紀元前200年ごろに中国に成立した「秦」は、はじめて中華を統一した帝国です。その皇帝となったのが今回のテーマとした「始皇帝」。万里の長城や兵馬俑が有名どころです。
今回は「秦の始皇帝」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代中国をはじめて統一した「秦の始皇帝」についてまとめた。

1.始皇帝はじめての中国全土統一!

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不明 - Yuan, Zhongyi. China's terracotta army and the First Emperor's mausoleum: the art and culture of Qin Shihuang's underground palace. Paramus, New Jersey: Homa & Sekey Books, 2010. ISBN 978-1-931907-68-2 (p.140), パブリック・ドメイン, リンクによる

「秦の始皇帝」が生まれたのは紀元前259年のこと。このころの中国は秦、韓、魏、趙、楚、斉、燕の七つの国に分かれて対立する「戦国時代」でした。中国統一までは「皇帝」でなく「秦王(嬴政・えいせい)」でありますが、ややこしくなるのでここでは始皇帝で統一しますね。

さて、七国のなかでも秦は最も西に位置します。父王が亡くなると、当時わずか13歳だった始皇帝が即位。最初こそ家臣たちに政治を任せていましたが、成人するとみるみるうちにその政治手腕を発揮していったのです。

まずは富国強兵に努めよう!灌漑農業開始に法整備

他国に勝つため、そして国を生き残らせるために始皇帝は秦の強化を行います。

国を成り立たせるための国民が必要とする食料は重要ですよね。まず、始皇帝は農業を安定させるため「灌漑農業(かんがいのうぎょう)」を推進します。灌漑農業は、農業に欠かせない水を得るために人工的なため池や用水路を用いた農業のこと。自然と降る雨に頼り切りでは不安定だった農業が、水を溜めるシステムを用いることで安定し、生産量を増やすことができたのです

また、秦は法を重視する国家でした。始皇帝は、法家(諸子百家のひとつ)の「李斯(りし)」を重用。李斯は始皇帝に厳格な法のもとで国を統治することを説くと同時に、秦の重要な政治家となります。

秦の統一戦争開始!諸国を次々と滅亡に

富国強兵に努め、強力な軍事力を持った秦の始皇帝は、紀元前236年、ついに中華統一へ向けて戦争を開始します。まずはお隣の韓と趙の二国、そして、燕でした。

始皇帝に深い恨みを持っていた燕の太子・丹は始皇帝へ暗殺者「荊軻(けいか)」を差し向けます。荊軻は巧みに始皇帝へと近づき、あわやと言うところまで始皇帝を追い込んだのです。しかし、あと一歩というところで暗殺は失敗。激怒した始皇帝はすぐさま燕を滅ぼしてしまいます。

そうして、魏、楚、斉を次々と滅ぼし、紀元前221年に統一戦争と戦国時代に終止符を打ったのでした。

2.これから秦をどうする?始皇帝の政策

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中華統一を成し遂げたのが、始皇帝39歳のころのこと。外敵を打ち倒したあとは、今度は内政により力を入れなくてはなりません。始皇帝はそのための数々の政策を打ち出します。そして、それは後に続く国家へと受け継がれる皇帝による政治の基礎となるのでした。

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戦国時代に何人もいた「王」よりもさらに特別な「皇帝」へ

さて、戦国時代以前の中国には王様はひとりしかいませんでした。ところが、戦国時代に入って国が別れ、それぞれの代表が王を名乗ります。秦が滅ぼした六つの国にもそれぞれ王様がいました。

けれど、せっかく広大な中華を統一した強力な国家のですから、「王」よりももっと特別な称号がほしいというもの。そこで始皇帝は李斯たち家臣に王に変わる新しい尊称を考えさせます。そうして「皇帝」という尊称や、皇帝の自称を「朕」とするなど皇帝専用の言葉が登場したのでした。

「封建制」は廃止、新しく「郡県制」へ

戦国時代の前に栄えた王朝「周」では、王の一族や家臣、有力な豪族を諸侯として土地の支配権を与えて統治させていました。このようなシステムを「封建制」といいました(ヨーロッパの封建制度とはまた少し違うので注意です)。地方の政治や税収を諸侯に任せるため、封建制はそれぞれの諸侯に権力を分散する地方分権体制です。

一方、始皇帝はこの「封建制」をやめて「郡県制」を取り入れることにしました。「郡県制」は全国を36の群に分け、それぞれに官吏を派遣して治めさせるというもの。官吏はいわゆる公務員、つまりは地方で好き勝手できない始皇帝の臣下です。「郡県制」を採用することで権力を皇帝に集め、秦は中央集権体制の国家となったのでした。

バラバラじゃ国が成り立たない!秤・お金・文字の統一事業

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六つの国を滅ぼして統一したので、秦のなかでも地域によってはお金や文字、それに秤なんかも違ったものが使われていました。しかし、ひとつの国の中でバラバラだと他の地域の人との交流ができません。せっかく遠くから珍しいものを持ってきてくれても、お金が違うから売り買いできないのです。

これではいけないと思った始皇帝は、貨幣、度量衡、文字の統一事業に乗り出しました。

まずは、それまで各国で使われた青銅貨幣に代わって中国初の統一貨幣となる「半両銭」を流通させます。そして、度量衡(長さの単位、体積をはかる升、重さをはかる秤)を決めました。これらが統一されたことで、租税の量や土地の面積をきちんとはかったり、貨幣鋳造がより正確に行えるようになったのです。

それから、公文書などで用いられる公式の書体「小篆」を採用しました。

書を焼き、学者を埋めよ。始皇帝の「焚書・坑儒」

紀元前213年。晩年の始皇帝は、丞相・李斯の発案により「焚書」と「坑儒」を行いました。始皇帝の政策に批判的な儒家らの書を焼く「焚書(ふんしょ)」と、政治批判をするものを一族ごと処刑する「坑儒(こうじゅ)」と言います。書物は実用書以外は焼き捨てられ、儒家が比較的多く処刑されたとされました。

なぜこれほど苛烈な焚書坑儒を行ったのか?中華は統一されたとは言え、国外の外敵がいないわけではありません。特に北方の遊牧騎馬民族「匈奴」たちが部族を統一して秦の脅威となったです。焚書と坑儒はこうした外敵との戦いを意識した思想統制だったと言われます。

3.首都・咸陽の大宮殿「阿房宮」に「万里の長城」まで!始皇帝の大規模な土木工事

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様々なものが秦国内で統一されたとなれば、次に整備しなければいけないのはインフラです。特に秦の首都「咸陽」は一番賑わっていてしかるべきですから、咸陽へと繋がる道路工事、それにやってきた人たちがあっと驚くような始皇帝の宮殿も。

そのために、始皇帝は全国から12万戸の富豪たちを強制移住させました。こうすることで咸陽を賑わせると同時に、なかなか目の届きにくい地方の財力や武力を削ったのです。そして、始皇帝自身の住居として広大な阿房宮の建設に着手しました。ただし、阿房宮建設の計画はあまりに広大すぎたために完成より先に秦が滅亡。未完成のままに終わります。

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世界的に有名になった始皇帝の陵墓「兵馬俑」

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阿房宮を建設するよりも前に始皇帝は自らのお墓となる「始皇帝陵(驪山)」の建設を始めます。こちらも巨大、かつ、地面を深くまで掘削して作れられました。陵墓の中にはたくさんの豪華な品と家臣たちを模した俑(人形)が副葬品として集められます。お墓の中にこうした品々を収めるのは、始皇帝の死後も生前と同じように暮らすためです。しかし、秦の滅亡後、始皇帝陵は楚の項羽の軍隊によって荒らされ、その存在は伝説となってしまいます。

この始皇帝の陵墓が発見されたのが1974年の春のこと。井戸を掘っていた農民たちが「兵馬俑」を発見。そのニュースは瞬く間に世界中を駆け抜け、伝説の建造物が実在したのだと知らしめたのでした。

北の匈奴を阻め!「万里の長城」建設

今やユネスコの世界遺産に登録されている中国の城壁遺跡「万里の長城」。秦以降も各時代の王が延長し続け、公式では全長21,196キロメートルと発表されています。長すぎてちょっと実感しづらいですね。しかし、始皇帝が建設した万里の長城は、現在の万里の長城よりも北方にあり、約4000キロメートルの長さだったと言います。

なぜ北に万里の長城が造られたのか?

それは、秦統一前の戦国時代から北の遊牧騎馬民族の「匈奴」から国を防衛するために必要だったのです。始皇帝が中華を統一してからもその脅威が去ったわけではありません。始皇帝が各国が以前から造っていた長城を修復して繋げ、「万里の長城」という防壁となったのでした。

4.不老不死への憧れと秦の滅亡

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歌川国芳 - Museum of Fine Arts Boston, パブリック・ドメイン, リンクによる

広大な中華を治め、数々の政策を行った始皇帝。先人たちが成し得なかったことを成した始皇帝でしたが、年々近づきつつある「死」にまでは抗うことはできません。そこで始皇帝は「真人」と呼ばれる超人や「仙人」を探し、不老不死の薬を譲り受けようと考えます。

不老不死の薬は東方に?日本にやってきた徐福

不老不死の薬を求めた始皇帝は、国内の隅々にまで不死の薬を探すよう御触れを出しました。しかし、役所のどこからも薬を見つけた、という返事はありません。

そんなとき、始皇帝の前に現れたの男が「徐福(徐市)」でした。徐福は仙人たちが住む蓬莱山は遥か東にあるといい、仙人から不老不死の薬をもらってくるので、その資金を出してほしいと始皇帝に提案します。

始皇帝はそれならばと徐福に力を貸すのですが……徐福は不老不死の薬を持ち帰ることはありませんでした。徐福としても、何の成果もないままいればいずれ殺されてしまいます。そこで、徐福は海へと漕ぎだしたのでした。その後、徐福は日本へ渡来したのと伝説があり、日本各地に徐福が渡来したという伝承が伝わっています。

死因は水銀中毒!?始皇帝の死

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死を恐れた始皇帝は、道教の不老不死の薬とされる「丹薬」を服用していました。けれど、この丹薬の主成分は硫化水銀、つまり水銀です。水銀は今でこそ毒として周知されていますが、昔は薬として使用されていましたから、何の疑いもなく飲んでいたんですね。しかし、水銀を飲み続ければ水銀中毒となり、中毒死してしまいます。

丹薬を飲み続けた始皇帝は50歳で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのでした。

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始皇帝の崩御を引き金に、大帝国秦滅亡

紀元前210年に始皇帝が崩御。それをきっかけに大帝国秦は滅亡へと進んでいきます。

始皇帝の末子が皇帝となり、始皇帝の臣下だった「趙高」が宮廷での権力を掴んだのでした。しかし、それまでの土木工事などで酷使されていた農民たちによる「陳勝・呉広の乱」が勃発。趙高は乱を利用して、かつては始皇帝のそばで活躍した李斯を陥れて処刑してしまうのです。

そうして現れたのがのちに「漢」を打ち立てる「劉邦」、そして、楚の王族の生き残り「項羽」でした。ふたりは競って秦と戦い、ついに劉邦が咸陽に入り、奏を滅ぼしたのでした。

中華初の統一王朝を成し遂げた「始皇帝」

戦国時代、西の秦の王族として生まれた始皇帝。富国強兵に努めて、力をつけて他の六国を滅ぼし、ついに中華で初の統一王朝を作り上げました。政治手腕はすさまじく、中央集権化のための「郡県制」の施行、さらにそれまでばらばらだった貨幣やはかりなどを統一していきます。さらに、後世にその存在感を伝えるに十分な「兵馬俑」や「万里の長城」など有名な建造物も残しました。しかし、晩年は死を恐れて不老不死を求め、当時は薬とされていた水銀を飲んで亡くなってしまうのです。始皇帝を失ったあとの秦は残念ながら、15年ほどであっけなく滅んでしまうのでした。

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3分で簡単「秦の始皇帝」なぜ万里の長城を建設した?初めて中華を統一した皇帝を歴史オタクがわかりやすく解説

戦国時代に何人もいた「王」よりもさらに特別な「皇帝」へ

さて、戦国時代以前の中国には王様はひとりしかいませんでした。ところが、戦国時代に入って国が別れ、それぞれの代表が王を名乗ります。秦が滅ぼした六つの国にもそれぞれ王様がいました。

けれど、せっかく広大な中華を統一した強力な国家のですから、「王」よりももっと特別な称号がほしいというもの。そこで始皇帝は李斯たち家臣に王に変わる新しい尊称を考えさせます。そうして「皇帝」という尊称や、皇帝の自称を「朕」とするなど皇帝専用の言葉が登場したのでした。

「封建制」は廃止、新しく「郡県制」へ

戦国時代の前に栄えた王朝「周」では、王の一族や家臣、有力な豪族を諸侯として土地の支配権を与えて統治させていました。このようなシステムを「封建制」といいました(ヨーロッパの封建制度とはまた少し違うので注意です)。地方の政治や税収を諸侯に任せるため、封建制はそれぞれの諸侯に権力を分散する地方分権体制です。

一方、始皇帝はこの「封建制」をやめて「郡県制」を取り入れることにしました。「郡県制」は全国を36の群に分け、それぞれに官吏を派遣して治めさせるというもの。官吏はいわゆる公務員、つまりは地方で好き勝手できない始皇帝の臣下です。「郡県制」を採用することで権力を皇帝に集め、秦は中央集権体制の国家となったのでした。

バラバラじゃ国が成り立たない!秤・お金・文字の統一事業

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六つの国を滅ぼして統一したので、秦のなかでも地域によってはお金や文字、それに秤なんかも違ったものが使われていました。しかし、ひとつの国の中でバラバラだと他の地域の人との交流ができません。せっかく遠くから珍しいものを持ってきてくれても、お金が違うから売り買いできないのです。

これではいけないと思った始皇帝は、貨幣、度量衡、文字の統一事業に乗り出しました。

まずは、それまで各国で使われた青銅貨幣に代わって中国初の統一貨幣となる「半両銭」を流通させます。そして、度量衡(長さの単位、体積をはかる升、重さをはかる秤)を決めました。これらが統一されたことで、租税の量や土地の面積をきちんとはかったり、貨幣鋳造がより正確に行えるようになったのです。

それから、公文書などで用いられる公式の書体「小篆」を採用しました。

書を焼き、学者を埋めよ。始皇帝の「焚書・坑儒」

紀元前213年。晩年の始皇帝は、丞相・李斯の発案により「焚書」と「坑儒」を行いました。始皇帝の政策に批判的な儒家らの書を焼く「焚書(ふんしょ)」と、政治批判をするものを一族ごと処刑する「坑儒(こうじゅ)」と言います。書物は実用書以外は焼き捨てられ、儒家が比較的多く処刑されたとされました。

なぜこれほど苛烈な焚書坑儒を行ったのか?中華は統一されたとは言え、国外の外敵がいないわけではありません。特に北方の遊牧騎馬民族「匈奴」たちが部族を統一して秦の脅威となったです。焚書と坑儒はこうした外敵との戦いを意識した思想統制だったと言われます。

3.首都・咸陽の大宮殿「阿房宮」に「万里の長城」まで!始皇帝の大規模な土木工事

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様々なものが秦国内で統一されたとなれば、次に整備しなければいけないのはインフラです。特に秦の首都「咸陽」は一番賑わっていてしかるべきですから、咸陽へと繋がる道路工事、それにやってきた人たちがあっと驚くような始皇帝の宮殿も。

そのために、始皇帝は全国から12万戸の富豪たちを強制移住させました。こうすることで咸陽を賑わせると同時に、なかなか目の届きにくい地方の財力や武力を削ったのです。そして、始皇帝自身の住居として広大な阿房宮の建設に着手しました。ただし、阿房宮建設の計画はあまりに広大すぎたために完成より先に秦が滅亡。未完成のままに終わります。

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