今回は、日本の製鉄工場である八幡製鉄所について解説していきます。八幡製鉄所は、1901年に操業を開始以来、軍事、造船や蒸気機関車などの日本の近代化にとって欠かせない素材となる鉄の製造を担った製鉄所である。当時の日本の産業革命の礎を築いたといっても良いでしょう。2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」として世界遺産にも登録された。

今回は、八幡製鉄所について現代社会や社会問題に詳しいライターのクララと一緒に解説していきます。

ライター/クララ

社会学修士号を取得し、博士号取得を目指す現役大学院生ライター。読者が社会問題を「自分ごと」として考えることができるよう、「楽しくわかりやすい現代社会の記事」を目指して日々奮闘中。

産業革命と八幡製鉄所

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八幡製鉄所について、現代社会や日本史の授業で聞いたことがある人も多いかと思います。ただ、比較的近い年代にできた富岡製糸場と混同している人もいるのではないでしょうか。

八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)は福岡県の八幡村(現在の北九州市)に位置し、1901年に操業開始した官営製鉄所です。2007年には経済産業省の「近代化産業遺産」に認定され、なんと2015年には世界遺産に登録されました。今回は八幡製鉄所がなぜできたのか、日本の近代化にどのような役割を担ったのか、そしてなぜ世界遺産に登録されたのかについて詳しく見ていきましょう。

日本の産業革命

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明治初期の時代、特に日清戦争・日露戦争の時代は日本において、重工業・軽工業ともに工業発展が著しかった時代でした。まさしく日本の産業革命の時代といえます。特に日清戦争の勝利によって得た賠償金で、政府は軍備の拡大を進めていきました

産業革命の初期を導いたのは紡績業や製糸業などの軽工業です。特に1880年代の後半にかけて、大規模紡績企業が次々と成立し、1897年には絹糸の輸出高が輸入高を上回ります。こうして、製糸業では機械製糸の生産高が高まり、1909年には製糸の輸出規模は世界最大になりました。

工場法とは

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繊維工業で働く女工たちは、朝から深夜まで過酷な労働環境の中で休暇もほとんど取れませんでした。こうした状況に対処するため、1911年に工場法が制定されます。これは日本で最初に制定された労働保護の法律です。これによって、工場で働くことができる年齢は12歳以上とされ、女性・年少者の深夜労働が禁止されます

しかし、工場法施行時に10歳以上である者は例外など、工場法は名目的なもので実際の労働状況は改善されませんでした

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八幡製鉄所とは

当時の日本は繊維工業においては発展していたものの、重工業の技術においては世界の中で立ち遅れていました。当時の日本といえば、政府は富国強兵と殖産興業をスローガンに近代化を進めていた時代です。江戸幕府の崩壊から明治時代に入ったこの時代の日本は、とにかく西欧列強国に追いつくことが重要な争点であったといえます。

製鉄所設置計画の声は、かつてからありました。しかし、技術力・知識の不足や原材料の確保などの理由によって国会では否決されていました。富国強兵のためには鉄と石炭が重要な要素です。政府は国内の製鉄所の建設計画を考案します。

鉄は国づくりにとって重要

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鉄は国家なり!とは19世紀に武力によってドイツを統一したビスマルクの演説ですが、鉄は国づくりにとって重要な要素です。武器のみならず、輸送のための鉄道・戦車も鉄は必要になります。これをなんとか国内で生産したい。そのために、国内の製鉄所建設計画を構想します。

直接的な八幡製鉄所設置のきっかけは、1894年~1895年の日清戦争の勝利です。建設費用は、日清戦争の賠償金によって賄われました。この時代には日本軍の重工業需要は高まっており、製鉄所の建設決定の背景には軍事的な要素が強いです。

八幡製鉄所設置のきっかけ

先にも述べましたが、これまでの日本は、鉄鋼製品のほとんどを海外からの輸入に頼っていました。輸入に頼っているようであっては富国強兵は進まないということで、鉄鋼製品の国内生産を図るために明治政府によって製鉄所官制が発布されます。この製鉄所管制が発布されるまでに計画案や調査の期間を含めてなんと5年もかかりました。

しかし、当時の日本には製鉄所を建設するための技術や知識はありませんでした。そのため、ドイツのグーテ・ホフヌングス・ヒュッテ社とドイツ人技術士に設計と建設を依頼し、日本人の技術者は指導を受けて製鋼・高炉の技術を学び、建設計画がスタートします。

中国から原材料を輸入

鉄を国内で生産する上で、全ての原材料を国内でまかなうことはできません。そこで、1899年に日本は中国湖北省にある、大冶(だいや)鉄山の鉄鉱石買い入れ契約を結びます。原材料の鉄鉱石は1901年から1928年までは中国からの輸入に頼っていました。

しかし、製鉄所成立によって徐々に日本国内で生産することができるようになります。その後、1901年2月5日に東田第一高炉で火入れが、同年の11月18日の作業開始式によって、操業が始まりました。

なぜ福岡県八幡村が選ばれたのか

こうして日本で製鉄所の建設が決定したわけですが、なぜ他の地域ではなく福岡県の八幡村が建設地に選ばれたのでしょうか。製鉄所建設地に八幡村が選ばれた理由は、4つあるといわれています

\次のページで「八幡製鉄所の製鉄生産量」を解説!/

1.原材料を中国から入手するための利便性が良い
2.石炭の産地である福岡県の筑豊炭田から鉄道・水路で石炭を大量に調達できる
3.八幡村の村長が「日本の鉄づくりは八幡から」と熱心に訴え、広大な土地を半分の地価で売却した
4.北九州市の北西部に位置し、八幡村の周囲に広がる洞海湾は外国の敵艦が近寄りにくい場所にある

八幡製鉄所の製鉄生産量

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このようにして、八幡製鉄所は日本国内の重工業の中心的な位置を占めるようになります。成立当初は6万トンの生産を目標としていましたが、1915年には25万トンとなり、国内生産の80%が八幡製鉄所を占めるようになりました。

企業城下町となった八幡村

1901年に八幡製鉄所が開業すると、人口も増加し、近隣の関連産業も発展していきます。
八幡製鉄所の建設によって八幡村をはじめとする北九州地域は重工業都市に発展しました。1917年には八幡村は八幡市となり、1920年には福岡市を抜いて人口は福岡県最大の都市になります。

八幡製鉄所の労働者たち

八幡製鉄所には社宅や福利厚生施設がありました。このように、都市化と産業化を導いた八幡製鉄所ですが、実際には現場工員たちの生活と経営者や高等官や職工長たちの生活実態は大きくかけ離れていたようです。

戦中・戦後の八幡製鉄所

八幡製鉄所は第二次世界大戦中、軍需産業の中核となったため、攻撃の標的となります。1941年からアメリカ軍による来襲が続き、1944年には八幡製鉄所を攻撃目標とした空襲がありました。

戦後は、製鉄所は日本の軍事を支えた産業として連合国側によって賠償の対象とされたため、1946年から操業停止となります。しかし、東西冷戦や朝鮮戦争が開戦した1950年代ごろから、賠償指定が解除され、日本の製鉄所は操業を再開しました。特に、朝鮮戦争の勃発によって鉄鋼の需要が高まったことで八幡製鉄所は日本の経済復興に貢献します。

\次のページで「世界遺産に登録された八幡製鉄所」を解説!/

世界遺産に登録された八幡製鉄所

ここまで、八幡製鉄所の歴史を見ていきましたが、日本の産業革命を牽引した八幡製鉄所は成立後100年以上の時代を経て、2015年に八幡製鉄所と関連施設が世界遺産に登録されます。

幕末から明治時代にかけて日本の近代化に貢献した産業遺産群「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」という名称で世界文化遺産に登録されました。姫路城や京都の文化財のように歴史的な建造物ではありませんが、日本の近代化を牽引した産業遺産群として選定されています。

世界遺産に選ばれた施設

選定された関連施設は4つあります。1つは修繕工場です。これは、1900年にドイツのグーテ・ホフヌングスヒュッテ社によって設計・建築されています。2つ目は、旧鍛治工場です。現在は資料室になっていますが、鍛造品製造を行う場所として設置されました。

3つ目は旧本事務所。これは、操業に先立ち1899年に建設されました。東京駅を彷彿とさせる、近代的な西洋の赤レンガで中央にドームが配置されています。この旧本事務所では製鉄所の経営戦略が練られ、長官室・技師室などが配置されており、製鉄所の司令塔的な役割を果たしました。4つ目は遠賀川水源地ポンプ室です。製鉄には工業用水を必要とするため川沿いにポンプ室が建設されました。当時のポンプは蒸気ポンプでした。

すべての施設が1910年(明治43年)までの間に建てられており、日本の近代化を感じることができます

八幡製鉄所を構成する3つの地区

八幡製鉄所は敷地も広大で、八幡地区・戸畑地区・小倉地区の3つの地区から構成されています。このうち、観光として公開されているのは、八幡地区と戸畑地区のみです。

八幡地区には、旧本事務所があり、戸畑地区には鉄を作るための航路工場、熱延工場など製鉄の核となる施設があります。

ちなみに「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」は、8県11市にわたる23の遺産で構成されており、登録されている地域は、福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県・山口県・岩手県・静岡県です。(主な登録遺産:萩、集成館、韮山反射炉、板野鉄鉱山、三重津海軍所跡、小菅修船場跡、高島炭坑、端島炭坑、旧グラバー邸、三角西港、官営八幡製鉄所、三菱長崎造船所、三池炭鉱、三池港など)

八幡製鉄所をめぐる旅に出よう

九州方面へ旅行する際には、八幡製鉄所をめぐる観光をするのもおすすめです。鹿児島本線のスペースワールド駅から徒歩10分ほどで、世界遺産に登録された八幡製鉄所の4カ所の関連施設にたどり着くことができます。

見どころはなんといっても、旧本事務所として使用されているレンガ造りの建物。現在は、稼働中の八幡製鐵所の敷地内にあるため中に入ることはできませんが、眺望スペースから景観を楽しむことができます。なんと、現在はVRを利用した案内サービスも実施されているそうです。東田第一高炉も世界遺産の構成資産の1つとなっています

また、第一高炉は史跡公園として公開されており、八幡製鉄所の歴史や銑鉄を運ぶ貨車などが展示され、よりリアルな様子を見ることができます。残念ながら、中に入ることができる施設は限られていますが、近くまでは見学することはできます。日本の近代化を導いた製鉄所を見てみてはいかがでしょうか。

八幡製鉄所成立の歴史から学べること

今回は日本の産業革命を牽引した八幡製鉄所について、誕生のきっかけと現在に至るまでの歴史を見ていきました。

なんといっても明治時代は日本が近代化を進めた時代であり、日本は、アジアを次々と植民地化する欧米列強から植民地化されないように、富国強兵を進めた時代です。その過程の中で、重工業の発展は重要な役割を果たし、まさに産業革命の時代だったといえます。八幡製鉄所の成立によって、鉄道の敷設は人やモノの動きがより活発になり、経済も発展していきました。鉄はそれだけで使うことは少ないですが、私たちの生活には欠かせない素材の1つです。

八幡製鉄所の歴史を学ぶことによって、技術の発展の礎を作った先人たちの絶え間ない努力がわかるのではないでしょうか。

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現代社会

世界遺産・八幡製鉄所の歴史を日本の産業革命とともに現役大学院生がわかりやすく解説

1.原材料を中国から入手するための利便性が良い
2.石炭の産地である福岡県の筑豊炭田から鉄道・水路で石炭を大量に調達できる
3.八幡村の村長が「日本の鉄づくりは八幡から」と熱心に訴え、広大な土地を半分の地価で売却した
4.北九州市の北西部に位置し、八幡村の周囲に広がる洞海湾は外国の敵艦が近寄りにくい場所にある

八幡製鉄所の製鉄生産量

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このようにして、八幡製鉄所は日本国内の重工業の中心的な位置を占めるようになります。成立当初は6万トンの生産を目標としていましたが、1915年には25万トンとなり、国内生産の80%が八幡製鉄所を占めるようになりました。

企業城下町となった八幡村

1901年に八幡製鉄所が開業すると、人口も増加し、近隣の関連産業も発展していきます。
八幡製鉄所の建設によって八幡村をはじめとする北九州地域は重工業都市に発展しました。1917年には八幡村は八幡市となり、1920年には福岡市を抜いて人口は福岡県最大の都市になります。

八幡製鉄所の労働者たち

八幡製鉄所には社宅や福利厚生施設がありました。このように、都市化と産業化を導いた八幡製鉄所ですが、実際には現場工員たちの生活と経営者や高等官や職工長たちの生活実態は大きくかけ離れていたようです。

戦中・戦後の八幡製鉄所

八幡製鉄所は第二次世界大戦中、軍需産業の中核となったため、攻撃の標的となります。1941年からアメリカ軍による来襲が続き、1944年には八幡製鉄所を攻撃目標とした空襲がありました。

戦後は、製鉄所は日本の軍事を支えた産業として連合国側によって賠償の対象とされたため、1946年から操業停止となります。しかし、東西冷戦や朝鮮戦争が開戦した1950年代ごろから、賠償指定が解除され、日本の製鉄所は操業を再開しました。特に、朝鮮戦争の勃発によって鉄鋼の需要が高まったことで八幡製鉄所は日本の経済復興に貢献します。

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