
世界的に有名になった始皇帝の陵墓「兵馬俑」

阿房宮を建設するよりも前に始皇帝は自らのお墓となる「始皇帝陵(驪山)」の建設を始めます。こちらも巨大、かつ、地面を深くまで掘削して作れられました。陵墓の中にはたくさんの豪華な品と家臣たちを模した俑(人形)が副葬品として集められます。お墓の中にこうした品々を収めるのは、始皇帝の死後も生前と同じように暮らすためです。しかし、秦の滅亡後、始皇帝陵は楚の項羽の軍隊によって荒らされ、その存在は伝説となってしまいます。
この始皇帝の陵墓が発見されたのが1974年の春のこと。井戸を掘っていた農民たちが「兵馬俑」を発見。そのニュースは瞬く間に世界中を駆け抜け、伝説の建造物が実在したのだと知らしめたのでした。
北の匈奴を阻め!「万里の長城」建設
今やユネスコの世界遺産に登録されている中国の城壁遺跡「万里の長城」。秦以降も各時代の王が延長し続け、公式では全長21,196キロメートルと発表されています。長すぎてちょっと実感しづらいですね。しかし、始皇帝が建設した万里の長城は、現在の万里の長城よりも北方にあり、約4000キロメートルの長さだったと言います。
なぜ北に万里の長城が造られたのか?
それは、秦統一前の戦国時代から北の遊牧騎馬民族の「匈奴」から国を防衛するために必要だったのです。始皇帝が中華を統一してからもその脅威が去ったわけではありません。始皇帝が各国が以前から造っていた長城を修復して繋げ、「万里の長城」という防壁となったのでした。
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始皇帝は首都・咸陽の人口を無理矢理増やして都を膨張させ、さらに広大な阿房宮を造営した。その阿房宮から300キロほど離れた場所に自分の墓となる始皇帝陵を建設。その規模も大きかったんだが、1974年に「兵馬俑」が見つかるまで伝説とされていたんだ。見つかった時は世紀の大発見として大騒ぎだったぞ。さらに、始皇帝といえば「万里の長城」も有名だな。始皇帝以降も各王朝の王が万里の長城を継ぎ足したりしている。よく写真で見る万里の長城は明の時代のものだそうだ。
4.不老不死への憧れと秦の滅亡
歌川国芳 – Museum of Fine Arts Boston, パブリック・ドメイン, リンクによる
広大な中華を治め、数々の政策を行った始皇帝。先人たちが成し得なかったことを成した始皇帝でしたが、年々近づきつつある「死」にまでは抗うことはできません。そこで始皇帝は「真人」と呼ばれる超人や「仙人」を探し、不老不死の薬を譲り受けようと考えます。
不老不死の薬は東方に?日本にやってきた徐福
不老不死の薬を求めた始皇帝は、国内の隅々にまで不死の薬を探すよう御触れを出しました。しかし、役所のどこからも薬を見つけた、という返事はありません。
そんなとき、始皇帝の前に現れたの男が「徐福(徐市)」でした。徐福は仙人たちが住む蓬莱山は遥か東にあるといい、仙人から不老不死の薬をもらってくるので、その資金を出してほしいと始皇帝に提案します。
始皇帝はそれならばと徐福に力を貸すのですが……徐福は不老不死の薬を持ち帰ることはありませんでした。徐福としても、何の成果もないままいればいずれ殺されてしまいます。そこで、徐福は海へと漕ぎだしたのでした。その後、徐福は日本へ渡来したのと伝説があり、日本各地に徐福が渡来したという伝承が伝わっています。
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死因は水銀中毒!?始皇帝の死

死を恐れた始皇帝は、道教の不老不死の薬とされる「丹薬」を服用していました。けれど、この丹薬の主成分は硫化水銀、つまり水銀です。水銀は今でこそ毒として周知されていますが、昔は薬として使用されていましたから、何の疑いもなく飲んでいたんですね。しかし、水銀を飲み続ければ水銀中毒となり、中毒死してしまいます。
丹薬を飲み続けた始皇帝は50歳で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのでした。
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