戦国時代日本史歴史

5分でわかる分国法!戦国大名の法律?それとも家訓?戦国大名が作った分国法を現役講師ライターが詳しく解説!

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朝倉孝景の「朝倉孝景条々」は「朝倉敏景十七箇条」や「英林壁書」など別名があるぞ。これは朝倉孝景が名前を変えたことに由来するんだ。もとは朝倉教景と親や祖父と同じ名前を名乗っていたんだ。当時の主君であった斯波義敏の偏諱を受けて、敏景と名前を変えたんだ。その後、教景に戻して、最終的に孝景と名乗ったのだ。死んだのちの法名が英林孝景となったことから、家法が「朝倉敏景十七箇条」や「英林壁書」とも呼ばれるんだ。

分国法ってどんな内容だった?有名な分国法三選

家法では家訓として守るべきことや大事にすることを条文にしていました。分国法になると喧嘩両成敗や連座制などの訴訟の取り決めも定められているのです。より領地支配を確実にするために戦国大名が考えた条文が出てきます。領地支配を確実にした3つの分国法を見ていきましょう。

【分国法1】領地支配政策に尽力した武田信玄の分国法

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不明 – The Japanese book “Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)”, NHK, 2007, パブリック・ドメイン, リンクによる

領地支配を確実にしていたのが、甲斐の武田氏です。中でも武田信玄は米の生産量を増やすために氾濫しやすい川に信玄堤という堤防を作りました。甲斐には金山があり、金山の採掘にも尽力することで莫大な財力を基に領地支配を行いました。

その武田信玄が制定した分国法が「甲州法度之次第」です。甲州法度之次第は「甲州式目」や「信玄家法」とも呼ばれ、全部で57条の基本法から成り立っています。

「甲州法度之次第」が分国法の中でも有名になったのが喧嘩両成敗を定めている点です。第十七条「喧嘩の事是非におよばず成敗加ふべし。(喧嘩はどちらが良い悪いに関係なく、どちらも処罰する。)」とあります。ただ、挑発に乗らなければ両成敗しないなど、むやみに処罰を加えないようにしているのです。

【分国法2】分国法最大規模の塵芥集

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仙台市博物館, パブリック・ドメイン, リンクによる

「塵芥集」は伊達家の分国法ですが、分国法の中で最大規模の171条の条文が書かれています。塵芥集の「塵」はちりやゴミを表す言葉です。ここでは多数のものという意味で使われ、さまざまな条文が規定していることを表現しています。

鎌倉時代の武家法「御成敗式目」の影響が見られると同時に刑事事件に対する規定が書かれていることが特徴です。伊達家は犯罪捜査をしないため、被害者が犯人を連れてこないといけないと定めています。

また、「塵芥集」では地頭の支配権を広く認めるようにしているので、地頭領主が農民を支配することで、農民を抑えていました。伊達家は地頭を掌握することで戦国大名としての基盤を整えたと見られているのです。

【分国法3】東国最古の分国法!今川仮名目録

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Utagawa Kuniyoshi – Ukiyo-e.org [1] and the British Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる

駿河の戦国大名今川氏の分国法が「今川仮名目録」です。今川仮名目録ははじめ今川氏親が起草しました。そのときは33条でしたが、その後今川義元仮名目録追加を制定し、21条が追加されます。

「今川仮名目録」はもともと、氏親の後継の政権安定を考えて作られた分国法です。しかし、分国法を成立させたということで戦国大名としての立場を明確にしました。また、今川義元が追加を行ったことで戦国大名としての地位を高めたとされています。

内容は土地に関する訴訟の裁判規定が中心です。今川仮名目録は先に述べた武田信玄の「甲州法度之次第」にも影響を与えたと言われています。東国最古の分国法として大きな役割を果たしたものでもあるのです。

分国法は武家法のまとめであり、日本の地方自治の原点!

分国法は鎌倉時代から続く、武家社会をまとめるための武家法を基盤にしています。武家法の集大成として各大名が領地に適した法律を作っていきました。また、領地にあった法を作ることで領地支配を確実にしたところは地方自治にも似ています。分国法から日本の地方自治の原点を見ることができるのです。

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