今回は、虎ノ門事件について学んでいこう。

皇族関係者が襲撃された事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えた。しかも、事件の犯人は若者だったのです。

犯人が虎ノ門事件を起こした動機や、事件が社会に与えた影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

虎ノ門事件が起きる前の日本は?

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まずは、虎ノ門事件が発生する前の日本について見ていくことにしましょう。

関東大震災の発生

虎ノ門事件の3か月ほど前、1923(大正12)年9月1日に、関東南部を震源とする地震が発生しました。最大震度7の大地震が、昼時の首都圏に発生したのです。死者・行方不明者は合計10万人以上にも及び、明治・大正時代で最大級の地震被害を受けました。多くの建物は消失し、ライフラインやインフラの寸断なども起きています。

関東大震災の影響は、人的・物的な損失にとどまりませんでした。社会は混乱し、犯罪行為が横行するようになります。東京とその周辺では戒厳令が施行され、軍や警察が大量に動員されました。しかし、軍や警察の一部は暴走し、社会主義者や無政府主義者を弾圧する事件を引き起こすこととなります。

第二次山本権兵衛内閣が成立

1918(大正7)年、初めての本格的政党内閣だった原敬内閣が成立しますが、1921(大正10)年に原は東京駅で暗殺されます。その後任として、高橋是清が首相となったのですが、所属していた立憲政友会は内部で分裂。党をまとめ切れなかった高橋は、わずか半年で内閣総辞職に追い込まれました。

その後を引き継いだのが、海軍出身の加藤友三郎でした。しかし、加藤は病気のため1年後に亡くなります。2代続いた短命内閣の後釜となったのが、第二次山本権兵衛内閣でした。急に首相を欠くという事態と関東大震災への対応のために、9年ぶりに山本が首相となったのです。

社会主義思想が広まる

日本では、日清戦争終結後に資本主義経済が発展し、それに伴い労働運動が盛んになります。その頃から、社会主義政党が結成されるようになりました。しかし、1910(明治43)年の大逆事件で幸徳秋水らが逮捕。社会主義政党は活動を禁じられ、社会主義者は身動きが取れないようになります。

社会主義運動が再開されたのは、第一次世界大戦が終結した1918(大正7)年頃からです。大戦では労働者の賃金は上昇しましたが、物価高で実感を得られないものでした。そのため、労働運動が再興し、社会主義者も活動を再開。ロシア革命によるソビエト成立も、社会主義思想の広がりを後押ししました。

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虎ノ門事件の被害者となった裕仁親王とは?

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虎ノ門事件の被害者となったのは、当時の裕仁親王でした。ここでは、裕仁親王の人物像について見ていくことにしましょう。

後の昭和天皇

事件の被害者となった裕仁親王は、のちの昭和天皇です。虎ノ門事件からおよそ3年後、大正天皇の崩御に伴い天皇に即位しました。それ以降、60年以上にわたって在位。信憑性の高い記録が残っている7世紀以降においては、最も長い期間在位していた天皇となりました。

昭和天皇が即位した頃は、まだ日本が大日本帝国憲法の下でした。その時代の天皇は、現人神として国民の畏怖の対象となっていました。太平洋戦争が終結すると、代わって日本国憲法が施行され、昭和天皇は象徴天皇として在位することとなります。それ以降、40年以上に渡り象徴としての役割を全うしました

大正天皇の摂政となる

1901(明治34)年に、皇太子嘉仁親王(のちに大正天皇)の第一子として、のちの昭和天皇となる裕仁親王は生まれました。1902(明治45)年に祖父の明治天皇が崩御すると、大正天皇の即位とともに裕仁親王は皇太子となります。翌年には、11歳にして陸海軍少尉に任官しました。

1921(大正10)年、裕仁親王が20歳の時に大正天皇の摂政となり、それ以降は「摂政宮」と称されるようになります。幼少の頃から大正天皇は病弱でしたが、健康状態が悪化。それにより、裕仁親王が公務を代行するようになりました。摂政宮による代行は、1926(大正15)年まで続きます。

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虎ノ門事件の加害者だった難波大助とは?

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では、虎ノ門事件の加害者となった難波大助とは、どのような人物だったのでしょうか。

父は衆議院議員

虎ノ門事件において、加害者となったのは難波大助という男性でした。事件当時はまだ24歳になったばかりの若者で、死刑判決が下されたのはその翌年、25歳の時になります。難波は1899(明治32)年に、山口県熊毛郡周防村(現在の光市)で生まれました。

祖先は長州藩の家臣で、実家は名家でした。難波大助の父は、衆議院議員を務めた難波作之進です。幼少の頃の難波大助は、尊王攘夷主義者だった父の影響で、むしろ天皇中心主義の思想を持っていました。しかし、学生時代に教師から理不尽な仕打ちを受けたことがきっかけで、難波の思想に変化が芽生えたとされます。

社会問題への傾倒

1919(大正7)年、受験がうまくいかなかった難波大助は上京し、予備校に通い始めます。東京での住まいの近くに日雇い労働者が多く集まる街があり、そこで難波は貧困階級の現状を目の当たりにしたのです。その頃より、難波は社会問題に大きな関心を寄せるようになります。大逆事件の裁判記事などを読み漁っていました。

難波は浪人生活後に早稲田第一高等学院へ入学しましたが、1年で退学。日雇い労働者として暮らすようになります彼の周囲では、労働問題や社会問題が間近で起きていました。そして、関東大震災後に起きた社会主義者や無政府主義者への弾圧事件に対して、難波は怒りを覚えるようになったのです。

虎ノ門事件の概要

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では、虎ノ門事件はどのようにして起こったのでしょうか。事件の推移を見てみましょう。

御料車へ発砲

1923(大正12)年12月27日、裕仁親王を乗せた御料車は国会に向かっていました第48帝国通常議会の開院式に、裕仁親王が出席するためです。御料車が東京の虎ノ門(現在の港区虎ノ門)に差し掛かった頃、車が銃弾を受けました。難波大助が持っていた、ステッキ状に仕込まれた銃により狙撃されたためです。

弾丸を受けた御料車のガラスは割れ、侍従長は顔を負傷しましたが、幸いなことに裕仁親王は無事でした。難波は「革命万歳」と叫びながら犯行現場から逃げたとされます。しかし、難波はその場で取り押さえられて逮捕。難波の暗殺計画は、未遂のまま終わりました

裕仁親王が標的となった理由は?

関東大震災が発生した後の無政府主義者や社会主義者への弾圧は、難波大助を義憤へと駆り立てました。しかし、その方法は独り善がりで、明らかに間違っていたと言わざるをえません。皇室を打倒すれば弾圧を中止できるという誤った考えが、難波に事件を起こさせました。いつの時代でも、テロ行為は許容できるものではありません。

もし、事件当時に皇室を標的とするのであれば、大正天皇が真っ先にその対象となったはずです。しかし、その時大正天皇は病気療養中裕仁親王が摂政として公務を代行していました。そこで、難波は裕仁親王を標的とする事件を企てるようになったのです。

逮捕の翌年に死刑判決

明治時代に制定された旧刑法には、大逆罪というものが規定されていました。天皇や皇太子などへ危害を加えた場合に成立する罪で、必ず死刑が言い渡されるものです。また、未遂に終わった場合や準備・陰謀などの段階でも、既遂犯と同じ扱いにされました。つまり、難波大助が有罪と認定されれば死刑判決以外ありえませんでした

難波に対しては、恩赦による減刑も計画されていました。しかし、難波は法廷で自己の正当性を主張。新聞社に犯行計画を送付し、友人に絶縁状を送りつけるなどしていたため、自ら言い逃れができない状況に追い込んでいたのです。1924(大正13)年11月、難波に死刑が宣告され、2日後には刑が執行されました

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虎ノ門事件が及ぼした影響とは?

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皇室関係者が襲撃されるという前代未聞の事態となった虎ノ門事件。その後に及ぼした影響とは何でしょうか。

第二次山本権兵衛内閣の総辞職

虎ノ門事件が起きた当日に、難波大助の父・作之進は衆議院議員を辞職しました。それ以来、作之進は地元の山口県に戻り、終生まで蟄居します。虎ノ門事件で責任を取った者は多く、時の警視総監や警視庁警務部長(のちに読売新聞社主となる正力松太郎)らが辞職しました難波大助の母校の校長や担任までもが退職に追い込まれています

そして、政権を担っていた第二次山本権兵衛内閣は、事件の責任を取って総辞職しました。皇室関係者の襲撃事件は、それほど当時の人々にとって衝撃的なものだったのです。事件の当日に内閣総辞職を表明しましたが、突然の表明だったこともあり、次の清浦奎吾内閣が成立したのは年が明けてからでした。

第二次護憲運動に発展

虎ノ門事件の責任を取る形で山本権兵衛が総理を辞任して、その後を引き継いだのが清浦奎吾でした。枢密院の議長だった清浦は、貴族院から人材を集めて組閣。政党の意向は反映させない超然主義というスタンスを取っていました。しかし、その方針に護憲三派が反発しました。

立憲政友会・憲政会・革新倶楽部からなる護憲三派は、政党を顧みない清浦内閣を猛然と批判。衆議院の解散に追い込むと、総選挙で護憲三派が過半数の議席を獲得しました。この、第二次護憲運動により、清浦内閣はわずか5か月で倒れました。その後に加藤高明内閣が成立し、2年ぶりに政党内閣が成立することとなったのです。

虎ノ門事件は時の政権を揺るがすこととなった

社会問題に憤りを感じていた若者の独り善がりな動機で、裕仁親王が襲撃されるという虎ノ門事件は発生しました。幸いなことに、裕仁親王に大きな被害は及びませんでした。ですが、虎ノ門事件により、多くの要人が退職を余儀なくされます。そして、山本権兵衛首相も辞任に追い込まれ、その後の第二次護憲運動にまで発展したのです。

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現代社会

3分で簡単「虎ノ門事件」動機は何?事件に関わった人物や社会への影響などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、虎ノ門事件について学んでいこう。

皇族関係者が襲撃された事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えた。しかも、事件の犯人は若者だったのです。

犯人が虎ノ門事件を起こした動機や、事件が社会に与えた影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

虎ノ門事件が起きる前の日本は?

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まずは、虎ノ門事件が発生する前の日本について見ていくことにしましょう。

関東大震災の発生

虎ノ門事件の3か月ほど前、1923(大正12)年9月1日に、関東南部を震源とする地震が発生しました。最大震度7の大地震が、昼時の首都圏に発生したのです。死者・行方不明者は合計10万人以上にも及び、明治・大正時代で最大級の地震被害を受けました。多くの建物は消失し、ライフラインやインフラの寸断なども起きています。

関東大震災の影響は、人的・物的な損失にとどまりませんでした。社会は混乱し、犯罪行為が横行するようになります。東京とその周辺では戒厳令が施行され、軍や警察が大量に動員されました。しかし、軍や警察の一部は暴走し、社会主義者や無政府主義者を弾圧する事件を引き起こすこととなります。

第二次山本権兵衛内閣が成立

1918(大正7)年、初めての本格的政党内閣だった原敬内閣が成立しますが、1921(大正10)年に原は東京駅で暗殺されます。その後任として、高橋是清が首相となったのですが、所属していた立憲政友会は内部で分裂。党をまとめ切れなかった高橋は、わずか半年で内閣総辞職に追い込まれました。

その後を引き継いだのが、海軍出身の加藤友三郎でした。しかし、加藤は病気のため1年後に亡くなります。2代続いた短命内閣の後釜となったのが、第二次山本権兵衛内閣でした。急に首相を欠くという事態と関東大震災への対応のために、9年ぶりに山本が首相となったのです。

社会主義思想が広まる

日本では、日清戦争終結後に資本主義経済が発展し、それに伴い労働運動が盛んになります。その頃から、社会主義政党が結成されるようになりました。しかし、1910(明治43)年の大逆事件で幸徳秋水らが逮捕。社会主義政党は活動を禁じられ、社会主義者は身動きが取れないようになります。

社会主義運動が再開されたのは、第一次世界大戦が終結した1918(大正7)年頃からです。大戦では労働者の賃金は上昇しましたが、物価高で実感を得られないものでした。そのため、労働運動が再興し、社会主義者も活動を再開。ロシア革命によるソビエト成立も、社会主義思想の広がりを後押ししました。

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