。
のちに判明したのは、犯行グループが3班に分かれて動いていたということです。大成建設爆破事件と鹿島建設爆破事件は短い期間のうちに続きましたが、別のグループがそれぞれに動いていたので実行できたとも見られます。1974年8月からは5件の連続企業爆破事件が発生しましたが、その年のうちに犯人を検挙することはできませんでした。
年が明けても収まらなった爆破事件

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1974年から始まった連続企業爆破事件は、1975年にも続きます。ここでは、連続企業爆破事件のうち、1975年に発生した爆破事件について見ていきましょう。
間組爆破事件
1975(昭和50)年2月28日午後8時、間組の本社と工場が同時に爆破されました。残業していた社員や消防士など、5人が負傷しています。さらに、本社にあったコンピューター室を破壊されたため、間組の経営に関わる重要なデータを失ってしまいました。
事件直後の記者会見で、会社側が犯行グループに屈する姿勢を見せませんでした。それが犯人側の報復行為を招くことになります。4月28日と5月4日の2度にわたり、深夜の間組作業現場を爆破。当直していた社員1人が重傷を負う事件となりました。前述した犯行グループ3班が合同で犯行を実行し、間組だけで4件も爆破事件が起きました。
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