室町文化といえば金閣と銀閣が有名ですが、それ以外にどのような文化が広まったか知っているか。銀閣にも使用されている建築様式の書院造りは現代の和室の原型にもなったものなんです。それ以外にも現代社会でも見ることがある芸能や新しい絵画など多岐にわたる文化ができた時期です。
今回は古代中世の文化が好きな現役講師ライターの明東碧吾と一緒に室町文化を詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライター。主に文系科目を指導している。特に社会の授業はわかりやすく、楽しいとの定評がある。日本の中世古代の文化が好きで、史跡巡りを趣味とする。

室町文化は本当は3つ?文化の時期と特徴を解説!

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室町時代は1338年に足利尊氏が室町幕府を開いてから、1573年に15代将軍足利義昭が京都を追放されるまでの265年間という長い時代です。文化も社会の様子や政治の状況で変化していきます。室町文化は南北朝の動乱期の南北朝文化に始まり、金閣を中心とする北山文化、銀閣を中心とする東山文化と3つに分けられるのです。それぞれがどのような文化だったのか、見ていきましょう。

武士と貴族の融合文化?室町文化の始まり「南北朝文化」

室町時代は朝廷が二つに割れた南北朝の動乱から始まります。武士と貴族の関係が密接になったのも南北朝時代です。

南北朝時代は南朝・北朝どちらの天皇が正しいかという史実研究から歴史書が作られました。北畠親房の「神皇正統記」は南朝の正統性を訴え、「梅松論」では足利幕府の正統性を訴えた歴史書となっています。四境の最後の「増鏡」も南北朝の時期に書かれた歴史書です。

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室町幕府の隆盛期!3代将軍足利義満が開いた「北山文化」

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室町文化が最も花開いた時期が3代将軍足利義満の時期です。足利義満といえば、金閣を建てたことで有名ですね。金閣はもともと足利義満の北山山荘に建てられ、その後鹿苑寺という寺院になりました。北山山荘の「北山」が鹿苑寺の山号にもなったことから、この時期の文化を北山文化と呼びます。北山文化は五山十刹の制が固まった時期でもあることから、五山を中心とする禅宗が文化の中心を担いました。

北山文化では天龍寺や鹿苑寺のような池泉廻遊式庭園が作られます。苔寺で有名な西芳寺も北山文化の時期にできた寺院です。周りの風景も利用する借景を行った広大な庭園が作られ、華やかな文化を象徴しています。

室町幕府の衰退期?落ち着きや美しさを求めた「東山文化」

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掃部助久国 Kamonnosuke Hisakuni - Shinshō Gokuraku-ji Temple, Category:Kyoto. 国宝 大絵巻展, 2. The Japan Times article [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

1467年応仁の乱が起き、京都は11年間焼け野原となりました。応仁の乱が下剋上戦国時代を引き起こし、室町幕府が衰退していきます。室町後期の代表的建築物といえば銀閣ですね。銀閣は8代将軍足利義政が造営した建築物で、金閣と同じく義政のつくった東山山荘が義政の死後、慈照寺という寺院となりました。銀閣も東山山荘から山号が「東山」となったことから、この時期の文化の中心である銀閣から東山文化というのです。

東山文化は五山と対立する林下の禅が広まったことから落ち着いた空間の中で修行を行う寺院が現れます。大きな庭園ではなく、石の世界に自然を映し出す枯山水が登場したのも東山文化の頃です。北山文化のような華やかさはありませんが、小さな空間の中で落ち着きや美しさを求める文化が広がりました。

禅宗が広げた室町文化

禅宗は室町文化に大きな影響を与えています。特に北山文化と東山文化の中心である2つの建築物はどちらも臨済宗の寺院の建築物です。禅宗、中でも臨済宗の発展や変化は北山文化と東山文化の違いにもなっています。

五山十刹の制で保護された臨済宗!

幕府は臨済宗を保護すると同時に臨済宗の有力な寺院を官寺とするために「五山十刹の制」を定めます。五山の官寺になった寺院を叢林(そうりん)と呼び、それ以外の禅寺を林下(りんげ)と呼びました。京都五山第2位の相国寺には五山を管理する僧録司が置かれ、五山の僧は漢詩などに優れていたことから幕府の外交政策の顧問役に抜擢されていました。

五山を中心とする叢林の僧は禅の法語や漢詩集を作成していきます。義堂周信絶海中津などの優れた漢詩を作る僧が出て、五山文学を発展させていき、北山文化を発展させていきました。

五山文学と共に発展した水墨画

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鎌倉時代に禅宗と同時に伝来したのが水墨画です。水墨画はもともと禅の思想を表現するための絵画でした。五山文学が発展する中で、水墨画も発展していきます。

相国寺の僧である如拙は中国風の水墨画を極め、漢画の祖とも呼ばれました。代表的な作品に「瓢鮎図」があります。如拙を祖と仰ぎ、日本風の水墨画を大成した雪舟も相国寺で修行した僧で、「秋冬山水図」「四季山水図巻」など優れた作品を残しました。

相国寺の僧で雪舟の師でもある周文や東福寺の僧の明兆も室町文化を代表とする水墨画の作品を残した画家です。水墨画の発展は大和絵にも変化を与えます。狩野派の狩野元信は中国の写実的な画風の中に大和絵の画風を合わせる「大徳寺大仙院花鳥図」を作り上げました。

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地方布教を行う林下の禅その1:曹洞宗

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林下の禅宗寺院の多くは曹洞宗の寺院でした。曹洞宗は開祖の道元が只管打坐など厳しい教義を置き、幕府の保護を受けずに地方中心に布教を行ったことが林下になった大きな要因です。曹洞宗の両大本山の1つである永平寺は京都から離れた福井県にあることから、幕府の帰依を受けない考えが伺えます。

曹洞宗は幕府の保護を受けない林下の寺院だったため、室町時代に衰退し始めていました。衰退する中で、永平寺の瑩山紹瑾が諸国で布教活動を広げ、その功績から石川總持寺を建立し、曹洞宗を拡大することができました。瑩山紹瑾は曹洞宗の中興の祖と呼ばれ、開祖の道元と共に両祖として仰がれています。

地方布教を行う林下の禅その2:五山に反発した臨済宗寺院

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臨済宗でも五山に反発した寺院があります。大徳寺ははじめ、五山の一角を担う大寺院でしたが、後醍醐天皇の影響下の寺院ということで室町幕府から十刹の9位と軽んじられていました。

五山の俗世化が進むことを感じた大徳寺の僧は五山から脱退し、厳しい修行を行う林下となります。その中で禅宗の腐敗を風刺した一休宗純が出て、貴族や商人の中に大徳寺派の禅宗が広がりました。一休の弟子には侘び茶を創始した村田珠光などの文化を担うものが現れたのです。

大徳寺と同じく、幕府の保護がなかった林下の臨済宗寺院に妙心寺もあります。

禅寺が建築と庭園を進化させる?

室町時代は禅宗が繁栄することで、さまざまな禅宗寺院も建立されました。特に臨済宗は公案をもとに悟りを開くため、答えのない質問に対して考え抜くことが必要でした。公案を落ち着いた空間で考えるため、部屋や庭園なども変化していきます。では、変化の中でどのように和室ができたのか見ていきましょう。

日本国王の象徴?金閣

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金閣は足利義満の北山山荘の舎利殿として建てられました。足利義満は明との貿易を行うために自分が日本国王として明と話し合える立場を作ろうとします。日本の権力者の象徴として、金箔で囲まれた金閣が完成したのです。

金閣は上層が円覚寺舎利殿などと同じ禅宗様で、初層と中層は貴族の邸宅である寝殿造風となっています。禅の修行のための建物ではなく、天皇以上の存在であることをアピールするために作られた建物であるため、平安時代や鎌倉時代の建築法を踏襲しているのです。

和室の祖!書院造の建築物が集結する慈照寺

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慈照寺は銀閣を有する寺院です。慈照寺の中の東求堂という建物の中に同仁斎と呼ばれる部屋があります。同仁斎は足利義政の書斎でもありましたが、四畳半の部屋の中に付書院違い棚などが設けられました。この同仁斎に使われている建築様式が書院造です。

書院造は床の間や棚が配置され、畳を敷き詰めた部屋になります。また、明障子を用いるなど現在の和室の形にそっくりです。書院造がこの時期から作られ始めたことから、和室の原型ができ、現代にもつながる建築様式になりました。

禅宗の考えを反映?寺院庭園の発展

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禅宗の変化が顕著に現れたのが、禅寺の庭園です。京都五山1位の天龍寺には世界史上最高の作庭師の一人とも言われる夢窓疎石が作った池泉廻遊式庭園があります。五山の華やかな文化を象徴する広大な庭園です。

東山文化以降になってくると庭園の規模が小さくなってきます。そこには禅宗の閑寂な趣を取り入れる趣向があるのです。慈照寺庭園は廻遊式庭園ではありますが、一部に砂や石組を利用した人工的な趣のあるものが配置されています。

室町時代終わり頃には自然を極端に圧縮・抽象化し、狭いところに石組や白砂で表現する枯山水の庭園が広がりました。龍安寺大徳寺大仙院の庭園は枯山水の代表的庭園になります。禅宗の閑寂な趣をさらに研ぎ澄ました庭園が枯山水なのです。

貴族文化も復活?華やかな芸能が完成!

室町文化は武士文化と貴族文化が融合した文化でもあります。南北朝時代に一時的に朝廷に政権が戻ったことで、貴族の文化も再興されました。貴族と武士の文化が交わることで新たな文化が完成されたのも室町文化の特徴です。では、室町文化の中でどのような貴族文化が生まれたのか、見ていきましょう。

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和歌が発展した新しい言語遊戯「連歌」

平安時代の文学の代表に和歌があります。和歌は貴族の教養でもあったので、和歌が平安貴族の中ではとても重要な文化だったのです。

鎌倉時代後期から和歌の上の句と下の句を別々の人が読む形式が生まれ、上の句に合う下の句、下の句に合う上の句と歌をつなげていく言語遊戯が始まりました。上の句と下の句を別の人が呼んでつなげていくことから連歌といいます。

南北朝時代に二条良基が連歌の規則書である「応安新式」を書き、連歌が大成されました。二条良基も「菟玖波集」という連歌集を編纂して、室町時代に連歌が流行します。東山文化の頃には飯尾宗祇が類い稀な連歌の才能を開き、門下の肖柏と宗長とともに「水瀬三吟百韻」を完成させました。山崎宗鑑は自由な形で連歌を詠み、「犬筑波集」を編纂したのです。山崎宗鑑の自由な連歌は江戸時代の俳諧に大きな影響を与えたことから「俳諧の祖」とも呼ばれています。

民間芸能の集大成「能」

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松岡明芳 - 松岡明芳, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

民間芸能から始まった田楽と平安期ごろから始まった歌謡である今様、そして宮中で舞われていた猿楽などの芸能が室町時代にまとまりました。猿楽を行う大和四座観世座から観阿弥世阿弥親子が民間、宮中の芸能を集大成し、を大成するのです。

世阿弥は能の表現を「風姿花伝」(または花伝書)にまとめます。能の合間には狂言も披露され、現代の日本の伝統芸能が室町時代に大成されたのです。

貴族文化を体系化「有職故実」

幕府が京都にあったことから朝廷とのつながりが強まります。朝廷では宮中の行事やしきたりなどを体系化することで幕府との円滑なやり取りを目指す動きが出てきたのです。

古来の慣例やしきたり、行事などを体系化するために宮中研究の学問である有職故実が生まれます。有職故実は朝廷全体の研究というよりも研究する者それぞれの専門分野を各々が研究する形で進みました。後醍醐天皇の「建武年中行事」や北畠親房の「職原抄」はその代表例になります。

東山文化の頃になると一条兼良がさらに有職故実のさまざまな分野で研究を進め、「公事根源」「樵談治要」などを書き、宮中での専門的な官職や政治に関する内容がまとめられたのです。

現代にも根付く文化「茶道」と「華道」

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室町時代は現代にも根付く文化が始まった時期です。その中でも、習い事の代表として有名な茶道華道の原型ができたのも室町時代になります。

栄西によって喫茶の習慣が再興され、室町時代にはお茶の産地を当てる闘茶が行われるようになりました。貴族や武士の間では茶会が開かれるようになり、唐物と呼ばれる高級な中国製の道具を使って、茶を立てることが流行りました。村田珠光は唐物を使う茶会に対して、質素な茶器を利用して行う侘び茶を始めました。侘び茶は武野紹鴎が発展させ、千利休で大成し、茶道が生まれたのです。

京都の六角堂の寺院に池坊専慶という僧がいました。池坊専慶は立花を得意とし、立花の様式を組み上げました。立花は花を生ける華道の1つの表現方法です。池坊は華道の根源ということで現代では家元となっています。

現代文化を見回すと室町文化の名残あり!

現代文化の中に室町文化の名残がたくさんあります。習い事の代表である茶道や華道も室町時代にその原型が出来上がりました。和室の原型である書院造などさまざまな室町文化の様式が現代へと引き継がれています。室町文化を見ることで現代文化を見直すことができるのです。

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室町時代日本史歴史

3分で簡単室町文化の特徴!金閣・銀閣・能・水墨画も現役講師ライターがわかりやすく解説!

室町文化といえば金閣と銀閣が有名ですが、それ以外にどのような文化が広まったか知っているか。銀閣にも使用されている建築様式の書院造りは現代の和室の原型にもなったものなんです。それ以外にも現代社会でも見ることがある芸能や新しい絵画など多岐にわたる文化ができた時期です。
今回は古代中世の文化が好きな現役講師ライターの明東碧吾と一緒に室町文化を詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライター。主に文系科目を指導している。特に社会の授業はわかりやすく、楽しいとの定評がある。日本の中世古代の文化が好きで、史跡巡りを趣味とする。

室町文化は本当は3つ?文化の時期と特徴を解説!

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室町時代は1338年に足利尊氏が室町幕府を開いてから、1573年に15代将軍足利義昭が京都を追放されるまでの265年間という長い時代です。文化も社会の様子や政治の状況で変化していきます。室町文化は南北朝の動乱期の南北朝文化に始まり、金閣を中心とする北山文化、銀閣を中心とする東山文化と3つに分けられるのです。それぞれがどのような文化だったのか、見ていきましょう。

武士と貴族の融合文化?室町文化の始まり「南北朝文化」

室町時代は朝廷が二つに割れた南北朝の動乱から始まります。武士と貴族の関係が密接になったのも南北朝時代です。

南北朝時代は南朝・北朝どちらの天皇が正しいかという史実研究から歴史書が作られました。北畠親房の「神皇正統記」は南朝の正統性を訴え、「梅松論」では足利幕府の正統性を訴えた歴史書となっています。四境の最後の「増鏡」も南北朝の時期に書かれた歴史書です。

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