今回は「長岡半太郎」という人物を紹介していきます。
「原子はどのような形をしているのか」という疑問に対しては、教科書を見れば、すぐに答えられるな。
教科書で見る原子の形、中心にプラスの電荷をもった陽子と中性子があり、その周りを電子が囲んでいる。当たり前ですが、この原子の形を初めて提案したのが、長岡半太郎です。

今回は長岡半太郎の生涯と功績を物理に詳しいライターリックと一緒に解説していきます。

ライター/リック

大学院を修了するまで、研究に明け暮れた理系ライター。目の前で起きた現象を深掘りすることが大好きで、化学や物理など幅広く勉強している。現在は化学メーカーで技術職として働きながら、化学や物理の楽しさを発信していく。

長岡半太郎って何をした人?

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不明 - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

原子とは、どのような形でしょうか。中心にプラスの陽子と中性子があり、その周りを電子がまわっていますよね。化学や物理の教科書には当たり前のように書いてありますが、この原子のイメージを世界で初めて提唱したのが、「長岡半太郎」という人物なんです。

今回は「長岡半太郎」の生涯と功績を紹介していきます。

長岡半太郎の生涯を紹介

長岡半太郎は1865年、長崎の大村藩士の家に生まれました。岩倉使節団に同行した長岡半太郎の父は「これからは西洋文化の時代だ」と感じ、新たな文化を学ぶため、1874年に一家そろって上京します。

長岡半太郎は1882年に東京大学理学部に進学。その後1893年~1896年にかけてドイツへ留学し、ルードヴィッヒ・ボルツマンの下で学びます。ルードヴィッヒ・ボルツマンは現代の物理学、化学、熱力学、統計力学などの基礎を築いた人物のひとりです。

ドイツから帰国後、東京帝国大学の教授に就任し、1926年に60歳で定年退職しました。その間も「日本学術振興会理事長」や「帝国学士院院長」などの要職を歴任し、第一回文化勲章を受賞しています。

その後1950年12月に脳出血のため、自宅で死去しました。死の当日も地球物理学の本を広げて研究を続けていたそうです。

当時、原子の構造が注目されていた!

image by iStockphoto

長岡半太郎がドイツから帰国した当時、「原子の構造」が世界中で議論・研究されていました。1805年ジョン・ドルトンが発表した「原子説」や1808年にゲーリュサックの発表した「気体反応の法則」によって、物質は分子や原子で構成されている・原子はそれ以上分割することができないといった概念が分かってきました。

そして、1800年代後半には、原子や分子はどのように構成されているのかが研究のキーワードになっていったんです。長岡半太郎は当時考えられていた原子の構造には納得できず、独自のモデルを世界に向けて提唱していきました。

原子のモデルはどう考えられていた?

原子のモデルはどう考えられていた?

image by Study-Z編集部

当時、「原子はプラスの電気を持つ均一な物質の中に、マイナスの電気を持つ電子がバラバラに存在する。」という考え方が主流でしたが、長岡はこれに納得することができず、自身で計算を繰り返し、たどり着いたのが土星の環でした。

プラスの電気を持つ球があり、周りを衛星のような電子が運動していれば、原子は安定する」という仮説にたどりついた長岡は「土星型原子モデル」を1903年に発表します。

一方で、イギリスの物理学者J.Jトムソンは「原子はプラスの電気を持つ球体でその中にマイナスの電気を持つ電子が埋まったぶどうパンのような構造をしている」という説を発表しました。この説をもとに提唱された原子構造が「ぶどうパン型原子モデル」です。

長岡の提唱した原子モデルは当時の考え方に相反するものだったため、「ぶどうパン型原子モデル」が有力視され、長岡の「土星型原子モデル」は注目されませんでした。

\次のページで「原子の形を証明したラザフォードの実験を紹介」を解説!/

原子の形を証明したラザフォードの実験を紹介

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George Grantham Bain Collection (Library of Congress) - この image はアメリカ合衆国議会図書館Library of Congressの{{{division_name}}} 電子識別子 (ID) はggbain.36570です。 この表示タグは添付の作品について著作権状態を示すものではありません。これに加え、一般の著作権タグの添付が求められます。詳細はCommons:ライセンシングをご参照ください。, パブリック・ドメイン, リンクによる

その後、トムソンの弟子であるラザフォードがある実験を行います。この実験結果がトムソンの「ぶどうパン型原子モデル」を否定し、長岡の「土星型原子モデル」がより原子の形に近いことを証明しました。

ここからは、ラザフォードの実験について紹介していきます。

ラザフォードの実験とは、どのような内容だった?

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Kurzon - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ラザフォードの実験は、1911年アーネスト・ラザフォードによって説明された物理現象であり、現在教科書に載っている原子構造を証明する先駆けになった実験です。

実験内容は、「数原子分まで薄くした金箔にアルファ線を照射する」というものでした。アルファ線とは、陽子2個と中性子2個からなるヘリウム原子核が飛び出したもので、プラスの電荷をもった粒子とイメージすると分かりやすいと思います。

実験当時、原子モデルはJ.Jトムソンの提唱した「ぶどうパン型原子モデル」が有力視されていたため、アルファ線は直進する、もしくは小さな角度のみで偏向すると予想されていました。

その理由は、「ぶどうパン型原子モデル」はプラスの電子を持った球の中にマイナスを持った電子が点在することで原子全体では中性であるとされていたため、プラスの粒子であるアルファ線が当たったとしても、プラス同士の反発は起きないと予想されていたからです。

予想を覆した実験結果とは?

しかし、実験の結果は予想と違いました。8000個に1つほどの割合で、アルファ粒子は非常に大きな角度で偏向する結果が得られたんです。

この結果から、ラザフォードは師のJ.Jトムソンが提唱した「ぶどうパン型原子モデル」が間違っており、正電荷を帯びた核(中心電荷)を電子が取り囲んでおり、アルファ粒子が核に接近した場合のみ、大きな角度の偏向が起きると結論づけました。

この結果をもとにラザフォードが提唱した原子モデルや、のちに提唱されたボーアの原子モデルは長岡半太郎が提唱した「土星型原子モデル」に類似したモデルでした。

原子構造の発見者になれなかった「長岡半太郎」

image by iStockphoto

ラザフォードの実験から、長岡半太郎が提唱した「土星型原子モデル」が原子構造に近いことが証明されました。

しかし、教科書で「長岡半太郎が原子構造の最初の提唱者」と紹介されることはありません。「実験当時、長岡の提唱した土星型原子モデルを知らなかった」とラザフォードが主張し、長岡自身も「この原子モデルは、将来、本当の原子構造を完成させるためのヒントに過ぎない」とコメントしたためといわれています。

原子モデル最初の提唱者をラザフォードに譲った長岡は、その後、次世代の研究者の育成に情熱を注ぎました。ルードヴィッヒ・ボルツマンに学び、ラザフォードやアインシュタインといった物理学の大変革時代を垣間見た長岡は、研究の重要性を説きました。

長岡の教え子には、本多光太郎、寺田寅彦、仁科芳雄など、日本の物理学をけん引した研究者がいます。

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原子の形を世界で初めて提唱した「長岡半太郎」をチェック

今回は、現代では当たり前のように書かれている「原子モデル」を世界で初めて提唱した「長岡半太郎」の功績と生涯を紹介しました。

実験で原子の構造を証明したラザフォードが教科書では「原子モデルの最初の提唱者」として紹介されますが、長岡半太郎が原子モデルという現代の化学・物理学の基礎を作った人物であるといっても過言ではありません。

テストで出題されることはほとんどありませんが、物理学の歴史としてぜひチェックしてほしいです。

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原子・元素物理理科

長岡半太郎って誰?原子構造の発見者?長岡半太郎の功績と生涯を理系ライターがわかりやすく解説



今回は「長岡半太郎」という人物を紹介していきます。
「原子はどのような形をしているのか」という疑問に対しては、教科書を見れば、すぐに答えられるな。
教科書で見る原子の形、中心にプラスの電荷をもった陽子と中性子があり、その周りを電子が囲んでいる。当たり前ですが、この原子の形を初めて提案したのが、長岡半太郎です。

今回は長岡半太郎の生涯と功績を物理に詳しいライターリックと一緒に解説していきます。

ライター/リック

大学院を修了するまで、研究に明け暮れた理系ライター。目の前で起きた現象を深掘りすることが大好きで、化学や物理など幅広く勉強している。現在は化学メーカーで技術職として働きながら、化学や物理の楽しさを発信していく。

長岡半太郎って何をした人?

Hantaro Nagaoka.jpg
不明 – [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

原子とは、どのような形でしょうか。中心にプラスの陽子と中性子があり、その周りを電子がまわっていますよね。化学や物理の教科書には当たり前のように書いてありますが、この原子のイメージを世界で初めて提唱したのが、「長岡半太郎」という人物なんです。

今回は「長岡半太郎」の生涯と功績を紹介していきます。

長岡半太郎の生涯を紹介

長岡半太郎は1865年、長崎の大村藩士の家に生まれました。岩倉使節団に同行した長岡半太郎の父は「これからは西洋文化の時代だ」と感じ、新たな文化を学ぶため、1874年に一家そろって上京します。

長岡半太郎は1882年に東京大学理学部に進学。その後1893年~1896年にかけてドイツへ留学し、ルードヴィッヒ・ボルツマンの下で学びます。ルードヴィッヒ・ボルツマンは現代の物理学、化学、熱力学、統計力学などの基礎を築いた人物のひとりです。

ドイツから帰国後、東京帝国大学の教授に就任し、1926年に60歳で定年退職しました。その間も「日本学術振興会理事長」や「帝国学士院院長」などの要職を歴任し、第一回文化勲章を受賞しています。

その後1950年12月に脳出血のため、自宅で死去しました。死の当日も地球物理学の本を広げて研究を続けていたそうです。

当時、原子の構造が注目されていた!

image by iStockphoto

長岡半太郎がドイツから帰国した当時、「原子の構造」が世界中で議論・研究されていました。1805年ジョン・ドルトンが発表した「原子説」や1808年にゲーリュサックの発表した「気体反応の法則」によって、物質は分子や原子で構成されている・原子はそれ以上分割することができないといった概念が分かってきました。

そして、1800年代後半には、原子や分子はどのように構成されているのかが研究のキーワードになっていったんです。長岡半太郎は当時考えられていた原子の構造には納得できず、独自のモデルを世界に向けて提唱していきました。

原子のモデルはどう考えられていた?

原子のモデルはどう考えられていた?

image by Study-Z編集部

当時、「原子はプラスの電気を持つ均一な物質の中に、マイナスの電気を持つ電子がバラバラに存在する。」という考え方が主流でしたが、長岡はこれに納得することができず、自身で計算を繰り返し、たどり着いたのが土星の環でした。

プラスの電気を持つ球があり、周りを衛星のような電子が運動していれば、原子は安定する」という仮説にたどりついた長岡は「土星型原子モデル」を1903年に発表します。

一方で、イギリスの物理学者J.Jトムソンは「原子はプラスの電気を持つ球体でその中にマイナスの電気を持つ電子が埋まったぶどうパンのような構造をしている」という説を発表しました。この説をもとに提唱された原子構造が「ぶどうパン型原子モデル」です。

長岡の提唱した原子モデルは当時の考え方に相反するものだったため、「ぶどうパン型原子モデル」が有力視され、長岡の「土星型原子モデル」は注目されませんでした。

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