現代社会

3分で簡単「川瀬巴水」なぜ海外でも人気?生い立ちや代表作も歴史好きライターが詳しくわかりやすく解説

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江戸時代では、浮世絵の人気は凄まじいものがあったようだぞ。喜多川歌麿の美人画や東洲斎写楽の役者絵など、浮世絵は飛ぶように売れたらしい。今でいえば、アイドルのポスターやブロマイドを皆が買い求めているようなものだろう。当時はまだ写真がなかったから、ポスター代わりといえる浮世絵が売れたのも当然といえば当然だろうな。

川瀬巴水の生い立ち

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ここからは、川瀬巴水が木版画家としてデビューする頃までを見ていきましょう。

組紐屋の長男として生まれる

川瀬巴水(かわせ はすい)は、1883(明治16)年に東京府芝区(現在の東京都港区)で生まれました。本名を文治郎といい、父は糸屋で組紐職人でした。文治郎は子供の頃から絵を書くのが好きで、10代のことから画家になることを志していました。日本画家の下で絵を学んだこともあります。

文治郎は画家になりたかったのですが、彼は組紐屋の長男でした。長男といえば、家業を継ぐことを期待されるものです。そのため、文治郎は家族の反対にあい、画家になることを断念することになります。成人してからは家業を継ぎましたが、まだ夢を諦めてはいませんでした。

27歳で弟子入りする

文治郎は家業を継ぎましたが、父の事業がうまくいかず、経営難に陥ります。文治郎はそれを契機とし、妹夫婦に家業を任せ、再び画家を志すようになりました。文治郎は知り合いだった鏑木清方に頼み込み、弟子入りを志願しますが、その時文治郎はすでに25歳でした。鏑木に弟子入りは断られ、洋画を描くよう勧められます

25歳にして洋画を学び始めた文治郎でしたが、洋画に馴染めず、2年で挫折しました。そこで文治郎は、再び鏑木清方に弟子入り志願します。今度は弟子入りを認められ、ついに日本画の道へ2年の修業の後、文治郎は鏑木から「巴水」の画号を与えられ、日本画家としての川瀬巴水が誕生しました

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川瀬巴水の伯父に仮名垣魯文(かながき ろぶん)がいるぞ。幕末から明治にかけて活躍した戯作者・滑稽本作家だ。十返舎一九の作品を模倣した『西洋道中膝栗毛』や、当時の庶民の生活を描写した『安愚楽鍋』などで有名だな。それらを出版した後は新聞記者となり、新聞を創刊して主筆となったり、新聞小説の土台を築いたりしたのだ。

川瀬巴水の創作活動

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木版画家となった川瀬巴水は、どのような創作活動を行っていたのでしょうか。ここでは、川瀬の後半生を見ていきましょう。

美人画から風景版画に転向

日本画家としてデビューした川瀬巴水は、当初は美人画を専門としていました師匠である鏑木清方が美人画を得意としていたこともその理由の1つでした。展覧会に出品した作品が受賞するなど、傍目からは順調な創作活動に見えました。川瀬はその頃に結婚しています。

しかし、川瀬は美人画の創作に行き詰まりを感じるようになりましたその時に出会ったのが、伊東深水の手による「近江八景」です。伊東の作品に感銘を受けた川瀬は、それ以降は新版画の制作に力を入れるようになりました。川瀬の叙情的な風景版画は、終生まで発表されることとなります。

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