3分で簡単「東久邇宮稔彦王」なぜ54日で総理を辞任した?皇族としての生い立ちや総理として行った政策などを歴史好きライターがわかりやすく解説
東久邇宮稔彦王は終戦直後に内閣総理大臣となったが、わずか54日で辞任した。いったい何があったのでしょうか。
東久邇宮稔彦王が早々に首相を辞任した理由や彼の皇族としての生い立ちなどを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
ライター/タケル
資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。
皇族に生まれて宮家を継承する
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)は、1887(明治20)年に久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の第9王子として生まれました。学習院初等科には多くの皇族の他に、小説家の里見弴も通っていたそうです。2人は後に親友となり、とてもやんちゃだったと伝えられています。
久邇宮家の末子だったため、本来であれば成人になるとともに皇籍を離脱するはずでした。しかし、宮家存続のために東久邇宮を創設し、成人以降は「東久邇宮稔彦王」となります。その後、東久邇宮は陸軍に入り、陸軍士官学校と陸軍大学校を卒業しました。
自由な気風のきっかけとなったフランス留学
東久邇宮稔彦王は、1915(大正4)年に聡子内親王と結婚後、1920(大正9)年から単身フランスに留学しました。はじめは陸軍士官学校に通い、卒業後はエコール・ポリテクニーク(教育研究機関)で政治や外交などを学んでいます。フランスでは、多くの軍人や政治家などと交流する機会に恵まれました。
東久邇宮稔彦王の自由な気風は、フランス留学時に育まれたとされます。自由気ままな生活を送り、自由を謳歌し過ぎたため、手紙で帰国を促されたほどでした。結局、フランスでの留学生活はおよそ7年に及ぶことに。帰国したのは、30歳を過ぎてからでした。
陸軍大将にまで上り詰める
フランスから帰国した東久邇宮稔彦王は、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長などを歴任します。フランス留学の成果を生かそうと、陸軍の近代化を提唱することもありました。1938(昭和13)年には、中国北部に従軍。日中戦争に第二軍司令官として参加し、武漢の攻略作戦を指揮しました。
東久邇宮稔彦王は、中国との戦争が長期化するのを懸念し、アメリカと戦闘に入るのには批判的だったとされます。それでも、徐州会戦や漢口の攻略などにも司令官として参加。1939(昭和14)年、第二次世界大戦が始まる頃には、陸軍大将にまで昇進しました。1941(昭和16)年には、防衛総司令官に就任しています。
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戦時首相にはならず
皇族で陸軍の幹部であった東久邇宮稔彦王は、戦時中にしばしば首相候補として取り沙汰されていました。1941(昭和16)年の10月に第3次近衛内閣は総辞職し、日本がアメリカに宣戦布告する寸前でも、東久邇宮は後継総理の候補者の1人に名前が挙げられるほどでした。しかし、東久邇宮自身は戦争に慎重な立場を取っていました。
近衛文麿や広田弘毅といった穏健派や、強硬派の東条英機までもが東久邇宮稔彦王を次期総理に推薦していたと伝えられます。東久邇宮が陸軍関係者であったことが原因でした。しかし、内大臣の木戸幸一が皇室に戦争の影響が及ぶことを危惧して反対したため、戦時中に東久邇宮を総理にする構想は消滅しました。
憲政史上唯一の皇族内閣となった東久邇内閣
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戦時中は主に軍人として活動していた東久邇宮稔彦王は、戦後すぐに首相となります。ここでは、東久邇宮内閣が成立するまでの経緯を見ていくことにしましょう。
終戦直後に東久邇宮稔彦王が首相に推薦された理由とは?
終戦直後の日本は、まだ旧憲法の下にありました。そのため、首相を決めるやり方は、現在行われている首班指名選挙ではありません。重臣などが後継候補を推薦し、天皇がそれに従う形で指名する方式を取っていました。東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣となったのも、昭和天皇の指名があったからです。
当時の日本は戦争で大きな痛手を被り、かつ戦後処理を円滑に行う必要がありました。そのような状況においては、皇族である東久邇宮稔彦王が首相に適任ではないかという意見が出るようになります。また、東久邇宮は元陸軍大将だったため、降伏に納得できない軍部を説得できるとも考えられていました。
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内閣には歴代の首相が名を連ねる
東久邇宮稔彦王は、はじめのうちは首相就任を固辞していました。皇族の身でかつ軍人でもあったため、政治から距離を置くべきと東久邇宮が考えていたためです。しかも、それまで東久邇宮には政治経験がありませんでした。しかし、終戦直後の日本を建て直すという危機的状況を突破しようと決意し、首相就任を了承したのです。
東久邇宮稔彦王内閣は、終戦から2日後の1945(昭和20)年8月17日に成立しました。閣僚には、歴代の首相経験者が名を連ねます。副総理には近衛文麿、海軍大臣には米内光政が就任しました。外務大臣には、当初は東條英機内閣などでも外相だった重光葵を起用しましたが、ひと月後に吉田茂を後任としています。
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一億総懺悔論とは
東久邇宮内閣は、前任者である鈴木貫太郎内閣の「国体護持」を引き継ぐ方針を取りました。これは、天皇を中心とする日本のあり方を保とうとするものです。終戦直後の混乱を恐れた東久邇宮内閣は、天皇の権威で秩序が乱れるのを抑え込もうとしました。
施政方針演説では、東久邇宮は「全国民総懴悔することがわが国再建の第一歩である」などど発言。「一億総懺悔論」を持ち出すことで、混乱を収拾させようとしました。つまり、日本国民全員に戦争責任があるものとし、国民総出で戦後復興に努めるべきと説いたのです。
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