なぜ「自民党」には派閥がある?派閥の歴史や問題点などを行政書士試験合格ライターが分かりやすくわかりやすく解説
ニッカ・サントリー・オールドパー
1964(昭和39)年の自民党総裁選挙は、熾烈な争いとなりました。特に3選目を狙う池田勇人と、それを阻止しようとする佐藤栄作の対立が激しかったとされます。2人はともに「吉田学校」の出身で、吉田茂の後継者と目されていましたが、自民党総裁の座を巡って選挙で戦ったのです。
両陣営の多数派工作のために、多くの金品が飛び交ったと伝えられます。2つの派閥からカネをもらえば「ニ(2)ッカ」、3つからだと「サン(3)トリー」、すべての派閥からカネをもらうと「オール(all)ドパー」などと揶揄される始末でした。結果は池田が勝ちますが、病気でほどなくして辞任。話し合いの末、佐藤が後任の総裁となりました。
三角大福中
1970年代には、三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫・中曽根康弘の5人が自民党総裁の座を争いました。名前の頭文字(田中角栄だけ名字ではなく名前から)から、この5人を「三角大福中」(さんかくだいふくちゅう)と呼びます。5人はいずれも自民党総裁を経てから内閣総理大臣となりました。
5派の中でも特に田中派と福田派の対立が激しく、「角福戦争」と例えられたほどでした。時には2人が総裁選挙で直接戦い、時にはそれぞれの候補者を擁立して争いました。田中はロッキード事件で自民党を離れるも、田中派の実質オーナーとして暗躍。「キングメーカー」として総裁人事に影響力を持ち続けました。
こちらの記事もおすすめ
3分で簡単「ロッキード事件」経緯や原因・田中角栄との関係は?行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説
安竹宮
1980年代後半から90年代にかけて、「三角大福中」の後継者として台頭したのは「ニューリーダー」と呼ばれた世代でした。いつしかそのうちの3人、安倍晋太郎・竹下登・宮澤喜一が目立つようになります。3人は頭文字を取って「安竹宮」(あんちくぐう)と呼ばれるようになりました。
3人は、1987(昭和62)年の自民党総裁選挙で争う予定でした。しかし、当時の中曽根康弘総理・総裁が党内対立の激化を危惧します。「中曽根裁定」の結果、中曽根は竹下を自らの後継に指名し、竹下内閣が成立しました。その後は宮澤も総理となり、安倍は病により志半ばで倒れましたが、息子の安倍晋三が長期政権を築くこととなります。
こちらの記事もおすすめ
安倍晋三はなぜ長期政権を築けた?その原因や任期中の政策などを行政書士試験合格ライターが5分でわかりやすく解説!
同じ党でも考えは人それぞれ
議会では党議拘束がかかることがあり、その場合の所属議員は党の方針に従って投票しなければなりません。それは、翻って見れば党内に考え方が違う議員が集まっている証拠ともいえるでしょう。自民党にもそれは当てはまり、例えば安倍晋三は保守色が強い言動が多く、対して岸田文雄はリベラル寄りと目されています。
そもそも結党当時から、自民党は考えが違う者の集まりでした。旧自由党と旧日本民主党が合わさったのが自由民主党です。保守合同後も、旧自由党系の保守本流と旧日本民主党系の保守傍流に2分されていました。考えが異なる者とでも手を組むのが、結党当時から続く自民党の伝統ともいえるでしょう。
選挙を支援するため
日本の総選挙では、1993(平成5)年まで中選挙区制が採用されていました。小選挙区制はいわゆる死に票が多く発生し、逆に大選挙区制は選挙区が広大となり過ぎるため、それらの欠点を補い合うという目的があったためです。中選挙区制では、1つの選挙区で2〜6人が当選する仕組みとなっていました。
中選挙区制では、1つの選挙区から同じ政党の議員が複数生まれる可能性があります。そのため、同じ選挙区に自民党の複数派閥から出馬する事態が多く発生しました。それは、同じ自民党公認候補でも選挙で票を奪い合うことを意味します。冬は「餅代」、夏は「氷代」として、派閥から所属議員に多くの援助がなされていました。
こちらの記事もおすすめ
「普通選挙法」はいつ制定された?治安維持法との関係や女性の参政権などを歴史好きライターがわかりやすく解説
\次のページで「最後は数の論理」を解説!/