今回は、川瀬巴水について学んでいこう。

川瀬は近年になり人気が再燃した版画家ですが、彼の作品は海外でも人気がとても高い。有名セレブも川瀬の作品を所有しているほどです。

川瀬巴水の生い立ちや代表作、川瀬の作品が海外でも人気がある理由などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日本における版画・浮世絵の歴史

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川瀬巴水について学ぶ前に、まずは日本における木版画や浮世絵の歴史を見ていくことにしましょう。

現存する世界最古の版画は8世紀のもの

制作年代が判明している世界最古の木版印刷物は、法隆寺などに納められている「百万塔陀羅尼」(ひゃくまんとうだらに)です。鎮護国家を祈念することを目的とし、奈良時代の西暦770年に納められました。100万基の木製小塔に、陀羅尼経という呪文のようなものを納めています。

平安時代に入ると、経典を大量に作り出すために木版画が活用されました。平安末期には、印仏(いんぶつ)や摺仏(すりぼとけ)といった、仏の姿を描いた版画も登場するようになります。鎌倉時代以降は、1枚板に文字を彫り込む整版印刷によって、漢文学や経典を印刷したものが大量に生産されました

江戸時代における浮世絵の隆盛

江戸時代初期になると、京都など関西で本屋が立ち並ぶようになります。本には木版印刷による挿絵が描かれるようになりました。関西で生まれた出版文化は、やがて江戸にもたらされます。本が庶民にも普及したことで、貸本屋や古本屋が生まれ、読み書きを教える寺子屋が増えました

17世紀後半になり、菱川師宣が浮世絵師を名乗るようになります。菱川は肉筆で挿絵を描くだけでなく、木版画も手掛けるようになりました。やがて浮世絵は1枚の絵画として独立し、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』といった芸術作品にまで昇華したのです。

明治時代に新版画が確立される

江戸時代に浮世絵は発展を遂げ、江戸の庶民に愛されるようになりました。さらに浮世絵は海外でも人気となり、ゴッホやマネ、ゴーギャンといった洋画家の作風にも影響を与えたほどです。しかし、明治時代に入り、浮世絵は急激に衰退します。西洋から活版印刷がもたらされ、木版印刷に取って代わったのが原因でした。

その状況に危惧した版画製作者らにより、明治から大正にかけて木版画を再興させようとする動きが強まりました。いわゆる新版画が生まれたのです。製版や印刷などを分業する伝統的な木版画の工程を踏襲しつつも、日本画特有の描写法を取り入れました。そのような新版画を確立した版画家の1人が、今回紹介する川瀬巴水です。

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川瀬巴水の生い立ち

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ここからは、川瀬巴水が木版画家としてデビューする頃までを見ていきましょう。

組紐屋の長男として生まれる

川瀬巴水(かわせ はすい)は、1883(明治16)年に東京府芝区(現在の東京都港区)で生まれました。本名を文治郎といい、父は糸屋で組紐職人でした。文治郎は子供の頃から絵を書くのが好きで、10代のことから画家になることを志していました。日本画家の下で絵を学んだこともあります。

文治郎は画家になりたかったのですが、彼は組紐屋の長男でした。長男といえば、家業を継ぐことを期待されるものです。そのため、文治郎は家族の反対にあい、画家になることを断念することになります。成人してからは家業を継ぎましたが、まだ夢を諦めてはいませんでした。

27歳で弟子入りする

文治郎は家業を継ぎましたが、父の事業がうまくいかず、経営難に陥ります。文治郎はそれを契機とし、妹夫婦に家業を任せ、再び画家を志すようになりました。文治郎は知り合いだった鏑木清方に頼み込み、弟子入りを志願しますが、その時文治郎はすでに25歳でした。鏑木に弟子入りは断られ、洋画を描くよう勧められます

25歳にして洋画を学び始めた文治郎でしたが、洋画に馴染めず、2年で挫折しました。そこで文治郎は、再び鏑木清方に弟子入り志願します。今度は弟子入りを認められ、ついに日本画の道へ2年の修業の後、文治郎は鏑木から「巴水」の画号を与えられ、日本画家としての川瀬巴水が誕生しました

川瀬巴水の創作活動

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木版画家となった川瀬巴水は、どのような創作活動を行っていたのでしょうか。ここでは、川瀬の後半生を見ていきましょう。

美人画から風景版画に転向

日本画家としてデビューした川瀬巴水は、当初は美人画を専門としていました師匠である鏑木清方が美人画を得意としていたこともその理由の1つでした。展覧会に出品した作品が受賞するなど、傍目からは順調な創作活動に見えました。川瀬はその頃に結婚しています。

しかし、川瀬は美人画の創作に行き詰まりを感じるようになりましたその時に出会ったのが、伊東深水の手による「近江八景」です。伊東の作品に感銘を受けた川瀬は、それ以降は新版画の制作に力を入れるようになりました。川瀬の叙情的な風景版画は、終生まで発表されることとなります。

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国内を精力的に旅して回る

川瀬巴水は、「旅する版画家」と呼ばれました全国各地を旅して回り、精力的に取材した結果を作品に反映させたからです。特に連作である「旅みやげ」は第3集まで発表され、彼の作風を確立していくこととなります。1923(大正12)年には関東大震災に被災し、多くのスケッチ画を焼失しましたが、すぐに西日本への写生旅行に出掛けました。

そんな川瀬にも、スランプといえる時期がありました。版元が「この時代の巴水はよくない」と評したほどです。しかし、当時は日本領だった朝鮮へ旅行したのをきっかけとして、大胆な構図と繊細な描写を取り戻すようになります。川瀬の創作活動は1957(昭和32)年に亡くなるまで続きました

川瀬巴水の代表作は?

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ここからは、川瀬巴水の代表的な作品について紹介していきます。果たして川瀬の作品には、どのような特徴があるのでしょうか。

塩原三部作

川瀬巴水の初期の傑作とされるのが「塩原三部作」です。琵琶湖周辺の風景を描いた伊東深水の作品「近江八景」を見ると感銘を受け、川瀬は「塩原三部作」を手掛けるようになりました。東京生まれの川瀬でしたが、幼い頃にはよく栃木県の塩原を訪れており、彼にとって塩原は慣れ親しんだ土地でした。

「塩原三部作」は、『塩原おかね路』『塩原畑下り』『塩原しほがま』の3作品からなります掛け軸のような縦長の作品からは、旅の風情などが感じられるでしょう。また、従来の版画にはないグラデーションなどの技法が導入されており、新版画の趣向が見られる作品となっています。

東京二十景

川瀬巴水が題材としたのは、旅で訪れた場所だけではありませんでした。生まれ育った東京の風景も、川瀬の作品に多く取り上げられています。川瀬が日本画に転向して間もない頃には、すでに「東京十二題」という版画のシリーズを手掛けていました。東京の四季折々の風景を、多色刷りの版画で情感豊かに表現しています。

川瀬は、1930(昭和5)年に「東京二十景」を完成させました関東大震災から復興していく東京の姿を、新版画の技法でありありと描写しています。中でも人気なのが、『芝 増上寺』です。建物の赤と雪の白が鮮やかなコントラストを形成しており、ぼかしなどの技法が効果的に使われているのは新版画ならではでしょう。

増上寺之雪

1952(昭和27)年の文部省文化財保護委員会無形文化課(当時)では、伝統的な木版技術記録を作成して、それらを永久保存することが取り決められました。伝統的木版技術保持者として制作者に選ばれたのが、川瀬巴水でした。その依頼を受けて川瀬が完成させたのが、『増上寺之雪』(増上寺の雪)となります。

川瀬が戦後に残した作品は少なく、『増上寺之雪』はそのうちの貴重な1つです。さらに、題材となった増上寺の三解脱門(さんげだつもん)は、建立から400年ほど経過する今も当時の姿を残しています。作品で見られるアングルは、現在ではビルがそびえ立っているため、制作当時の風景を再現した貴重なものといえるでしょう

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海外でも人気が高い川瀬巴水の作品

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ところで、川瀬巴水の作品は、海外でも高い人気を誇っています。その人気ぶりと、川瀬の作品が人気の理由を見てみましょう。

なぜ川瀬巴水の作品は海外でも人気なのか?

川瀬巴水の作品は、近年になり高値で取引されるようになりました。その理由の1つは、川瀬の作品が希少であることです。関東大震災では、川瀬が活動初期に描いた多くのスケッチ画が焼失しました。そして、東京大空襲により、多くの川瀬の作品を失うことになります。

川瀬の作品が国内で少ないのは、それだけが理由ではありません。川瀬の作品は海を越えて海外でも愛されるようになり、海外のコレクターも川瀬の作品を買い求めているためです。日本の技巧的な木版画は、海外でも高く評価されています。さらに、川瀬の描く近代日本の風景は、日本人ならずとも懐かしさを感じさせているようです。

スティーブ・ジョブズも所有していた

川瀬巴水の海外での評価はとても高く、葛飾北斎や歌川広重らと並び称されるほどです。「Hokusai」(北斎)・「Hiroshige」(広重)・「Hasui」(巴水)の頭文字を取って、「風景画の3H」と呼ぶ人もいます。日本国内でも、川瀬巴水は「昭和の広重」と呼ばれていました。

川瀬巴水のコレクターとして最も有名なのは、アップル社の創業者であるスティーブ・ジョブズでしょう。彼は物をあまり持たないミニマリストとしても有名でしたが、川瀬の作品は数十点も所有していました。ジョブズは10代の頃より、川瀬の作品を持っていたそうです。友人の家で川瀬の作品を目にし、譲ってくれるよう懇願したのがきっかけでした。

川瀬巴水の版画は国内外で愛されている

衰退しかけた浮世絵を再興させようと、川瀬巴水らが中心となり、新版画を確立させました。浮世絵同様に分業制を採用しつつも、時代とマッチした技法も取り入れているのが新版画の特徴です。旅先の風景を叙情豊かに描いた川瀬の作品は、日本だけにとどまらず、海外でも高い人気があります。そんな川瀬が画家になったのが20代後半からだったのは、意外に思う人も多いでしょう。

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現代社会

3分で簡単「川瀬巴水」なぜ海外でも人気?生い立ちや代表作も歴史好きライターが詳しくわかりやすく解説

川瀬巴水の生い立ち

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ここからは、川瀬巴水が木版画家としてデビューする頃までを見ていきましょう。

組紐屋の長男として生まれる

川瀬巴水(かわせ はすい)は、1883(明治16)年に東京府芝区(現在の東京都港区)で生まれました。本名を文治郎といい、父は糸屋で組紐職人でした。文治郎は子供の頃から絵を書くのが好きで、10代のことから画家になることを志していました。日本画家の下で絵を学んだこともあります。

文治郎は画家になりたかったのですが、彼は組紐屋の長男でした。長男といえば、家業を継ぐことを期待されるものです。そのため、文治郎は家族の反対にあい、画家になることを断念することになります。成人してからは家業を継ぎましたが、まだ夢を諦めてはいませんでした。

27歳で弟子入りする

文治郎は家業を継ぎましたが、父の事業がうまくいかず、経営難に陥ります。文治郎はそれを契機とし、妹夫婦に家業を任せ、再び画家を志すようになりました。文治郎は知り合いだった鏑木清方に頼み込み、弟子入りを志願しますが、その時文治郎はすでに25歳でした。鏑木に弟子入りは断られ、洋画を描くよう勧められます

25歳にして洋画を学び始めた文治郎でしたが、洋画に馴染めず、2年で挫折しました。そこで文治郎は、再び鏑木清方に弟子入り志願します。今度は弟子入りを認められ、ついに日本画の道へ2年の修業の後、文治郎は鏑木から「巴水」の画号を与えられ、日本画家としての川瀬巴水が誕生しました

川瀬巴水の創作活動

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木版画家となった川瀬巴水は、どのような創作活動を行っていたのでしょうか。ここでは、川瀬の後半生を見ていきましょう。

美人画から風景版画に転向

日本画家としてデビューした川瀬巴水は、当初は美人画を専門としていました師匠である鏑木清方が美人画を得意としていたこともその理由の1つでした。展覧会に出品した作品が受賞するなど、傍目からは順調な創作活動に見えました。川瀬はその頃に結婚しています。

しかし、川瀬は美人画の創作に行き詰まりを感じるようになりましたその時に出会ったのが、伊東深水の手による「近江八景」です。伊東の作品に感銘を受けた川瀬は、それ以降は新版画の制作に力を入れるようになりました。川瀬の叙情的な風景版画は、終生まで発表されることとなります。

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