平家についての詳細を知ろうと思ったらまずは平家物語。これは軍記物語で12巻から成立している。作者も成立時も不明。作者については諸説ある謎の多い作品です。

平家の滅亡の過程について、事実とフィクションを区分しながら日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は平家の滅亡の過程について平家物語から読み解いてみた。

平家の興隆と滅亡を語り継ぐ平家物語

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平家物語は鎌倉時代初期に原形が成立しました。作者は、徒然草226段に「信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が書いて、生仏(しょうぶつ)と呼ばれていた目の不自由な琵琶法師に語らせた」という文がありますが、事実かどうかは不明。原作者的な人はいたかもしれませんが、多くの人の手が加わったと考えられます。

平家の興隆と衰退を描く構成

6巻までは平氏(へいし)全盛のころが描かれ、7巻以降は平家の滅亡までが描かれています。藤原氏を追い落とし、栄華と権勢を極めた平氏が、たちまちのうちに西海に海の藻屑と消えた平家一門の20年に渡る栄枯盛衰の物語と言えるでしょう。

第一部は1巻から5巻まで。主人公は平清盛(たいらのきよもり)で、平家の興隆と栄華とそれが傾く過程が描かれます。第二部は、6巻から8巻までで木曽義仲が主人公。各地で蜂起した源氏に敗れた平家一門が都を落ちて行くまでが描かれています。第3部は、9巻から12巻まで。ここが平家滅亡のクライマックスとなりました。

木曽義仲は、源範頼(みなもとののりより)や義経(よしつね)よりも先に、一谷(いちのたに)から壇浦(だんのうら)まで平家を追い詰め、平家を滅亡させます。生き残ったのは清盛の娘徳子だけ。平家を滅ぼした義経も兄頼朝に殺されます。最後に「灌頂の巻」(かんじょうのまき)と呼ばれる段が付加。後白河法皇が大原野の建礼門院徳子(清盛の娘・高倉天皇后・安徳天皇母)を訪ねます。そして徳子も亡くなりました。

平家滅亡はどのように解釈されたのか

有名な冒頭の文からも感じられるのが諸行無常(しょぎょうむじょう)、因果応報(いんがおうほう)という考え方。これらは仏教思想による影響で、平家滅亡のキーワードです。諸行無常とは、世の中のすべてのものは常に変化し現われては消える、永久不燃のものはないというもの。因果広報はすべての物事には原因と結果があるという考え方です。

王朝貴族社会を打ちこわし、新しい社会を切り開く武士たちの行動と倫理観が、多くの合戦を通して生き生きと描かれました。戦の犠牲となる多くの女性たちが悲しい運命をたどる様子も描かれています。すべて壮大な仏教的なフィクション。これらは歴史的事実ではありません。

東国武士たちや御家人と呼ばれる武士階級の位置づけをどう解釈するか、その見方はさまざまに変化します。たとえば源義経を悲劇のヒーローと見た時代もありますが、無教養で残虐な男だったという解釈も。平家も、敗北した側であるため「滅亡」と美化される傾向がありますが、武士の立場からすると不満の対象です。戦を伴う政権交代とシビアに捉えたほうがいいでしょう。

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平家物語が生まれた時代

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平安時代に栄えた貴族たちは腐敗の一途をたどり、平安時代末期には武士階級がのし上がってきました。元々は貴族の護番犬だった武力集団が力を手にし、社会の大変動が地響きをあげて近づくなか、その恐怖に人々は世の無常を感じていました。優雅な王朝伝統文化に対抗する新興文化や庶民文化が登場。独自の観念や文化が追求されました。

平家滅亡を引き立たせる軍記物語の誕生

軍記物語とは、史実に基づいて合戦を素材とした文学、簡単にいうと「戦争もの」です。貴族と武士殿政権交代を背景として誕生したニュージャンル。平家物語は、ジャンル的には歴史物語の流れを引き継ぎながら、説話文学の影響を受けているという位置づけです。平家の滅亡は、世の中を震撼させる衝撃的な出来事。人々に衝撃を与えると同時に、それを題材とする創作意欲をかきたてたのでしょう。

平家の物語は軍記物語の完成体

鎌倉時代になり、保元・平治の乱を題材にした保元物語や平治物語が生れました。二つとも和漢混交体と呼ばれる、和文と漢文の混じった文体で、構想も文章も似ており、同じ作者が作ったと推測。この二つの作品は軍記物語をさらに飛躍させました。

その後に成立した平家物語は軍記物語の完成体を象徴。その影響は、のちに生まれた能・浄瑠璃。歌舞伎・御伽草子(おとぎぞうし)などさまざまな読み物にまで及んでいます。さらには今日の時代劇などの関連作品にも影響を与えているかもしれません。

平家の滅亡の特殊な広まり方

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原作は、多くの人の手により加筆され改訂されながら、琵琶法師の口述により広められました。これが、作者がはっきりしている源氏物語とはまったく違う点です。鎌倉時代に入り、武士の時代となった時代に平安時代の女性による文学は消滅。長らくのあいだ、女性作家は表舞台にあらわれません。

平家の滅亡を演出する琵琶

平家の物語は平曲(へいきょく)として多くの琵琶法師によって語り広められてきました。そのような広まり方をしたのは平家物語だけ。琵琶そして琵琶法師とはどういう位置づけの存在だったのでしょうか。

琵琶という弦楽器は、楕円形の木製の胴に4本から5本の弦を張って撥(ばち)で弾くものです。奈良時代に中国から渡来しました。源氏物語や枕草子にも登場する平安時代の定番の楽器。貴族たちの「かっこいい遊び道具」でした。

平家の語り部となった琵琶法師とは?

琵琶法師は、琵琶を弾いて物語などを語ることを職業にしていた盲目の法師。初めは仏教説話や物語を語っていましたが、鎌倉時代に入ると平曲(へいきょく)を語ることが多くなりました。

生命の危機となる合戦場面は力強く勇壮に漢語調。悲しみの場面はしっとりとした七五調で奏でられました。全体に流れる栄枯盛衰そして滅びゆく者の悲しみは、当時の殺伐とした明日も知れない時代の人々の心を捉えました。

平曲というのは、平家物語を琵琶に合わせて弾く曲(メロディー)のこと。その始まりは謎に包まれています。最初に誰が平家物語を弾き語りするようになったのでしょうか。琵琶法師にはスポンサーみたいな人物がいたのでしょうか。語りつがれる過程の詳細も不明です。

聴衆は平家の滅亡を本当に分かっていたのか

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滅びゆくもののはかなさの表現として有名なのが冒頭の一文です。決して分かりやすい文章ではありません。当時の聴衆は、平家の滅亡について、本当に理解していたのでしょうか。

平家物語の冒頭の祇園精舎とは

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり 娑羅双樹(しゃらそうず)の花の色 盛者(じょうしゃ)必衰(ひっすい)のことわりをあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜(よ)の夢のごとし たけき者も遂(つゐ)には滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ」

漢語どころか、字も読めない当時の庶民や下級武士は、祇園精舎の意味が分かったでしょうか。何を言っているか理解できたでしょうか。おそらく分かっていません。現代の私たちも、祇園とは何なのか、舞妓さんがいる京都のあの辺のことなのかな、その程度。当時も同じだったと思われます。

祇園精舎は釈迦の聖地

当時の人々の心の支えは仏教でした。意味は分からなくても、仏さまのお話というだけで有難かったのです。

祇園精舎の存在は、6世紀に仏教が伝来したのちに日本に伝わりました。古代インドの舎衛国(しゃえこく)にあり、仏陀(お釈迦様)が25年間滞在して悟りを開いたといわれる地です。沙羅の樹はインドやネパールにある植物。丸い葉っぱはお皿として使いました。聖なる樹木といわれています。

比叡山の法師たちは、琵琶法師の語る平家の悲劇を、文字を読めない民衆にも分かるような仏教説話にしようと模索。仏教用語を入れて物語を補強したのではないでしょうか。無学な人々もお寺の鐘の音なら知っています。それが鳴るたびに、鐘の声が何かを教えてくれていると感じていたのでしょう。

祇園がインドの地であることを知らなくても、鐘の声を聴くとこの世の無常を感じることはできます。平家一門の栄華と滅亡を目の当たりにした時代。「平家一門の運命は春の夜の夢のようなもの。すべては無常なのだ」と肌で感じていたのです。漢文がまったく読めなくても、仏経の難しい教えを知らなくても、琵琶法師の熱い語り口に涙をこぼしました。まさに現代の紙芝居や歌舞伎と同じ感覚です。

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平家の合戦に関係する地

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合戦のときは、平家は赤旗、源氏は白旗を掲げて戦いました。合戦の地は全国にまたがりました。そこで平氏の戦に関わる地を紹介します。

各地に点在する戦の跡地

源頼政が挙兵したのは宇治平等院。頼朝挙兵後、初めての合戦が行われたのが石橋山です。

平治軍と頼朝軍が対陣したのが富士川。木曽義仲は「牛の角に灯の付いた松明を括りつけて平治を奇襲」、源氏の残虐さがきわだつ戦が倶利伽羅峠(くりからとうげ)。義経が木曽義仲を追討したのが宇治川。木曽義仲が田に馬を乗りいれ打ち取られ、愛人の巴御前(ともえごぜん)との別れたのは、粟津の地です。

義経率いる軍は平氏を奇襲。熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)と平敦盛(あつもり)の悲劇的な死の場となったのが一の谷(いちのたに)。敗走した平氏を義経が奇襲したのが屋島。那須与一(なすのよいち)の「扇の的」の戦い、義経の「弓流し」は伝説化されており、事実ではないでしょう。

源平最後の合戦の地が壇の浦。神器とともに、清盛の妻時子、清盛の娘徳子、その子安徳天皇は入水。徳子だけが源氏に海中から引き揚げられ、平家は滅亡しました。

平家の残党は瀬戸内海の島々や遠く九州の宮崎にまで逃げましたが、源氏の追討は厳しく女子供まで殺されました。平家の返り咲きを決して許さないというのが頼朝の方針。かつて平清盛は、子どもを殺すのは忍びないと頼朝と義経の命を助けましたが、その二人が成長して清盛を追討。源頼朝は、自分自身が助けられて政権を覆したという経験から、今度は幼児であっても処刑の方針をとったのでしょう。

壇の浦の名場面

船が源氏に追われ弓矢を射かけられ、もうおしまいと思った時子(平清盛の妻)は、源氏の手に罹って死ぬよりはいいと、孫の安徳天皇を胸に抱きました。8歳の安徳天皇は「おばあ様、どこに行くの」と聞きます。時子は「ここはつらい所ですから、極楽浄土に行きましょう。海の下にも都はありますよ」と言って海に身を投げました。

とても悲しいシーンです。戦争は決して美化されてはなりません。幼い子供の命すら奪うものなのです。安徳天皇に関してはさまざまな伝説が存在。瀬戸内海の島に流れ着いた、鹿児島の最南端の村に逃げて生き延びたなどの言い伝えがありますが、本当のところは不明です。

平家の滅亡は人々の心のなかにある

源氏と平氏の戦いは政権交代。政治的な争いです。しかし当時の人々は、琵琶法師の語りを通じてそこから世の中の無常を感じ取りました。平安時代から鎌倉時代にかけての国民的関心ごとであった源氏と平氏の戦い。平家物語は平氏の滅亡と新しい時代の幕開けを宣言する書だったのかもしれませんね。

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平安時代日本史鎌倉時代

平家物語から読み解く「平家」の興隆と滅亡の過程について元大学教員が5分でわかりやすく解説

平家についての詳細を知ろうと思ったらまずは平家物語。これは軍記物語で12巻から成立している。作者も成立時も不明。作者については諸説ある謎の多い作品です。

平家の滅亡の過程について、事実とフィクションを区分しながら日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は平家の滅亡の過程について平家物語から読み解いてみた。

平家の興隆と滅亡を語り継ぐ平家物語

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平家物語は鎌倉時代初期に原形が成立しました。作者は、徒然草226段に「信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が書いて、生仏(しょうぶつ)と呼ばれていた目の不自由な琵琶法師に語らせた」という文がありますが、事実かどうかは不明。原作者的な人はいたかもしれませんが、多くの人の手が加わったと考えられます。

平家の興隆と衰退を描く構成

6巻までは平氏(へいし)全盛のころが描かれ、7巻以降は平家の滅亡までが描かれています。藤原氏を追い落とし、栄華と権勢を極めた平氏が、たちまちのうちに西海に海の藻屑と消えた平家一門の20年に渡る栄枯盛衰の物語と言えるでしょう。

第一部は1巻から5巻まで。主人公は平清盛(たいらのきよもり)で、平家の興隆と栄華とそれが傾く過程が描かれます。第二部は、6巻から8巻までで木曽義仲が主人公。各地で蜂起した源氏に敗れた平家一門が都を落ちて行くまでが描かれています。第3部は、9巻から12巻まで。ここが平家滅亡のクライマックスとなりました。

木曽義仲は、源範頼(みなもとののりより)や義経(よしつね)よりも先に、一谷(いちのたに)から壇浦(だんのうら)まで平家を追い詰め、平家を滅亡させます。生き残ったのは清盛の娘徳子だけ。平家を滅ぼした義経も兄頼朝に殺されます。最後に「灌頂の巻」(かんじょうのまき)と呼ばれる段が付加。後白河法皇が大原野の建礼門院徳子(清盛の娘・高倉天皇后・安徳天皇母)を訪ねます。そして徳子も亡くなりました。

平家滅亡はどのように解釈されたのか

有名な冒頭の文からも感じられるのが諸行無常(しょぎょうむじょう)、因果応報(いんがおうほう)という考え方。これらは仏教思想による影響で、平家滅亡のキーワードです。諸行無常とは、世の中のすべてのものは常に変化し現われては消える、永久不燃のものはないというもの。因果広報はすべての物事には原因と結果があるという考え方です。

王朝貴族社会を打ちこわし、新しい社会を切り開く武士たちの行動と倫理観が、多くの合戦を通して生き生きと描かれました。戦の犠牲となる多くの女性たちが悲しい運命をたどる様子も描かれています。すべて壮大な仏教的なフィクション。これらは歴史的事実ではありません。

東国武士たちや御家人と呼ばれる武士階級の位置づけをどう解釈するか、その見方はさまざまに変化します。たとえば源義経を悲劇のヒーローと見た時代もありますが、無教養で残虐な男だったという解釈も。平家も、敗北した側であるため「滅亡」と美化される傾向がありますが、武士の立場からすると不満の対象です。戦を伴う政権交代とシビアに捉えたほうがいいでしょう。

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