平安時代日本史歴史

弘仁・貞観文化って何?国風文化との違いは?特徴・絵画・三筆も現役講師ライターが詳しく解説!

よぉ、桜木健二だ。弘仁貞観文化という日本の文化を知っているか。小学校や中学校の教科書で見ることはない文化だが、日本の古代文化の基盤にもなる仏教が大きく変化した文化になるんだ。
今回は弘仁・貞観文化について、日本史の中でも仏教史や古代中世の文化史が大好きな現役講師ライター明東碧吾と詳しく解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/明東碧吾

現役塾講師で専門科目の社会の授業はわかりやすいという定評がある。古代・中世の文化史が大好きで、文化財鑑賞の旅へも出かける。

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弘仁・貞観文化って何だ。時代や特徴は?

image by iStockphoto

弘仁・貞観文化は平安時代の文化になります。弘仁・貞観文化では新しい仏教である密教が伝来し、朝廷により厚く保護されました。ここで「あれ?」と思われた方がいらっしゃるかと思います。そう、密教の伝来は小中学校では国風文化で紹介されていますね。では、国風文化との違いや特徴を見ていきましょう。

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国風文化との違い

平安時代の文化といえば、894年に遣唐使を廃止したことからできた日本風の文化の国風文化だと小中学校で学習したと思います。しかし、正確には794年の平安京遷都から894年頃までの文化と平安時代末期の文化と3つに分かれるのです。

弘仁・貞観文化は平安前期の嵯峨天皇清和天皇が即位していた頃の文化になります。その時の元号から弘仁貞観文化というのです。

また、国風文化は遣唐使の廃止で日本風のオリジナリティが発揮された文化になります。しかし、弘仁・貞観文化は唐風文化の影響を受けながらも日本のオリジナリティを織り交ぜ、融合させた文化という点が国風文化との大きな違いです。

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密教って何だ?

弘仁・貞観文化は中国から新たに入ってきた密教を中心とする文化です。密教というのは加持祈祷や山岳修行など厳しい修行を行うことを教えに持っている宗派になります。

日本の密教は最澄(伝教大師)の天台宗空海(弘法大師)の真言宗です。これら2つの宗派は弘仁・貞観文化だけでなく、後の仏教にも大きな影響を与えます。密教の伝来は日本にとって大きな衝撃を与えたのです。

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日本の神々と仏教が融合する?

みなさんは神社と寺院の違いを知っていますか。寺院は仏教施設、神社は日本古来またはその土地の神様や神として崇められる人を祀った場所です。神社は神々を崇めることから神道という宗教になります。

平安期に日本の神々は仏が姿を変えたものであるという考え方が広がり、神社と寺院が融合するようになりました。

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2つの密教が弘仁・貞観文化を生み出す?

794年平安京に桓武天皇が遷都します。710年平城京に遷都したときは藤原京にあった薬師寺や大官大寺などが移転して平城京内に建てられました。しかし、桓武天皇は奈良の貴族や僧の勢力を一掃したかったため、平城京の寺院を受け入れませんでした。

804年に最澄と空海が遣唐使に従って入唐しました。最澄は法華経を中心とする天台の教えを受けて帰国し、天台宗を開きます。空海は唐の都長安で密教の奥義をきわめ、わずか2年で帰国。高野山に金剛峯寺を建てて、真言宗を開きます。

天台宗と真言宗を桓武天皇が支持することで、平安京を中心に密教文化が浸透しました。弘仁・貞観文化は密教が平安京に広がることで、花開いた文化なのです。

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2つの密教その1:比叡山から広がる天台宗

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不明 – 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる

比叡山延暦寺を建立した最澄は「山家学生式」という学僧の規則を定め、独自の大乗戒壇を創設しようとします。戒壇とは出家者が正式な僧尼になる授戒を受けるための結界が常に整った場所のことです。奈良時代に東大寺太宰府の観世音寺下野の薬師寺に戒壇が置かれていました。これら3つの戒壇を天下の三戒壇といいます。

最澄は天下の三戒壇では菩薩戒を得られるものではない小乗戒だと主張し、菩薩戒を得られる大乗戒壇の設置を訴えたのです。当然、最澄の動きに奈良の仏教界は猛反対します。それでも大乗戒壇は必要だと最澄は訴えるため、「顕戒論」を著して反論しました。最澄の死後、大乗戒壇は認められ延暦寺は仏教を学ぶ中心地となったのです。

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天台宗は最澄の死後、2つの派閥に分かれたんだ。延暦寺の住職を天台座主と呼ぶんだが、第3代座主の円仁と第5代座主の円珍が考え方で対立したんだ。993年、円仁が円珍派の僧坊を焼き払うという事件が起こり、円珍派の僧侶約1000人が比叡山を降り、園城寺に移ったんだ。山を降りた円珍の天台宗を寺門派と呼び、円仁など延暦寺の天台宗を山門派と呼ぶようになり、2つの派閥に分かれたんだ。

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2つの密教その2:高野山で修行を行う真言宗

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Anonymous Kamakura-period artist – https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/ken/kouboudaisizou_1fuku.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

唐で密教の奥義をきわめた空海は秘密の呪法の伝授・習得で悟りを開こうとする密教の立場を「十住心論」で明らかにします。経典から悟りを開こうとする顕教に対して秘奥の修行を行うことから密教と呼ぶのです。

真言は大日如来の真実の言葉という意味を表しています。真言宗では宇宙の真理である大日如来を本尊にしているのです。

空海は密教を行う道場として高野山金剛峯寺を建てました。また、空海は嵯峨天皇から平安京内の官寺を授けられ、真言宗の道場にします。これが現在の教王護国寺(または東寺)です。真言宗は平安京で広がっていきました。

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密教の広がりが弘仁・貞観文化を高める?

古代日本の文化は仏教が大きく影響しています。最澄と空海が伝えた密教は新しい文化形成に大きな影響を与え、弘仁・貞観文化を形成しました。

弘仁・貞観文化はどのような文化になったのでしょうか。キーワードは修験道曼荼羅になります。では、キーワードに沿って見ていきましょう。

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密教の寺院は伽藍配置が独特?

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Saigen Jiro投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる

1つ目のキーワードである修験道とは山岳に籠って、厳しい修行をすることです。密教は加持祈祷を行うため、山あいに寺院を立てる山岳仏教の性質があります。山岳信仰が組み合わさり、修験道が誕生しました。

修験道を行うため、弘仁・貞観文化の寺院は山を一つの寺院の領域としてその中に仏教建築物を立てる形になります。天平文化以前の寺院は伽藍配置といって、建築物を領域内に綺麗に配置していました。しかし、密教寺院は山の中に建築物が点在する形になります。

弘仁・貞観文化の寺院の代表として有名なのが室生寺です。室生寺は山の地形に合わせて、さまざまな建築物を点在させています。室生寺金堂五重塔は国宝で当時の特徴的な建築物です。

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