戦国時代に戦国大名が領国の運営をするために作った分国法を知っているか。分国法は戦国大名が領地支配をする上で重要な役割を果たしていたぞ。また、武家法を踏襲する形で作られた法律でもあることから、武家法の集大成とも言われているんです。
今回は分国法を詳しく説明するために、歴史にハマったのが毛利元就という戦国大名にも詳しい現役講師ライター明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

社会が専門教科の現役講師ライター。社会に興味を持つきっかけになったのが毛利元就の居城が実家の近くだったこと。戦国大名にも精通している。

分国法って何だ?分国法・家法・国法どれが正解?

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戦国大名が領地支配をするために作った法律が分国法です。分国法は中学校の教科書に分国法(家法)と表記されています。記述でも分国法と書いても家法と書いても正解です。しかし、分国法と家法は厳密にいうと性格が違うものになります。

また、分国法は全ての戦国大名が制定したわけではないです。分国法として紹介する法律は書物や何らかの形で現存しているものになります。

では、分国法はどのような性質があるのか見ていきましょう。

分国法には読み方がいっぱい?どれが正しい?

分国法はさまざまな読み方があります。

・分国法(教科書に載っているベターな表記)
・家法(こちらも教科書に載っている表記)
・国法(あまり見ないですが、このような表記もあります)
・戦国家法(ほぼ見ないですが、この表記もあります。)

中学・高校のテストでは分国法または家法と表記するのが一般的です。では、これらの表記に区別はあるのでしょうか。

まず、戦国大名が発した法律を戦国法といい、その中で領地内の統制のための法律が分国法です。分国法には家訓的な家法守護に由来する権利の国法に分かれています。つまり、分国法の中に家法や戦国家法、国法が含まれているのです。

分国法と家法は本当は違う?分国法の性格とは

分国法は戦国大名が領地内の訴訟を公平にするために作られたものです。分国法は鎌倉時代に作られた御成敗式目や、室町時代の建武式目をもとに作られた武家法になります。しかし、領地支配の実情に合わせて、内容を変化させているのが分国法の特徴です。

その中で家法は戦国大名の家訓を示しています。つまり、戦国大名の考えが現れているのが家法なのです。分国法の中にはこの家法の部分が中心となったものがあります。そのため、分国法のことを家法と表記することがあるのです。

また、室町時代は守護大名が領地を支配を行っていました。守護大名は領地支配をするために認められていた権限があります。守護大名としての権限を分国法の中で明文化したものが、国法となるのです。分国法は武家法を規範に戦国大名の考えと領地内の実情を合わせた領地内独特の法律になります。

分国法の内容を見てみよう1:喧嘩両成敗とは

さまざまな分国法がありますが、もとは訴訟の公平性を保つために作られました。訴訟は喧嘩が発展したものです。つまり、喧嘩をどう裁くかが、法律としての役割を果たすことになります。

分国法でよく見られるのが、喧嘩両成敗です。喧嘩両成敗とはやられた分をやり返して、等価の損害を両方に与える解決法になります。片方が損害を被ったのであればそれと同じ損害を加害者側に加えるということです。

これは武断的かつ簡潔的に訴訟を裁くことができる利点と当時の相殺主義の考え方が相まってこの解決法が行われています。

\次のページで「分国法の内容を見てみよう2:連座制とは」を解説!/

分国法の内容を見てみよう2:連座制とは

分国法の刑事罰には連座制もあります。縁座制ともいい、個人の罪を同郷に住む者や近親者にも追わせる制度です。

連座制では犯罪に対する刑罰だけでなく、年貢滞納に対しても適応している分国法もあります。年貢は領地支配で大きな財源です。農民から年貢を取り立てることは重要な課題であったことから、連座制を導入することで確実に年貢を接収しようとしたのでしょう。

戦国大名が作った法律!どんな分国法がある?

戦国大名が制定した分国法は全部で11個あります。しかし、そのうち2つは家訓的な家法です。つまり、分国法は全国の戦国大名がこぞって作っていったものではなく、領地支配の都合上必要であれば作ったものになります。では、どのような家法や分国法があるのでしょうか。見ていきましょう。

【全国の分国法1】:大名と家法をチェック!

まずは家法として分類される分国法2つを見ていきます。

「早雲寺殿廿一箇条」:北条早雲が定めたと伝えられる21か条からなる家訓
「朝倉孝景条々」:朝倉家の家訓で「朝倉敏景十七箇条」や「英林壁書」とも呼ばれる。

「早雲寺殿廿一箇条」は戦国大名の北条早雲が定められたと伝えられている家法です。小田原の後北条氏に代々伝えられた家法になります。後北条氏は豊臣秀吉が天下統一をする最後の砦となった戦国大名です。豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏は滅亡しました。

「朝倉孝景条々」は越前の戦国大名であった朝倉氏の家法です。朝倉孝景は分国法を制定して、戦国大名の初代朝倉氏となりました。朝倉氏は浅井長政と同盟を組んで織田信長と対決しましたが負けてしまい、滅亡しました。

【全国の分国法2】:大名と分国法をチェック!

続いて分国法に分類される9つを見ていきましょう。

\次のページで「家法ってどんな内容だった?戦国武将の領地支配の考え方」を解説!/

「塵芥集」:陸奥の戦国大名伊達氏の分国法で、伊達稙宗によって作られました。
「結城氏新法度」:下総の戦国武将結城氏の分国法で、結城政勝によって作られました。
「今川仮名目録」:駿河の戦国武将今川氏の分国法で、今川氏親によって作られました。
「甲州法度之次第」:甲斐の戦国大名武田氏の分国法で、武田信玄によって作られました。
「六角氏式目」:南近江の戦国武将六角氏の分国法。
「大内氏掟書」:周防の戦国大名大内氏の分国法。
「新加制式」:阿波の戦国大名三好氏の分国法で、三好家の家臣篠原長房が作りました。
「長宗我部氏掟書」:土佐の戦国大名長宗我部氏の分国法で、長宗我部元親と盛親親子によって作られました。
「相良氏法度」:肥後戦国大名相良氏の分国法で、相良為続が作りました。

戦国大名が領地支配をするために分国法を立てたことから、内容が似ている点もあれば、違う点もあります。また、領地支配を行う中で時期によって、必要内容が変化したため追加などを行っている分国法もあるのです。

ただ、六角氏の「六角氏式目」は家臣が条文を起草し、大名の権力を規制している唯一の分国法になります。六角義賢と義治父子が承認する形で定められました。六角氏の権威が下がる中で、家臣との団結をすることになったのです。

家法ってどんな内容だった?戦国武将の領地支配の考え方

家法は戦国大名の家訓のようなものでした。では、どのような考え方で領地を支配していたのでしょうか。家法に分類される2つの法律を見ながら考えていきましょう。

【家法1】早雲寺殿廿一箇条とは

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不明 - 小田原城天守閣所蔵。http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Castle/j_kouen.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

北条氏の家法である「早雲寺殿廿一箇条」は主君への奉仕の仕方をはじめ、神仏の崇拝や礼儀作法、文武の鍛錬などを21個の条文として取り上げています。各条文は漢文で短く表記してあり、簡潔明瞭な家法です。

中でも十七条では友人との付き合いについて言及しています。「可撰朋友事」と言って、友とする者はよく選ぶことと条文に規定し、友人を選ぶ大切さを訴えているのです。また、十二条で「讀書事」(書を読むこと)や十五条の「可学歌道事」(歌道を学び品性を養うこと)と述べ、学問の重要性を訴えた上で、二十一条で「文武弓馬道事」(文武両道を旨とすること)と文武両道を大事にするように伝えています。

【家法2】朝倉孝景条々とは

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Unknown. 不明。 - Owned by Shingetsu-ji in Fukui, Fukui. 福井県福井市心月寺蔵。(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/B16/B161.htm), パブリック・ドメイン, リンクによる

「朝倉孝景条々」は天下一の極悪人とも呼ばれる朝倉孝景が作った朝倉家の家法です。朝倉孝景は甘露寺親長の日記では天下悪事始行の張本と評されています。

朝倉孝景が極悪人と言われるのは性格が合理的だったことが原因です。その性格は家法の中でも反映されています。「朝倉家に於ては宿老を定むべからず。その身の器用忠節によりて申し付くべき事」と述べ、実力主義を採用して世襲制を廃止しているのです。戦国武将は家柄を存続することに注力していました。つまり、この内容は当時の社会からするとかなり革新的な内容になるのです。

また、「名作之刀さのみ被好間敷候,其故は万疋之太刀を持たり共百筋之鑓には勝間敷候,万疋を以て百筋之鑓を求百人為持候は一方は可防候。」と述べ、高価な武具を買うのではなく、同じお金で実用性のある武器を多く買うことで倹約を呼びかけました。

朝倉孝景の合理的な性格が反映された分国法になっています。

\次のページで「分国法ってどんな内容だった?有名な分国法三選」を解説!/

分国法ってどんな内容だった?有名な分国法三選

家法では家訓として守るべきことや大事にすることを条文にしていました。分国法になると喧嘩両成敗や連座制などの訴訟の取り決めも定められているのです。より領地支配を確実にするために戦国大名が考えた条文が出てきます。領地支配を確実にした3つの分国法を見ていきましょう。

【分国法1】領地支配政策に尽力した武田信玄の分国法

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不明 - The Japanese book "Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)", NHK, 2007, パブリック・ドメイン, リンクによる

領地支配を確実にしていたのが、甲斐の武田氏です。中でも武田信玄は米の生産量を増やすために氾濫しやすい川に信玄堤という堤防を作りました。甲斐には金山があり、金山の採掘にも尽力することで莫大な財力を基に領地支配を行いました。

その武田信玄が制定した分国法が「甲州法度之次第」です。甲州法度之次第は「甲州式目」や「信玄家法」とも呼ばれ、全部で57条の基本法から成り立っています。

「甲州法度之次第」が分国法の中でも有名になったのが喧嘩両成敗を定めている点です。第十七条「喧嘩の事是非におよばず成敗加ふべし。(喧嘩はどちらが良い悪いに関係なく、どちらも処罰する。)」とあります。ただ、挑発に乗らなければ両成敗しないなど、むやみに処罰を加えないようにしているのです。

【分国法2】分国法最大規模の塵芥集

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仙台市博物館, パブリック・ドメイン, リンクによる

「塵芥集」は伊達家の分国法ですが、分国法の中で最大規模の171条の条文が書かれています。塵芥集の「塵」はちりやゴミを表す言葉です。ここでは多数のものという意味で使われ、さまざまな条文が規定していることを表現しています。

鎌倉時代の武家法「御成敗式目」の影響が見られると同時に刑事事件に対する規定が書かれていることが特徴です。伊達家は犯罪捜査をしないため、被害者が犯人を連れてこないといけないと定めています。

また、「塵芥集」では地頭の支配権を広く認めるようにしているので、地頭領主が農民を支配することで、農民を抑えていました。伊達家は地頭を掌握することで戦国大名としての基盤を整えたと見られているのです。

【分国法3】東国最古の分国法!今川仮名目録

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Utagawa Kuniyoshi - Ukiyo-e.org [1] and the British Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる

駿河の戦国大名今川氏の分国法が「今川仮名目録」です。今川仮名目録ははじめ今川氏親が起草しました。そのときは33条でしたが、その後今川義元仮名目録追加を制定し、21条が追加されます。

「今川仮名目録」はもともと、氏親の後継の政権安定を考えて作られた分国法です。しかし、分国法を成立させたということで戦国大名としての立場を明確にしました。また、今川義元が追加を行ったことで戦国大名としての地位を高めたとされています。

内容は土地に関する訴訟の裁判規定が中心です。今川仮名目録は先に述べた武田信玄の「甲州法度之次第」にも影響を与えたと言われています。東国最古の分国法として大きな役割を果たしたものでもあるのです。

分国法は武家法のまとめであり、日本の地方自治の原点!

分国法は鎌倉時代から続く、武家社会をまとめるための武家法を基盤にしています。武家法の集大成として各大名が領地に適した法律を作っていきました。また、領地にあった法を作ることで領地支配を確実にしたところは地方自治にも似ています。分国法から日本の地方自治の原点を見ることができるのです。

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戦国時代日本史歴史

3分で簡単分国法!戦国大名の法律?それとも家訓?戦国大名が作った分国法を現役講師ライターが詳しくわかりやすく解説!

戦国時代に戦国大名が領国の運営をするために作った分国法を知っているか。分国法は戦国大名が領地支配をする上で重要な役割を果たしていたぞ。また、武家法を踏襲する形で作られた法律でもあることから、武家法の集大成とも言われているんです。
今回は分国法を詳しく説明するために、歴史にハマったのが毛利元就という戦国大名にも詳しい現役講師ライター明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

社会が専門教科の現役講師ライター。社会に興味を持つきっかけになったのが毛利元就の居城が実家の近くだったこと。戦国大名にも精通している。

分国法って何だ?分国法・家法・国法どれが正解?

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戦国大名が領地支配をするために作った法律が分国法です。分国法は中学校の教科書に分国法(家法)と表記されています。記述でも分国法と書いても家法と書いても正解です。しかし、分国法と家法は厳密にいうと性格が違うものになります。

また、分国法は全ての戦国大名が制定したわけではないです。分国法として紹介する法律は書物や何らかの形で現存しているものになります。

では、分国法はどのような性質があるのか見ていきましょう。

分国法には読み方がいっぱい?どれが正しい?

分国法はさまざまな読み方があります。

・分国法(教科書に載っているベターな表記)
・家法(こちらも教科書に載っている表記)
・国法(あまり見ないですが、このような表記もあります)
・戦国家法(ほぼ見ないですが、この表記もあります。)

中学・高校のテストでは分国法または家法と表記するのが一般的です。では、これらの表記に区別はあるのでしょうか。

まず、戦国大名が発した法律を戦国法といい、その中で領地内の統制のための法律が分国法です。分国法には家訓的な家法守護に由来する権利の国法に分かれています。つまり、分国法の中に家法や戦国家法、国法が含まれているのです。

分国法と家法は本当は違う?分国法の性格とは

分国法は戦国大名が領地内の訴訟を公平にするために作られたものです。分国法は鎌倉時代に作られた御成敗式目や、室町時代の建武式目をもとに作られた武家法になります。しかし、領地支配の実情に合わせて、内容を変化させているのが分国法の特徴です。

その中で家法は戦国大名の家訓を示しています。つまり、戦国大名の考えが現れているのが家法なのです。分国法の中にはこの家法の部分が中心となったものがあります。そのため、分国法のことを家法と表記することがあるのです。

また、室町時代は守護大名が領地を支配を行っていました。守護大名は領地支配をするために認められていた権限があります。守護大名としての権限を分国法の中で明文化したものが、国法となるのです。分国法は武家法を規範に戦国大名の考えと領地内の実情を合わせた領地内独特の法律になります。

分国法の内容を見てみよう1:喧嘩両成敗とは

さまざまな分国法がありますが、もとは訴訟の公平性を保つために作られました。訴訟は喧嘩が発展したものです。つまり、喧嘩をどう裁くかが、法律としての役割を果たすことになります。

分国法でよく見られるのが、喧嘩両成敗です。喧嘩両成敗とはやられた分をやり返して、等価の損害を両方に与える解決法になります。片方が損害を被ったのであればそれと同じ損害を加害者側に加えるということです。

これは武断的かつ簡潔的に訴訟を裁くことができる利点と当時の相殺主義の考え方が相まってこの解決法が行われています。

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