3分で簡単「虎ノ門事件」動機は何?事件に関わった人物や社会への影響などを歴史好きライターがわかりやすく解説
父は衆議院議員
虎ノ門事件において、加害者となったのは難波大助という男性でした。事件当時はまだ24歳になったばかりの若者で、死刑判決が下されたのはその翌年、25歳の時になります。難波は1899(明治32)年に、山口県熊毛郡周防村(現在の光市)で生まれました。
祖先は長州藩の家臣で、実家は名家でした。難波大助の父は、衆議院議員を務めた難波作之進です。幼少の頃の難波大助は、尊王攘夷主義者だった父の影響で、むしろ天皇中心主義の思想を持っていました。しかし、学生時代に教師から理不尽な仕打ちを受けたことがきっかけで、難波の思想に変化が芽生えたとされます。
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社会問題への傾倒
1919(大正7)年、受験がうまくいかなかった難波大助は上京し、予備校に通い始めます。東京での住まいの近くに日雇い労働者が多く集まる街があり、そこで難波は貧困階級の現状を目の当たりにしたのです。その頃より、難波は社会問題に大きな関心を寄せるようになります。大逆事件の裁判記事などを読み漁っていました。
難波は浪人生活後に早稲田第一高等学院へ入学しましたが、1年で退学。日雇い労働者として暮らすようになります。彼の周囲では、労働問題や社会問題が間近で起きていました。そして、関東大震災後に起きた社会主義者や無政府主義者への弾圧事件に対して、難波は怒りを覚えるようになったのです。
御料車へ発砲
1923(大正12)年12月27日、裕仁親王を乗せた御料車は国会に向かっていました。第48帝国通常議会の開院式に、裕仁親王が出席するためです。御料車が東京の虎ノ門(現在の港区虎ノ門)に差し掛かった頃、車が銃弾を受けました。難波大助が持っていた、ステッキ状に仕込まれた銃により狙撃されたためです。
弾丸を受けた御料車のガラスは割れ、侍従長は顔を負傷しましたが、幸いなことに裕仁親王は無事でした。難波は「革命万歳」と叫びながら犯行現場から逃げたとされます。しかし、難波はその場で取り押さえられて逮捕。難波の暗殺計画は、未遂のまま終わりました。
裕仁親王が標的となった理由は?
関東大震災が発生した後の無政府主義者や社会主義者への弾圧は、難波大助を義憤へと駆り立てました。しかし、その方法は独り善がりで、明らかに間違っていたと言わざるをえません。皇室を打倒すれば弾圧を中止できるという誤った考えが、難波に事件を起こさせました。いつの時代でも、テロ行為は許容できるものではありません。
もし、事件当時に皇室を標的とするのであれば、大正天皇が真っ先にその対象となったはずです。しかし、その時大正天皇は病気療養中。裕仁親王が摂政として公務を代行していました。そこで、難波は裕仁親王を標的とする事件を企てるようになったのです。
逮捕の翌年に死刑判決
明治時代に制定された旧刑法には、大逆罪というものが規定されていました。天皇や皇太子などへ危害を加えた場合に成立する罪で、必ず死刑が言い渡されるものです。また、未遂に終わった場合や準備・陰謀などの段階でも、既遂犯と同じ扱いにされました。つまり、難波大助が有罪と認定されれば死刑判決以外ありえませんでした。
難波に対しては、恩赦による減刑も計画されていました。しかし、難波は法廷で自己の正当性を主張。新聞社に犯行計画を送付し、友人に絶縁状を送りつけるなどしていたため、自ら言い逃れができない状況に追い込んでいたのです。1924(大正13)年11月、難波に死刑が宣告され、2日後には刑が執行されました。
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