紀元前1世紀中ごろのエジプト女王「クレオパトラ」は知っているか?世界三大美女にも数えられるようなものすごい美女です。しかし、クレオパトラは美しいだけでなく、政治家としてもかなり活躍した。
今回は「クレオパトラ」について、彼女が最後の女王となったプトレマイオス朝や、愛人となったローマのカエサルとアントニウスについても交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代のエジプトとローマに関わる重要人物「クレオパトラ」についてまとめた。

1.クレオパトラが最後の女王となったプトレマイオス朝エジプトとは

image by PIXTA / 57986326

今回解説する「クレオパトラ」が治めたプトレマイオス朝エジプト。そのはじまりは紀元前304年にまでさかのぼります。そのころ、現在のギリシャ北部にあった古代マケドニア王国の王・アレクサンドロス大王(イスカンダル)の東方遠征により小アジアからシリア、エジプト、ペルシア帝国を征服して広大な帝国を築いていました。

しかし、アレクサンドロス大王は後継者を決める前に亡くなってしまい、家臣たちの後継者争いによって帝国は分裂してしまいます。その分裂したうち、エジプトを引き継いだのがプトレマイオス1世でした。

プトレマイオス朝エジプトはどんな国?

マケドニアのアレクサンドロス大王の後継者のひとりプトレマイオス1世が治めることになったエジプト。首都はアレクサンドリア。現在のエジプトの首都カイロの北西にある地中海に面した都市で、海上貿易によって栄えました。

プトレマイオス1世はギリシャ人でしたが、エジプトの文化や制度は残し、エジプト人にはエジプトの法律を、ギリシャ人にはギリシャの法律を適応します。王様がギリシャ人だからとエジプトの人たちも今日からギリシャの法律に従え、と横柄にしなかったわけですね。

ギリシャ文化とオリエント文化の融合「ヘレニズム」

ギリシャ文化とオリエント文化が融合した文化「ヘレニズム」世界の中心となります。ヘレニズム文化の下、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケなど、一度は見たことがあるような彫刻が造られました。また、ヘレニズムは後のルネサンスや、インドのガンダーラ美術などに影響を与えます。

プトレマイオス朝の衰退はいつから?

プトレマイオス2世が従来のエジプトと同じように王権の神格化をはかったりと、プトレマイオス朝は徐々にギリシャから離れ、エジプト化していきます。そうして、プトレマイオス朝四代目の王となったころ、複雑な王位継承権や政治の停滞、外敵との戦いなどさまざまな問題を抱え、プトレマイオス朝の衰退が表面化していきました。

そんななか、プトレマイオス1世の子孫が民衆の怒りを買って殺され、代わりに王位についたのが傍系のプトレマイオス12世。クレオパトラの父でした。

また、一方で、このような状況にあるエジプトを狙いはじめたのがローマだったのです。

\次のページで「2.揉めるエジプトの王位継承問題」を解説!/

2.揉めるエジプトの王位継承問題

image by PIXTA / 23686120

プトレマイオス2世は、彼ら支配者となる以前のエジプトの伝統や宗教を受け継ぎました。その受け継いだもののなかには兄弟姉妹結婚があり、プトレマイオス2世以降もこの伝統に従っていきます。

しかし、兄弟姉妹婚……いわゆる近親結婚のせいで王位継承権が複雑になり、クレオパトラの世代になっても継承問題は非常に大きな揉め事のタネとなっていたのでした。

弟と結婚!?女王として即位するも追放

クレオパトラが女王として即位したのは紀元前51年のこと。父・プトレマイオス12世が亡くなり、その跡を継ぐために弟のプトレマイオス13世と結婚して、エジプトを共同統治することになったのです。

このときクレオパトラは17歳、弟プトレマイオス13世はわずか10歳でした。クレオパトラはともかく、たった10歳の子どもに政治は難しいですよね。ということで、プトレマイオス13世の後見人として宦官や軍人がつく……ここまではいいですね。しかし、プトレマイオス13世の後見人たちは彼を傀儡の王にして実権を握ろうとしたのです。そのために邪魔になるクレオパトラは王位を追われてしまったのでした。

ローマからやってきたカエサルという政治家

image by PIXTA / 29712167

一方、地中海対岸のローマでは「ユリウス・カエサル」というたいへん優秀な政治家が活躍していました。彼はガリア戦争でローマの領土拡大に多大な貢献を果たし、ちょうどライバルたちを追い落しているところです。

そんななかで、カエサルのライバルのひとり「ポンペイウス」が、カエサルとの戦いに敗れてエジプトへ逃げてきました。ポンペイウスはかつて、クレオパトラやプトレマイオス13世の父・プトレマイオス12世を保護したことがあり、その恩を頼ってエジプトにやってきたのです。

ところが、プトレマイオス13世の後見人たちはポンペイウスと仲良くするよりも、カエサルに近づいた方が得だと考えました。カエサルに恩を売るため、後見人たちはポンペイウスを殺害してしまいます。

絨毯からはじめまして!クレオパトラとカエサルの出会い

カエサルがエジプトに到着したのはポンペイウスが殺害された四日後のこと。このとき、プトレマイオス13世の後見人たちは、カエサルとクレオパトラが出会わないよう注意していました。カエサルは女たらしとしてとても有名で、美しいクレオパトラに出会えば、カエサルが口説かないわけがありません。その結果、カエサルがクレオパトラの味方になってしまうのは火を見るよりも明らかでした。

しかし、クレオパトラとしてもこのチャンスを逃がすなんてとんでもありません。クレオパトラはカエサルへ捧げられる絨毯(あるいは寝具)の中に身をひそめてカエサルのもとに現れたのです。そして、彼女は見事にカエサルの心を射止めたのでした。

カエサルとクレオパトラ大苦戦「アレクサンドリア戦争」

カエサルはクレオパトラの頼みを聞き、弟プトレマイオス13世との和解を取り持とうとします。

ふたりの和解が成立すればクレオパトラが再びエジプトの女王に戻るわけで。そうなると、プトレマイオス13世の後見人たちはせっかく掴んだ実権を失ってしまいます。そうはさせてなるか、と後見人たちはクレオパトラとカエサルのいる王宮を包囲して攻撃を仕掛けました。こうして始まったのが「アレクサンドリア戦争」です。この戦いの最中には、プトレマイオス1世が建設した王立研究所でありヘレニズムの中心だった「ムセイオン」と併設された図書館が焼け落ち、貴重な文献が失われてしまうという非常に残念なことも。

そして、カエサルはこの戦争で非常に苦戦を強いられました。しかし、カエサルとクレオパトラは辛くもプトレマイオス13世の軍を破って勝利します。

クレオパトラ、女王として君臨

アレクサンドリア戦争終結の翌年、クレオパトラは、もうひとりの弟・プトレマイオス14世を名目上の夫としてエジプトを共同統治することになります。けれど、共同統治とは言ったものの、プトレマイオス14世は名ばかりの統治者であり、実際はクレオパトラがファラオ(王)としてひとりで統治していました。

そして、クレオパトラの復権に協力してくれたカエサルはクレオパトラの後見人として、エジプトでの実権を持つようになります。

\次のページで「クレオパトラとカエサルの息子「カエサリオン」誕生」を解説!/

クレオパトラとカエサルの息子「カエサリオン」誕生

image by PIXTA / 4825861

アレクサンドリア戦争後、カエサルはすぐにローマには帰らず、およそ九か月間エジプトで暮らします。そうしてふたりの間に生まれたのが息子「カエサリオン」でした。

女たらしで各地に愛人のいるカエサルでしたが、娘は多く生まれど、男の子はクレオパトラとの間に生まれたこのカエサリオンひとり。つまり、カエサリオンはカエサルの後継者として相応しい子どもだったのです。

やりすぎたカエサル、とうとう暗殺される

カエサルはローマからの帰還要請に応え、エジプトを出ると小アジアの平定とポンペイウス派の残党を平定しました。その後、カエサルは事実上の独裁政治を開始して「終身独裁官」に就任したのです。

カエサルが独裁政治は、それまでのローマの共和政とは大きく離れたものでした。独裁に危機感を抱いた反対派が結束してカエサル暗殺計画を実行してしまうのです。こうして、カエサルは、元老院会議が開かれるポンペイウス劇場の一部トッレ・アンジェンティーナ広場で取り囲まれて暗殺されてしまったのでした。

カエサルが暗殺されると、ローマに招かれていたクレオパトラは暗殺の手が自分にも及ぶのではないかと恐れ、すぐにエジプトへ帰国したのです。

3.カエサルの死から一転、クレオパトラがプトレマイオス朝最後の女王になったワケ

image by PIXTA / 23432514

カエサルが暗殺され、急ぎエジプトに戻ったクレオパトラ。残念ながら、カエサリオンはカエサルの後継者とは認められませんでした。その代り、彼女はカエサリオンをエジプトの共同統治者としました。

一方、ローマではカエサルの後継を巡る争いが起こります。後継者として有力だったのは、カエサルの部下「アントニウス」と、カエサルの養子「オクタウィアヌス」でした。

クレオパトラ、アントニウスと結婚する

ローマで後継者争いを繰り広げるアントニウスはライバルを出し抜き、戦争で名声を高めるため、その支援を求めてクレオパトラに接近します。クレオパトラもまたカエサルに代わって彼女自身やエジプトを守ってくれる人物が必要でした。そこでクレオパトラはアントニウスを誘惑し、結婚にまでこぎつけたのです。

こうしてクレオパトラの援助を得たアントニウスでしたが、名声を求めての戦争自体は大失敗してしまいます。アントニウスはエジプトに逃げ帰り、ますますクレオパトラに夢中になっていくのでした。

ローマと対立!クレオパトラ破滅への一歩

アントニウスはクレオパトラと結婚するため、ローマに置いてきた妻と離婚。さらにエジプトに入りびたってローマに戻らなかったため、ローマ市民からの評判は最悪になっていきます。

また、クレオパトラもカエサリオンこそカエサルの後継者だと主張し、アントニウスにオクタウィアヌスと戦うようせっつきました。

そうして、紀元前34年、ついにエジプトとローマの間に戦争が勃発。「アクティウム海戦」が始まったのです。満を持してのローマとの戦争でしたが、しかし、蓋を開けてみればエジプト側の敗北。クレオパトラとアントニウスはそれぞれアレクサンドリアになんとか帰還します。

\次のページで「毒ヘビに自分を噛ませて自殺!クレオパトラの最後」を解説!/

毒ヘビに自分を噛ませて自殺!クレオパトラの最後

image by PIXTA / 60667732

アクティウム海戦で敗北を喫したクレオパトラとアントニウス。このとき、アントニウスはクレオパトラが裏切り、彼女が自殺したという誤報を聞いて自害してしまいます。

クレオパトラは敗戦が決まったあともなんとかオクタウィアヌスと交渉しようとしました。しかし、ローマとオクタウィアヌスに屈服することを良しとせず、最期にクレオパトラは毒ヘビ(コブラ)に自ら胸を噛ませて自害してしまったのです。

そして、クレオパトラとカエサルの息子カエサリオンもオクタウィアヌスに捕まって殺されてしまいます。こうして、プトレマイオス朝は滅び、クレオパトラは最後の女王となったのでした。

己を武器に、エジプトに君臨し続けた女王

プトレマイオス朝エジプトの王族として生まれたクレオパトラ。しかし、複雑な親戚関係から王位継承の争いは耐えません。クレオパトラは弟と結婚して女王となりますが、弟の後見人たちによって追放されてしまいます。しかし、運が味方したのか、ローマの強力な政治家・カエサルがエジプトにやってきたのを境にクレオパトラは復権。女王として権力を振るうように。そして、カエサルは暗殺されると、クレオパトラは次にエジプトにやってきたアントニウスと結んで、カエサルの後継者争いをしているオクタウィアヌスと戦うことに。けれど、この戦いに敗れてしまい、クレオパトラは自ら毒ヘビに噛まれて自害してしまうのです。こうしてエジプトはローマの支配下になったのでした。

" /> 3分で簡単「クレオパトラ」プトレマイオス朝最後の女王とは?なぜカエサルの愛人になった?歴史オタクがわかりやすく解説 – Study-Z
世界史中東の歴史

3分で簡単「クレオパトラ」プトレマイオス朝最後の女王とは?なぜカエサルの愛人になった?歴史オタクがわかりやすく解説

紀元前1世紀中ごろのエジプト女王「クレオパトラ」は知っているか?世界三大美女にも数えられるようなものすごい美女です。しかし、クレオパトラは美しいだけでなく、政治家としてもかなり活躍した。
今回は「クレオパトラ」について、彼女が最後の女王となったプトレマイオス朝や、愛人となったローマのカエサルとアントニウスについても交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代のエジプトとローマに関わる重要人物「クレオパトラ」についてまとめた。

1.クレオパトラが最後の女王となったプトレマイオス朝エジプトとは

image by PIXTA / 57986326

今回解説する「クレオパトラ」が治めたプトレマイオス朝エジプト。そのはじまりは紀元前304年にまでさかのぼります。そのころ、現在のギリシャ北部にあった古代マケドニア王国の王・アレクサンドロス大王(イスカンダル)の東方遠征により小アジアからシリア、エジプト、ペルシア帝国を征服して広大な帝国を築いていました。

しかし、アレクサンドロス大王は後継者を決める前に亡くなってしまい、家臣たちの後継者争いによって帝国は分裂してしまいます。その分裂したうち、エジプトを引き継いだのがプトレマイオス1世でした。

プトレマイオス朝エジプトはどんな国?

マケドニアのアレクサンドロス大王の後継者のひとりプトレマイオス1世が治めることになったエジプト。首都はアレクサンドリア。現在のエジプトの首都カイロの北西にある地中海に面した都市で、海上貿易によって栄えました。

プトレマイオス1世はギリシャ人でしたが、エジプトの文化や制度は残し、エジプト人にはエジプトの法律を、ギリシャ人にはギリシャの法律を適応します。王様がギリシャ人だからとエジプトの人たちも今日からギリシャの法律に従え、と横柄にしなかったわけですね。

ギリシャ文化とオリエント文化の融合「ヘレニズム」

ギリシャ文化とオリエント文化が融合した文化「ヘレニズム」世界の中心となります。ヘレニズム文化の下、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケなど、一度は見たことがあるような彫刻が造られました。また、ヘレニズムは後のルネサンスや、インドのガンダーラ美術などに影響を与えます。

プトレマイオス朝の衰退はいつから?

プトレマイオス2世が従来のエジプトと同じように王権の神格化をはかったりと、プトレマイオス朝は徐々にギリシャから離れ、エジプト化していきます。そうして、プトレマイオス朝四代目の王となったころ、複雑な王位継承権や政治の停滞、外敵との戦いなどさまざまな問題を抱え、プトレマイオス朝の衰退が表面化していきました。

そんななか、プトレマイオス1世の子孫が民衆の怒りを買って殺され、代わりに王位についたのが傍系のプトレマイオス12世。クレオパトラの父でした。

また、一方で、このような状況にあるエジプトを狙いはじめたのがローマだったのです。

\次のページで「2.揉めるエジプトの王位継承問題」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: