現代社会

世界遺産・八幡製鉄所の歴史を日本の産業革命とともに現役大学院生がわかりやすく解説

1.原材料を中国から入手するための利便性が良い
2.石炭の産地である福岡県の筑豊炭田から鉄道・水路で石炭を大量に調達できる
3.八幡村の村長が「日本の鉄づくりは八幡から」と熱心に訴え、広大な土地を半分の地価で売却した
4.北九州市の北西部に位置し、八幡村の周囲に広がる洞海湾は外国の敵艦が近寄りにくい場所にある

八幡製鉄所の製鉄生産量

image by iStockphoto

このようにして、八幡製鉄所は日本国内の重工業の中心的な位置を占めるようになります。成立当初は6万トンの生産を目標としていましたが、1915年には25万トンとなり、国内生産の80%が八幡製鉄所を占めるようになりました。

企業城下町となった八幡村

1901年に八幡製鉄所が開業すると、人口も増加し、近隣の関連産業も発展していきます。
八幡製鉄所の建設によって八幡村をはじめとする北九州地域は重工業都市に発展しました。1917年には八幡村は八幡市となり、1920年には福岡市を抜いて人口は福岡県最大の都市になります。

八幡製鉄所の労働者たち

八幡製鉄所には社宅や福利厚生施設がありました。このように、都市化と産業化を導いた八幡製鉄所ですが、実際には現場工員たちの生活と経営者や高等官や職工長たちの生活実態は大きくかけ離れていたようです。

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製鉄所の敷地内は広大であるため、専用鉄道が走っていたそうだ。その名は戸畑と八幡をむすぶ専用の鉄道、くろがね線。現在は廃線しているぞ。

戦中・戦後の八幡製鉄所

八幡製鉄所は第二次世界大戦中、軍需産業の中核となったため、攻撃の標的となります。1941年からアメリカ軍による来襲が続き、1944年には八幡製鉄所を攻撃目標とした空襲がありました。

戦後は、製鉄所は日本の軍事を支えた産業として連合国側によって賠償の対象とされたため、1946年から操業停止となります。しかし、東西冷戦や朝鮮戦争が開戦した1950年代ごろから、賠償指定が解除され、日本の製鉄所は操業を再開しました。特に、朝鮮戦争の勃発によって鉄鋼の需要が高まったことで八幡製鉄所は日本の経済復興に貢献します。

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