今回は、連続企業爆破事件について学んでいこう。

大企業ばかりが狙われたこの事件は、当時の社会を震撼させた。また、当時はテロ事件が国内外で多発していた時代でもあったな。

事件の全容や犯行グループなどについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

連続企業爆破事件の発端となった三菱重工爆破事件とは?

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最初に、連続企業爆破事件の発端となった三菱重工爆破事件について見ていくことにしましょう。

三菱重工爆破事件の発生

1974(昭和49)年8月30日の正午過ぎ、当時の三菱重工業東京本社ビルに1本の電話が掛かりました。その内容は、「三菱重工前の道路に時限式爆弾を仕掛けた」というもの。その数分後に爆発が起こり、建物の1階部分が大破したばかりか、ビルの窓ガラスがすべて損壊しました。

被害は三菱重工の本社ビルだけにとどまりませんでした。道路の反対側にあった三菱電機のビルなどでも窓ガラスが割れました。停車していた車や街路樹などにも被害が及んでいます。この事件で、その時間にたまたま付近を通りがかっていた通行人を含む8人が犠牲となり、300人以上が負傷しました

三菱重工爆破事件が大惨事となった原因は?

三菱重工爆破事件が大惨事となった原因は、大きく分けて2つあるといえるでしょう。1つは、犯人が想定以上の爆薬を使用したためです。爆心地に直径約30センチ、深さ約10センチの穴が開くほどの威力がありました。一説には、列車爆破用の爆弾を転用したともいわれます。

もう1つは、爆破予告を受けた側が事態を深刻に受け止めなかったことです。三菱重工本社には、爆破までに何度も電話が掛かったとされます。しかし、電話を受けた従業員が、予告電話をいたずらだと思い込みました。そのために事件への対応が遅れ、ビルの内部にいた人が爆破までに避難できなかったのです。

三菱重工爆破事件の後も続く爆破事件

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三菱重工爆破事件の後も、企業を狙った爆破事件は続きます。それらはどのようにして起きたのでしょうか。

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三井物産爆破事件

三菱重工爆破事件から1か月半ほどたった日の昼過ぎ、東京の三井物産本社ビル3階の電気通信室が爆破されました。死者は出ませんでしたが、駆けつけた警官を含む10人以上が負傷する惨事となっています。奇しくもその日は、読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手が引退試合を行った日でもありました。

三菱重工爆破事件ほどの規模にはならなかったのは、犯行グループが意図的にそうしたからです。犯行の予告電話は実行の20分ほど前から掛けて、避難できる余地を作りました。また、火薬の量を減らし、爆発が大きくならないように抑えたのです。三井物産本社ビルが頑丈な造りだったのも、被害が小さくなった原因となりました。

大成建設爆破事件

三井物産爆破事件から1か月後、帝人中央研究所が爆破される事件が起きました。しかし、被害は軽微なもので、世間からはあまり注目されませんでした。それでも、同じ犯行グループによる爆破事件はこれで終わりませんでした。帝人が爆破された2週間後。今度は大成建設の本社ビルが爆破されたのです。

午前10時前に爆破予告があった後、午前11時頃に本社ビル1階の駐車場が爆発しました。社員など合わせて9人が重軽傷を負う事件でした。この日は12月10日で、警視庁は歳末特別警戒を実施していました。現場を捜査していた警官らも巻き込まれることになり、警察は危機感を募らせることとなったのです。

鹿島建設爆破事件

1974(昭和49)年12月23日の未明、東京都江東区にあった鹿島建設の資材置き場が爆破されました。大成建設爆破事件からは2週間も経っていません。事件の発生が深夜で、標的となったのが本社ではなく資材置き場だったということもあり、負傷者は出ませんでした

のちに判明したのは、犯行グループが3班に分かれて動いていたということです。大成建設爆破事件と鹿島建設爆破事件は短い期間のうちに続きましたが、別のグループがそれぞれに動いていたので実行できたとも見られます。1974年8月からは5件の連続企業爆破事件が発生しましたが、その年のうちに犯人を検挙することはできませんでした

年が明けても収まらなった爆破事件

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1974年から始まった連続企業爆破事件は、1975年にも続きます。ここでは、連続企業爆破事件のうち、1975年に発生した爆破事件について見ていきましょう。

間組爆破事件

1975(昭和50)年2月28日午後8時、間組の本社と工場が同時に爆破されました。残業していた社員や消防士など、5人が負傷しています。さらに、本社にあったコンピューター室を破壊されたため、間組の経営に関わる重要なデータを失ってしまいました。

事件直後の記者会見で、会社側が犯行グループに屈する姿勢を見せませんでした。それが犯人側の報復行為を招くことになります。4月28日と5月4日の2度にわたり、深夜の間組作業現場を爆破。当直していた社員1人が重傷を負う事件となりました。前述した犯行グループ3班が合同で犯行を実行し、間組だけで4件も爆破事件が起きました

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オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件

連続企業爆破事件は、ほとんどが東京で発生しました。しかし、関西にあったオリエンタルメタル社も標的にされます。しかも、これまで事件が起きた企業はすべて上場企業でしたが、オリエンタルメタル社は中小企業。犯行グループは、それまでとは明らかに標的を変えました。

4月19日の午前1時頃に、兵庫県のオリエンタルメタル本社と、東京の韓国産業経済研究所が同時に爆破されます。深夜の犯行だったため建物には人がおらず、幸い負傷者は出ませんでした。しかし、企業を狙った爆破事件は、1974年8月から11件も発生したことになります。

連続企業爆破事件の犯人と動機は?

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果たして、連続企業爆破事件の犯人と犯行の動機はどのようなものだったのでしょうか。

連続企業爆破事件の犯人は東アジア反日武装戦線

11件の連続企業爆破事件は、すべて東アジア反日武装戦線が起こしました。東アジア反日武装戦線とは、1970年代に数々の爆破事件を実行したテロ集団の名前です。メンバーは20代の若者ばかりで、普段は会社員としてごく普通の市民生活を送っているかのように装う者もいました。

東アジア反日武装戦線の凶行は、連続企業爆破事件だけではありません。1971(昭和46)年から、宗教施設などの爆破を数件実行していました。さらに、昭和天皇を暗殺するという計画も立てていたのです。計画は未遂に終わりましたが、昭和天皇が乗車するお召し列車を爆破するという、恐ろしい計画が実行される寸前でした。

東アジア反日武装戦線が犯行に及んだ理由

東アジア反日武装戦線の大元となった団体は、リーダー格の男が大学在学中に結成したものです。その団体では帝国主義時代の日本について集中的に学び、極端な反日思想を醸成させていました。その結果、反日運動のためには武力闘争も辞さないという、偏った考えに至ったのです。

連続企業爆破事件は、東アジア反日武装戦線の極端な反日思想が動機となって引き起こされました。ターゲットとなった企業はほぼすべてが大企業で、海外でも大々的に事業を展開する所ばかりでした。そのような企業を一方的に「帝国主義を支援している」と決めつけて、テロの対象としました

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連続企業爆破事件の犯人逮捕とその後への影響

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連続企業爆破事件は、最初の事件発生から半年以上も経ったのちに犯人が逮捕されます。犯人逮捕の様子と、事件が与えた影響を見ていくことにしましょう。

東アジア反日武装戦線のメンバーを一斉検挙

連続企業爆破事件では、犯行声明文が犯行グループより公開されていました。そこに書かれていた思想などから、当局は極左グループによる犯行ではないかと推測。グループのメンバーをマークするようになります。懸命な捜査を続けていくうちに、犯行につながるであろう不審な動きを感知しました。

1975(昭和50)年5月19日、東アジア反日武装戦線の主要メンバー7名とその協力者1名が一斉検挙されました。しかし、逮捕直後に1名が隠し持っていたカプセルで服毒自殺します。さらに、東アジア反日武装戦線の残るメンバー2名をすぐに検挙することができませんでした。

事件後にも多発するテロ

1970年代は、国内外で日本人によるテロ事件が多発しました。1970(昭和45)年には、共産主義者同盟赤軍派によるよど号ハイジャック事件が発生。日本で最初のハイジャック事件が起きました。1972年の連合赤軍によるあさま山荘事件は連日テレビで中継され、高視聴率を記録しています。

連続企業爆破事件が起きた後も、テロ事件は収まりませんでした。特に日本赤軍は、大使館を占拠したクアラルンプール事件や、ダッカ日航機ハイジャック事件などを起こしています。1980年代以降は潜伏したため、テログループを追跡することが困難になりました。それでも捜査は続けられ、容疑者は次々と逮捕されています。

国内外に事件の容疑者が逃亡

数々のテロ事件は、勾留中の東アジア反日武装戦線のメンバーにも影響を与えます。1975(昭和50)年のクアラルンプール事件では東アジア反日武装戦線のメンバー1名を、1977(昭和52)年のダッカ事件ではメンバー2名を、いずれも日本赤軍が釈放を要求しました。3名は釈放され、のちに日本赤軍に合流します。

海外へ逃亡した3名のうち、1名は日本に向かう旅客機内で逮捕され、裁判後に刑が確定しました。勾留されていたメンバーにも、死刑判決などが下されます。しかし、国内に逃亡した2名中1名は逮捕されましたが、残る1名は2022年現在も指名手配中です。海外に逃げた2名も、依然として国際指名手配になっています。

テロ事件は断固阻止しなければならない

1974年から75年にかけて、日本で連続企業爆破事件が発生しました。標的となったのは大企業がほとんどでしたが、犯行グループが事件を起こした動機は、常識的には理解できないものでした。事件発生から半年以上が経過して、犯行グループは逮捕されましたが、21世紀になった今も逃亡中の容疑者がいます。今も無くならないテロ事件は決して許されるものではなく、断固として阻止しなければなりません。

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現代社会

1970年代に社会を震撼させた「連続企業爆破事件」とは?事件の全容や犯行グループなどを歴史好きライターが分かりやすくわかりやすく解説

今回は、連続企業爆破事件について学んでいこう。

大企業ばかりが狙われたこの事件は、当時の社会を震撼させた。また、当時はテロ事件が国内外で多発していた時代でもあったな。

事件の全容や犯行グループなどについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

連続企業爆破事件の発端となった三菱重工爆破事件とは?

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最初に、連続企業爆破事件の発端となった三菱重工爆破事件について見ていくことにしましょう。

三菱重工爆破事件の発生

1974(昭和49)年8月30日の正午過ぎ、当時の三菱重工業東京本社ビルに1本の電話が掛かりました。その内容は、「三菱重工前の道路に時限式爆弾を仕掛けた」というもの。その数分後に爆発が起こり、建物の1階部分が大破したばかりか、ビルの窓ガラスがすべて損壊しました。

被害は三菱重工の本社ビルだけにとどまりませんでした。道路の反対側にあった三菱電機のビルなどでも窓ガラスが割れました。停車していた車や街路樹などにも被害が及んでいます。この事件で、その時間にたまたま付近を通りがかっていた通行人を含む8人が犠牲となり、300人以上が負傷しました

三菱重工爆破事件が大惨事となった原因は?

三菱重工爆破事件が大惨事となった原因は、大きく分けて2つあるといえるでしょう。1つは、犯人が想定以上の爆薬を使用したためです。爆心地に直径約30センチ、深さ約10センチの穴が開くほどの威力がありました。一説には、列車爆破用の爆弾を転用したともいわれます。

もう1つは、爆破予告を受けた側が事態を深刻に受け止めなかったことです。三菱重工本社には、爆破までに何度も電話が掛かったとされます。しかし、電話を受けた従業員が、予告電話をいたずらだと思い込みました。そのために事件への対応が遅れ、ビルの内部にいた人が爆破までに避難できなかったのです。

三菱重工爆破事件の後も続く爆破事件

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三菱重工爆破事件の後も、企業を狙った爆破事件は続きます。それらはどのようにして起きたのでしょうか。

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