日本史

源頼朝の支配を決定づけた「奥州合戦」の背景やその後の影響を元大学教員が5分で解説

よぉ、桜木建二だ。奥州合戦とは鎌倉政権の源頼朝が東北地方の支配者奥州藤原氏を相手に起こした戦いのこと。この戦いで奥州藤原氏は敗北、源頼朝は武家政権を確立した。

奥州合戦は、どのような背景のもと行われたのだろうか。それが行われたことにどんな意味があるだろうか。日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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hikosuke

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は鎌倉幕府の権力を決定づけた奥州合戦について調べてみた。

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奥州合戦とはどのような戦い?

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歌川芳虎 Utagawa Yoshitora (1836-1880) – https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art7900002/, パブリック・ドメイン, リンクによる

奥州合戦とは、文治5(1189)年の7月から8月にかけて、鎌倉政権の源頼朝が東北地方の支配者奥州藤原氏を相手に起こした戦いのことです。この戦いで奥州藤原氏は敗北、源頼朝は武家政権を確立しました。

古来、この戦争は「奥入り」もしくは「奥州合戦」と記されていましたが、明治以降は「奥州征伐」と呼ばれるようになります。1978年に歴史学者の入間田宣夫が、鎌倉幕府の側に立った呼び方だと指摘し、それからは再び「奥州合戦」と呼ばれるようになりました。

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奥州は支配権をめぐって争われた場所

奥州は現在の東北地方に該当します。古来、陸奥(むつ)と呼ばれ、ほとんど独立国といえる古代国家が存在していました。陸奥は、蝦夷(えみし)と呼ばれる民の古代王国。大和朝廷は、この地で産する馬と金を手に入れようと幾度も軍を派遣します。しかしながら、完全に征服することはできませんでした。

この地を統治したのは安倍氏、清原氏など蝦夷の血を引くといわれている族長たち。奥州陸奥の支配権をめぐって、朝廷、平氏、源氏などが入り乱れて、様々な駆け引きや争いを繰り広げてきました。源平争乱のころは、藤原清衡(きよひら)がこの地を支配していました。歴史的にこの一族は奥州藤原氏と呼ばれています。

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奥州藤原氏と京都の藤原氏の違い

そもそも奥州藤原氏は京都の藤原氏とどう違うのでしょうか。系図の上では、京都の藤原北家の魚名(うおな)という人に繋がっていますが、真偽のほどは確かではありません。藤原清衡が摂関家に賄賂を渡して、系図をごまかしたとも言われています。昔は系図の作り替えは当たり前のこと。そのため正確な系譜は分からないのです。

大和朝廷と蝦夷の戦いは律用国家のころから続いてきました。完全征服されるよりはましであると、蝦夷の族長が朝廷に従う意思を表明。俘囚(ふしゅう)と呼ばれるようになりました。俘囚は、実質的な支配権をもっており、奥州藤原氏もこの俘囚の流れを組む一族と考えられています。

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つまり、藤原氏と呼び名は同じであっても、都の藤原氏とはまったく血筋が違うんだな。てっきり、藤原氏の一部が奥州に逃げて、一大帝国を築いていたのだろ思っていたが、それは違うんだな。

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奥州合戦をもたらした頼朝の執念と因縁

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俘囚の族長である藤原氏は、この惨めな状況から脱するために、中央の権威を結びつくことによって、古代貴族の末端に繋がろうと試みました。ついに朝廷は、奥州藤原氏が率いる北方王国を正式に承認。源平争乱の最中、藤原秀衡は平氏に力を貸そうとしました。実際、平泉の兵力を頼朝攻撃に向けようとしたこともありました。しかし平氏は滅亡。源氏の世になりました。

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