平安時代日本史歴史

弘仁・貞観文化って何?国風文化との違いは?特徴・絵画・三筆も現役講師ライターが詳しく解説!

密教世界は絵画にも広がる?

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http://www.kaladarshan.arts.ohio-state.edu, パブリック・ドメイン, リンクによる

2つ目のキーワードである曼荼羅は仏の悟りである宇宙の理を絵に表現したものです。曼荼羅は密教絵画の代表で、金剛界という大日如来が金剛石のように煩悩を破る仏の配置と胎蔵界という胎児に教理を生成する仏の配置が描かれます。曼荼羅は金剛界と胎蔵界両方を描いたものが多いことから2つを合わせて両界曼荼羅とも呼ばれるのです。有名な曼荼羅として神護寺両界曼荼羅教王護国寺両界曼荼羅があります。

密教では大日如来を本尊として信仰していたため、大日如来の使者である不動明王も描かれました。園城寺にある体が黄色の不動明王の絵である黄不動は有名です。

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三不動という言葉を知っているか。平安時代に不動明王の信仰も広がり、各地で不動明王が描かれたんだ。その中でも園城寺の黄不動、高野山明王院の赤不動、京都青蓮院の青不動を合わせ三不動と呼んでいるんだ。黄不動は秘仏のため見ることはできないが模写されたものが曼殊院で見ることができるぞ。よく資料に載っている黄不動は曼殊院の黄不動なんだ。

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神秘性が高い、弘仁・貞観文化の仏像たち!

弘仁・貞観文化の時期に作られた仏像は密教の影響を受け、神秘性の漂う傑作が多いです。作成技術として首と胴体を1本の木から作る一木造や衣紋をなだらかなひだで表現する翻波式が使われ、仏像自体が量感に満ちたものになっています。

代表的仏像は大阪府河内長野市の観心寺如意輪観音像です。豊満な体つきに片膝を立て座る姿は美しく、密教の神秘的な雰囲気を漂わせています。また、神護寺薬師如来像も弘仁・貞観文化の代表的な仏像です。翻波式で見事に衣紋を表現し、量感を感じられる作品となっています。

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仏が変身?日本の神々は仏だった!

密教と山岳信仰から仏を本地(根本)として、人間を救済するために化身である垂迹身の神となったと考える本地垂迹説が平安時代に広がり、神仏習合という神社と寺院が結びつくようになりました。現在でも寺院の周りに守護神を祀る神社があったり、神社の境内に神宮寺が見られるのは神仏習合の影響になります。

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日本の神が仏の姿として登場?

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不明 – http://www2.kokugakuin.ac.jp/sntmuse/sogyo_Hachiman-shin_gazo.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

神社では神々の姿は見ることができない尊いものとして、偶像を置いていません。神社を参拝すると神前に像が置かれていないのはそうした理由です。しかし、神仏習合の影響で神像がこの時期に作られました。

有名な神像が薬師寺南大門の隣にある休岡八幡宮のご神体で薬師寺の鎮守となっている薬師寺僧形八幡神像です。お坊さんの姿をした八幡神を彫刻したものになります。

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神と仏が融合して大人気?熊野三山

神仏習合が進んだ地域として世界遺産にも認められている熊野三山の神社があります。熊野三山とは熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社の3つの神社です。3つのうち熊野那智大社の隣には青岸渡寺という天台宗の寺院があります。熊野那智大社と青岸渡寺は那智の滝の自然景観から修験道の場として、神仏習合により一体化していました。

明治時代に熊野本宮大社と熊野速玉大社にあった青岸渡寺の仏堂はなくなってしまいましたが、熊野那智大社の如意輪観音堂西国三十三ヶ所の第一番札所であったことから残され、現在の分離した熊野那智大社と青岸渡寺になっています。熊野古道の神社も神仏習合が行われ、発展した地域になるのです。

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世界遺産の熊野古道は正式名称を「紀伊山地の霊場と参詣道」というんだ。世界遺産として登録されているのはその参詣するための道である5つの道と霊場に当たる寺社だ。ただ、当時の参詣道を世界遺産にしているため道の全てが世界遺産というわけではないんだ。道の世界遺産は熊野古道とフランスからスペインにまたがるサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の2つだけとかなり稀な世界遺産になっているぞ。

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文学にも密教が影響?

密教を伝えた二人の僧は書物も残しています。密教を伝えた二人は文章の達人でもあったのです。また、朝廷は文章経国をはかって、文人貴族を登用していました。最澄や空海の僧と朝廷の考えが合わさって、文学が発展したのが弘仁・貞観文化なのです。

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hekigo1525