3分で簡単「虎ノ門事件」動機は何?事件に関わった人物や社会への影響などを歴史好きライターがわかりやすく解説
第二次山本権兵衛内閣の総辞職
虎ノ門事件が起きた当日に、難波大助の父・作之進は衆議院議員を辞職しました。それ以来、作之進は地元の山口県に戻り、終生まで蟄居します。虎ノ門事件で責任を取った者は多く、時の警視総監や警視庁警務部長(のちに読売新聞社主となる正力松太郎)らが辞職しました。難波大助の母校の校長や担任までもが退職に追い込まれています。
そして、政権を担っていた第二次山本権兵衛内閣は、事件の責任を取って総辞職しました。皇室関係者の襲撃事件は、それほど当時の人々にとって衝撃的なものだったのです。事件の当日に内閣総辞職を表明しましたが、突然の表明だったこともあり、次の清浦奎吾内閣が成立したのは年が明けてからでした。
第二次護憲運動に発展
虎ノ門事件の責任を取る形で山本権兵衛が総理を辞任して、その後を引き継いだのが清浦奎吾でした。枢密院の議長だった清浦は、貴族院から人材を集めて組閣。政党の意向は反映させない超然主義というスタンスを取っていました。しかし、その方針に護憲三派が反発しました。
立憲政友会・憲政会・革新倶楽部からなる護憲三派は、政党を顧みない清浦内閣を猛然と批判。衆議院の解散に追い込むと、総選挙で護憲三派が過半数の議席を獲得しました。この、第二次護憲運動により、清浦内閣はわずか5か月で倒れました。その後に加藤高明内閣が成立し、2年ぶりに政党内閣が成立することとなったのです。
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虎ノ門事件は時の政権を揺るがすこととなった
社会問題に憤りを感じていた若者の独り善がりな動機で、裕仁親王が襲撃されるという虎ノ門事件は発生しました。幸いなことに、裕仁親王に大きな被害は及びませんでした。ですが、虎ノ門事件により、多くの要人が退職を余儀なくされます。そして、山本権兵衛首相も辞任に追い込まれ、その後の第二次護憲運動にまで発展したのです。