3分で簡単「東久邇宮稔彦王」なぜ54日で総理を辞任した?皇族としての生い立ちや総理として行った政策などを歴史好きライターがわかりやすく解説
54日で終わった東久邇内閣
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戦後すぐに成立した東久邇宮稔彦王内閣ですが、わずか54日で総辞職します。ここでは、東久邇宮内閣が実施した政策と、短命内閣となった原因について見ていくことにしましょう。
日本軍の武装解除と進駐軍の受け入れ
終戦して降伏を受け入れた日本に対し、連合国軍が最初に要求したのが日本軍の武装解除でした。ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からは、一発でも発砲があった場合には、連合国軍は武力を行使すると通達されていました。そのため、東久邇宮稔彦王内閣は陸海軍などを説得して回ることとなります。
武装解除と同時に進駐軍の受け入れが日本で始められ、東久邇宮内閣はその対応にも追われました。日本は降伏していたとはいえ、反撃する兵力が残っていたためです。東久邇宮内閣は軍部の抵抗や内乱などを回避する準備に時間を掛け、終戦から2週間後の8月30日にマッカーサーを厚木飛行場で受け入れました。
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降伏文書に調印
1945(昭和20)年9月3日、東京湾にあったアメリカ戦艦のミズーリ号の艦上に、日本と連合国軍の代表が集結。それぞれが降伏文書に調印しました。それにより、日本と連合国軍との間で行われた戦争が、正式に休戦することになったのです。日本はポツダム宣言を受諾し、全面降伏を受け入れました。
当初のGHQは、連合国による日本の分割統治や、日本の公用語を英語化するなどの方策を講じていました。しかし、東久邇宮内閣はこれに反発します。そこで、GHQは天皇制を存続させ、代わりに日本政府を通じた間接統治に切り替えました。GHQが天皇の権威を生かしつつ、裏で政策を決定していたのです。
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なぜ東久邇宮稔彦王はわずか54日で退陣したのか?
1945(昭和20)年10月4日、GHQは「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」という指令を日本政府に命じました。この「人権指令」とも呼ばれるものは、思想・信仰・集会及び言論の自由を制限するあらゆる法令の廃止や政治犯の即時釈放、特別高等警察の廃止などを命ずるものです。
東久邇宮内閣成立以来、政府は連合国軍の進駐や降伏文書への調印など、短期間のうちに重要な課題を処理し続けていました。そこへ人権指令という難しい課題を出され、政府は対応しきれなくなります。東久邇宮稔彦王は苦慮の末、内閣総辞職を決意しました。内閣成立からわずか54日後のことでした。
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