戦国時代に何人もいた「王」よりもさらに特別な「皇帝」へ
さて、戦国時代以前の中国には王様はひとりしかいませんでした。ところが、戦国時代に入って国が別れ、それぞれの代表が王を名乗ります。秦が滅ぼした六つの国にもそれぞれ王様がいました。
けれど、せっかく広大な中華を統一した強力な国家のですから、「王」よりももっと特別な称号がほしいというもの。そこで始皇帝は李斯たち家臣に王に変わる新しい尊称を考えさせます。そうして「皇帝」という尊称や、皇帝の自称を「朕」とするなど皇帝専用の言葉が登場したのでした。
「封建制」は廃止、新しく「郡県制」へ
戦国時代の前に栄えた王朝「周」では、王の一族や家臣、有力な豪族を諸侯として土地の支配権を与えて統治させていました。このようなシステムを「封建制」といいました(ヨーロッパの封建制度とはまた少し違うので注意です)。地方の政治や税収を諸侯に任せるため、封建制はそれぞれの諸侯に権力を分散する地方分権体制です。
一方、始皇帝はこの「封建制」をやめて「郡県制」を取り入れることにしました。「郡県制」は全国を36の群に分け、それぞれに官吏を派遣して治めさせるというもの。官吏はいわゆる公務員、つまりは地方で好き勝手できない始皇帝の臣下です。「郡県制」を採用することで権力を皇帝に集め、秦は中央集権体制の国家となったのでした。
バラバラじゃ国が成り立たない!秤・お金・文字の統一事業
六つの国を滅ぼして統一したので、秦のなかでも地域によってはお金や文字、それに秤なんかも違ったものが使われていました。しかし、ひとつの国の中でバラバラだと他の地域の人との交流ができません。せっかく遠くから珍しいものを持ってきてくれても、お金が違うから売り買いできないのです。
これではいけないと思った始皇帝は、貨幣、度量衡、文字の統一事業に乗り出しました。
まずは、それまで各国で使われた青銅貨幣に代わって中国初の統一貨幣となる「半両銭」を流通させます。そして、度量衡(長さの単位、体積をはかる升、重さをはかる秤)を決めました。これらが統一されたことで、租税の量や土地の面積をきちんとはかったり、貨幣鋳造がより正確に行えるようになったのです。
それから、公文書などで用いられる公式の書体「小篆」を採用しました。
書を焼き、学者を埋めよ。始皇帝の「焚書・坑儒」
紀元前213年。晩年の始皇帝は、丞相・李斯の発案により「焚書」と「坑儒」を行いました。始皇帝の政策に批判的な儒家らの書を焼く「焚書(ふんしょ)」と、政治批判をするものを一族ごと処刑する「坑儒(こうじゅ)」と言います。書物は実用書以外は焼き捨てられ、儒家が比較的多く処刑されたとされました。
なぜこれほど苛烈な焚書坑儒を行ったのか?中華は統一されたとは言え、国外の外敵がいないわけではありません。特に北方の遊牧騎馬民族「匈奴」たちが部族を統一して秦の脅威となったです。焚書と坑儒はこうした外敵との戦いを意識した思想統制だったと言われます。
3.首都・咸陽の大宮殿「阿房宮」に「万里の長城」まで!始皇帝の大規模な土木工事
様々なものが秦国内で統一されたとなれば、次に整備しなければいけないのはインフラです。特に秦の首都「咸陽」は一番賑わっていてしかるべきですから、咸陽へと繋がる道路工事、それにやってきた人たちがあっと驚くような始皇帝の宮殿も。
そのために、始皇帝は全国から12万戸の富豪たちを強制移住させました。こうすることで咸陽を賑わせると同時に、なかなか目の届きにくい地方の財力や武力を削ったのです。そして、始皇帝自身の住居として広大な阿房宮の建設に着手しました。ただし、阿房宮建設の計画はあまりに広大すぎたために完成より先に秦が滅亡。未完成のままに終わります。
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