弘仁貞観文化という日本の文化を知っているか。小学校や中学校の教科書で見ることはない文化ですが、日本の古代文化の基盤にもなる仏教が大きく変化した文化になるんです。
今回は弘仁・貞観文化について、日本史の中でも仏教史や古代中世の文化史が大好きな現役講師ライター明東碧吾と詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役塾講師で専門科目の社会の授業はわかりやすいという定評がある。古代・中世の文化史が大好きで、文化財鑑賞の旅へも出かける。

弘仁・貞観文化って何だ。時代や特徴は?

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弘仁・貞観文化は平安時代の文化になります。弘仁・貞観文化では新しい仏教である密教が伝来し、朝廷により厚く保護されました。ここで「あれ?」と思われた方がいらっしゃるかと思います。そう、密教の伝来は小中学校では国風文化で紹介されていますね。では、国風文化との違いや特徴を見ていきましょう。

国風文化との違い

平安時代の文化といえば、894年に遣唐使を廃止したことからできた日本風の文化の国風文化だと小中学校で学習したと思います。しかし、正確には794年の平安京遷都から894年頃までの文化と平安時代末期の文化と3つに分かれるのです。

弘仁・貞観文化は平安前期の嵯峨天皇清和天皇が即位していた頃の文化になります。その時の元号から弘仁貞観文化というのです。

また、国風文化は遣唐使の廃止で日本風のオリジナリティが発揮された文化になります。しかし、弘仁・貞観文化は唐風文化の影響を受けながらも日本のオリジナリティを織り交ぜ、融合させた文化という点が国風文化との大きな違いです。

密教って何だ?

弘仁・貞観文化は中国から新たに入ってきた密教を中心とする文化です。密教というのは加持祈祷や山岳修行など厳しい修行を行うことを教えに持っている宗派になります。

日本の密教は最澄(伝教大師)の天台宗空海(弘法大師)の真言宗です。これら2つの宗派は弘仁・貞観文化だけでなく、後の仏教にも大きな影響を与えます。密教の伝来は日本にとって大きな衝撃を与えたのです。

日本の神々と仏教が融合する?

みなさんは神社と寺院の違いを知っていますか。寺院は仏教施設、神社は日本古来またはその土地の神様や神として崇められる人を祀った場所です。神社は神々を崇めることから神道という宗教になります。

平安期に日本の神々は仏が姿を変えたものであるという考え方が広がり、神社と寺院が融合するようになりました。

2つの密教が弘仁・貞観文化を生み出す?

794年平安京に桓武天皇が遷都します。710年平城京に遷都したときは藤原京にあった薬師寺や大官大寺などが移転して平城京内に建てられました。しかし、桓武天皇は奈良の貴族や僧の勢力を一掃したかったため、平城京の寺院を受け入れませんでした。

804年に最澄と空海が遣唐使に従って入唐しました。最澄は法華経を中心とする天台の教えを受けて帰国し、天台宗を開きます。空海は唐の都長安で密教の奥義をきわめ、わずか2年で帰国。高野山に金剛峯寺を建てて、真言宗を開きます。

天台宗と真言宗を桓武天皇が支持することで、平安京を中心に密教文化が浸透しました。弘仁・貞観文化は密教が平安京に広がることで、花開いた文化なのです。

2つの密教その1:比叡山から広がる天台宗

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不明 - 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる

比叡山延暦寺を建立した最澄は「山家学生式」という学僧の規則を定め、独自の大乗戒壇を創設しようとします。戒壇とは出家者が正式な僧尼になる授戒を受けるための結界が常に整った場所のことです。奈良時代に東大寺太宰府の観世音寺下野の薬師寺に戒壇が置かれていました。これら3つの戒壇を天下の三戒壇といいます。

最澄は天下の三戒壇では菩薩戒を得られるものではない小乗戒だと主張し、菩薩戒を得られる大乗戒壇の設置を訴えたのです。当然、最澄の動きに奈良の仏教界は猛反対します。それでも大乗戒壇は必要だと最澄は訴えるため、「顕戒論」を著して反論しました。最澄の死後、大乗戒壇は認められ延暦寺は仏教を学ぶ中心地となったのです。

2つの密教その2:高野山で修行を行う真言宗

Kobo Daishi (Taisanji Matsuyama).jpg
Anonymous Kamakura-period artist - https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/ken/kouboudaisizou_1fuku.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

唐で密教の奥義をきわめた空海は秘密の呪法の伝授・習得で悟りを開こうとする密教の立場を「十住心論」で明らかにします。経典から悟りを開こうとする顕教に対して秘奥の修行を行うことから密教と呼ぶのです。

真言は大日如来の真実の言葉という意味を表しています。真言宗では宇宙の真理である大日如来を本尊にしているのです。

空海は密教を行う道場として高野山金剛峯寺を建てました。また、空海は嵯峨天皇から平安京内の官寺を授けられ、真言宗の道場にします。これが現在の教王護国寺(または東寺)です。真言宗は平安京で広がっていきました。

密教の広がりが弘仁・貞観文化を高める?

古代日本の文化は仏教が大きく影響しています。最澄と空海が伝えた密教は新しい文化形成に大きな影響を与え、弘仁・貞観文化を形成しました。

弘仁・貞観文化はどのような文化になったのでしょうか。キーワードは修験道曼荼羅になります。では、キーワードに沿って見ていきましょう。

密教の寺院は伽藍配置が独特?

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Saigen Jiro - 投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる

1つ目のキーワードである修験道とは山岳に籠って、厳しい修行をすることです。密教は加持祈祷を行うため、山あいに寺院を立てる山岳仏教の性質があります。山岳信仰が組み合わさり、修験道が誕生しました。

修験道を行うため、弘仁・貞観文化の寺院は山を一つの寺院の領域としてその中に仏教建築物を立てる形になります。天平文化以前の寺院は伽藍配置といって、建築物を領域内に綺麗に配置していました。しかし、密教寺院は山の中に建築物が点在する形になります。

弘仁・貞観文化の寺院の代表として有名なのが室生寺です。室生寺は山の地形に合わせて、さまざまな建築物を点在させています。室生寺金堂五重塔は国宝で当時の特徴的な建築物です。

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密教世界は絵画にも広がる?

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http://www.kaladarshan.arts.ohio-state.edu, パブリック・ドメイン, リンクによる

2つ目のキーワードである曼荼羅は仏の悟りである宇宙の理を絵に表現したものです。曼荼羅は密教絵画の代表で、金剛界という大日如来が金剛石のように煩悩を破る仏の配置と胎蔵界という胎児に教理を生成する仏の配置が描かれます。曼荼羅は金剛界と胎蔵界両方を描いたものが多いことから2つを合わせて両界曼荼羅とも呼ばれるのです。有名な曼荼羅として神護寺両界曼荼羅教王護国寺両界曼荼羅があります。

密教では大日如来を本尊として信仰していたため、大日如来の使者である不動明王も描かれました。園城寺にある体が黄色の不動明王の絵である黄不動は有名です。

神秘性が高い、弘仁・貞観文化の仏像たち!

弘仁・貞観文化の時期に作られた仏像は密教の影響を受け、神秘性の漂う傑作が多いです。作成技術として首と胴体を1本の木から作る一木造や衣紋をなだらかなひだで表現する翻波式が使われ、仏像自体が量感に満ちたものになっています。

代表的仏像は大阪府河内長野市の観心寺如意輪観音像です。豊満な体つきに片膝を立て座る姿は美しく、密教の神秘的な雰囲気を漂わせています。また、神護寺薬師如来像も弘仁・貞観文化の代表的な仏像です。翻波式で見事に衣紋を表現し、量感を感じられる作品となっています。

仏が変身?日本の神々は仏だった!

密教と山岳信仰から仏を本地(根本)として、人間を救済するために化身である垂迹身の神となったと考える本地垂迹説が平安時代に広がり、神仏習合という神社と寺院が結びつくようになりました。現在でも寺院の周りに守護神を祀る神社があったり、神社の境内に神宮寺が見られるのは神仏習合の影響になります。

日本の神が仏の姿として登場?

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不明 - http://www2.kokugakuin.ac.jp/sntmuse/sogyo_Hachiman-shin_gazo.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

神社では神々の姿は見ることができない尊いものとして、偶像を置いていません。神社を参拝すると神前に像が置かれていないのはそうした理由です。しかし、神仏習合の影響で神像がこの時期に作られました。

有名な神像が薬師寺南大門の隣にある休岡八幡宮のご神体で薬師寺の鎮守となっている薬師寺僧形八幡神像です。お坊さんの姿をした八幡神を彫刻したものになります。

神と仏が融合して大人気?熊野三山

神仏習合が進んだ地域として世界遺産にも認められている熊野三山の神社があります。熊野三山とは熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社の3つの神社です。3つのうち熊野那智大社の隣には青岸渡寺という天台宗の寺院があります。熊野那智大社と青岸渡寺は那智の滝の自然景観から修験道の場として、神仏習合により一体化していました。

明治時代に熊野本宮大社と熊野速玉大社にあった青岸渡寺の仏堂はなくなってしまいましたが、熊野那智大社の如意輪観音堂西国三十三ヶ所の第一番札所であったことから残され、現在の分離した熊野那智大社と青岸渡寺になっています。熊野古道の神社も神仏習合が行われ、発展した地域になるのです。

文学にも密教が影響?

密教を伝えた二人の僧は書物も残しています。密教を伝えた二人は文章の達人でもあったのです。また、朝廷は文章経国をはかって、文人貴族を登用していました。最澄や空海の僧と朝廷の考えが合わさって、文学が発展したのが弘仁・貞観文化なのです。

\次のページで「弘法にも筆の誤り!三筆の登場」を解説!/

弘法にも筆の誤り!三筆の登場

「弘法にも筆の誤り」ということわざを聞いたことがあると思います。弘法は空海のことです。空海は書の達人でもあり、最澄に宛てた手紙である「風信帖」は当時の書道の様式である唐様の名筆といわれています。また、嵯峨天皇橘逸勢も空海と並ぶ能筆家で3人を三筆と称されるようになりました。

エリートを育てる教育機関?大学別曹!

文章経国の思想は国の教育施設である大学での学問を盛んにしました。儒教を学ぶ明経道や歴史や文学を学ぶ紀伝道が重んじられ、有力な貴族は一族の子弟の教育のために大学別曹を設けます。

設立された主な大学別曹と創設した貴族
弘文院 和気広世が創立
勧学院 藤原冬嗣が創立
学館院 檀林皇后と橘氏が創立
奨学院 在原行平が皇族や在原氏のために創立

大学別曹が作られると同時に学問が家学化していきます。文章道では菅原氏や大江氏が、明経道では清原氏や中原氏といったその学問の専門家の家柄ができたのです。

学問は貴族に必要なものということで、教育が発展していきました。庶民に対する教育は行われていません。そこで、空海が教育の門戸を開くために綜芸種智院を創設しました。

漢詩作成隆盛期?貴族の教養は漢詩にあり!

朝廷では古代貴族の教養で漢詩文を作ることが重要視されていました。文章経国の思想で宮中で漢詩文を読む宴がしばしば行われます。特に嵯峨天皇と淳和天皇の頃には「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」という3つの勅撰漢詩集が編纂されました。

嵯峨天皇や空海、小野篁などの漢詩の達人が生まれ、弘仁・貞観文化の終わりには菅原道真が登場します。この時期は国風暗黒時代とも呼ばれるくらい漢詩の編纂を行っていたのです。

漢詩でも空海は類い稀なる才能を発揮し、漢詩作成の評論である「文鏡秘府論」や漢詩集の「性霊集」などが編まれました。やはり、弘仁・貞観文化は密教が大きな影響を与えているのです。

弘仁・貞観文化は現在の日本文化の原点!

弘仁・貞観文化は日本に密教が伝来したことで始まった文化です。日本固有の文化と密教が混じり合う文化となりました。神仏習合で日本の神と仏が結びつくことで、独自の文化へと発展しています。これは日本のオリジナリティや他の技術を昇華する日本の文化に結びつくものです。弘仁・貞観文化は現代日本が忘れている技術力を高めるアイデアの原点でもあるといえます。

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平安時代日本史歴史

弘仁・貞観文化って何?国風文化との違いは?特徴・絵画・三筆も現役講師ライターが詳しくわかりやすく解説!

弘仁貞観文化という日本の文化を知っているか。小学校や中学校の教科書で見ることはない文化ですが、日本の古代文化の基盤にもなる仏教が大きく変化した文化になるんです。
今回は弘仁・貞観文化について、日本史の中でも仏教史や古代中世の文化史が大好きな現役講師ライター明東碧吾と詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役塾講師で専門科目の社会の授業はわかりやすいという定評がある。古代・中世の文化史が大好きで、文化財鑑賞の旅へも出かける。

弘仁・貞観文化って何だ。時代や特徴は?

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弘仁・貞観文化は平安時代の文化になります。弘仁・貞観文化では新しい仏教である密教が伝来し、朝廷により厚く保護されました。ここで「あれ?」と思われた方がいらっしゃるかと思います。そう、密教の伝来は小中学校では国風文化で紹介されていますね。では、国風文化との違いや特徴を見ていきましょう。

国風文化との違い

平安時代の文化といえば、894年に遣唐使を廃止したことからできた日本風の文化の国風文化だと小中学校で学習したと思います。しかし、正確には794年の平安京遷都から894年頃までの文化と平安時代末期の文化と3つに分かれるのです。

弘仁・貞観文化は平安前期の嵯峨天皇清和天皇が即位していた頃の文化になります。その時の元号から弘仁貞観文化というのです。

また、国風文化は遣唐使の廃止で日本風のオリジナリティが発揮された文化になります。しかし、弘仁・貞観文化は唐風文化の影響を受けながらも日本のオリジナリティを織り交ぜ、融合させた文化という点が国風文化との大きな違いです。

密教って何だ?

弘仁・貞観文化は中国から新たに入ってきた密教を中心とする文化です。密教というのは加持祈祷や山岳修行など厳しい修行を行うことを教えに持っている宗派になります。

日本の密教は最澄(伝教大師)の天台宗空海(弘法大師)の真言宗です。これら2つの宗派は弘仁・貞観文化だけでなく、後の仏教にも大きな影響を与えます。密教の伝来は日本にとって大きな衝撃を与えたのです。

日本の神々と仏教が融合する?

みなさんは神社と寺院の違いを知っていますか。寺院は仏教施設、神社は日本古来またはその土地の神様や神として崇められる人を祀った場所です。神社は神々を崇めることから神道という宗教になります。

平安期に日本の神々は仏が姿を変えたものであるという考え方が広がり、神社と寺院が融合するようになりました。

2つの密教が弘仁・貞観文化を生み出す?

794年平安京に桓武天皇が遷都します。710年平城京に遷都したときは藤原京にあった薬師寺や大官大寺などが移転して平城京内に建てられました。しかし、桓武天皇は奈良の貴族や僧の勢力を一掃したかったため、平城京の寺院を受け入れませんでした。

804年に最澄と空海が遣唐使に従って入唐しました。最澄は法華経を中心とする天台の教えを受けて帰国し、天台宗を開きます。空海は唐の都長安で密教の奥義をきわめ、わずか2年で帰国。高野山に金剛峯寺を建てて、真言宗を開きます。

天台宗と真言宗を桓武天皇が支持することで、平安京を中心に密教文化が浸透しました。弘仁・貞観文化は密教が平安京に広がることで、花開いた文化なのです。

2つの密教その1:比叡山から広がる天台宗

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不明 – 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる

比叡山延暦寺を建立した最澄は「山家学生式」という学僧の規則を定め、独自の大乗戒壇を創設しようとします。戒壇とは出家者が正式な僧尼になる授戒を受けるための結界が常に整った場所のことです。奈良時代に東大寺太宰府の観世音寺下野の薬師寺に戒壇が置かれていました。これら3つの戒壇を天下の三戒壇といいます。

最澄は天下の三戒壇では菩薩戒を得られるものではない小乗戒だと主張し、菩薩戒を得られる大乗戒壇の設置を訴えたのです。当然、最澄の動きに奈良の仏教界は猛反対します。それでも大乗戒壇は必要だと最澄は訴えるため、「顕戒論」を著して反論しました。最澄の死後、大乗戒壇は認められ延暦寺は仏教を学ぶ中心地となったのです。

2つの密教その2:高野山で修行を行う真言宗

Kobo Daishi (Taisanji Matsuyama).jpg
Anonymous Kamakura-period artist – https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/ken/kouboudaisizou_1fuku.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

唐で密教の奥義をきわめた空海は秘密の呪法の伝授・習得で悟りを開こうとする密教の立場を「十住心論」で明らかにします。経典から悟りを開こうとする顕教に対して秘奥の修行を行うことから密教と呼ぶのです。

真言は大日如来の真実の言葉という意味を表しています。真言宗では宇宙の真理である大日如来を本尊にしているのです。

空海は密教を行う道場として高野山金剛峯寺を建てました。また、空海は嵯峨天皇から平安京内の官寺を授けられ、真言宗の道場にします。これが現在の教王護国寺(または東寺)です。真言宗は平安京で広がっていきました。

密教の広がりが弘仁・貞観文化を高める?

古代日本の文化は仏教が大きく影響しています。最澄と空海が伝えた密教は新しい文化形成に大きな影響を与え、弘仁・貞観文化を形成しました。

弘仁・貞観文化はどのような文化になったのでしょうか。キーワードは修験道曼荼羅になります。では、キーワードに沿って見ていきましょう。

密教の寺院は伽藍配置が独特?

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Saigen Jiro投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる

1つ目のキーワードである修験道とは山岳に籠って、厳しい修行をすることです。密教は加持祈祷を行うため、山あいに寺院を立てる山岳仏教の性質があります。山岳信仰が組み合わさり、修験道が誕生しました。

修験道を行うため、弘仁・貞観文化の寺院は山を一つの寺院の領域としてその中に仏教建築物を立てる形になります。天平文化以前の寺院は伽藍配置といって、建築物を領域内に綺麗に配置していました。しかし、密教寺院は山の中に建築物が点在する形になります。

弘仁・貞観文化の寺院の代表として有名なのが室生寺です。室生寺は山の地形に合わせて、さまざまな建築物を点在させています。室生寺金堂五重塔は国宝で当時の特徴的な建築物です。

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