今回のテーマは「屋井先蔵(やい さきぞう)」という人物です。
教科書に出てくることはほとんどないが、現代日本を作った人物といっても過言ではない。屋井先蔵は、普段の生活に欠かせない「乾電池」を発明した人物です。
乾電池発明の裏には屋井先蔵の人生が大きく関わっている。屋井先蔵がどのような人生を歩んだのか、ぜひチェックしてほしい。

今回は「屋井先蔵はどのような生涯を送ったのか」「乾電池が世間に広まったきっかけ」を化学に詳しいライターリックと一緒に解説していきます。

ライター/リック

高校生で化学にハマり、大学院までずっと化学を勉強してきた化学オタク。今は化学メーカーで働きながら化学の楽しさを発信する。

乾電池王と呼ばれた「屋井先蔵」とはどんな人物なのか

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不明 - http://blog.miraikan.jst.go.jp/topics/20141111post-552.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

「乾電池」普段の生活で当たり前のように使っていますよね。デジタル化の進む現代の日本を支えている乾電池は、実は日本生まれなんです。日本で初めて乾電池を発明したのが「屋井先蔵」という人物。教科書で紹介されることはほとんどないですが、今の日本を作ったといっても過言ではないほど、重要な人物です。

今回は乾電池王と呼ばれる「屋井先蔵」がどのような人生を歩んだのか、紹介していきます。

新潟で生まれた屋井先蔵、夢は永久機関の発明

ここからは、「屋井先蔵」の生涯を紹介していきます。

屋井先蔵は、1863年、新潟県の長岡で生まれました。元々手先が器用だった屋井先蔵は、幼いころから天体や水車など回り続ける物に興味を寄せていました。13歳で時計店で働くようになり、「永久に運動し続ける『永久機関』を作りたい」と大きな夢を抱くようになりました。

その後、機械についてさらに詳しく学ぶために上京し、東京職工学校(現在の東京工業大学)への入学を目指し勉強します。しかし、受験には2度失敗し、2度目の試験当日、人生を変える出来事が起こりました。

きっかけは遅刻から!?正確な時計を作りたい

image by iStockphoto

2度目の試験当日、屋井先蔵は、なんと寝坊してしまったのです。急いで試験会場に向かいましたが、5分遅刻してしまい試験すら受けることができませんでした。しかし、街中にある時計は試験開始時刻の1分前でした。

当時の時計は手動のゼンマイ式が主流で、街中の時計が示す時刻もバラバラだったんです。この出来事が引き金になり、屋井先蔵は電気で常に正確な時刻を示す、「連続電気時計」の発明に情熱を注ぐようになりました。当時、電池というものは存在していたが、世間に浸透はしていなかったんです。

電気時計の発明から乾電池の開発に着手

電気時計の発明から乾電池の開発に着手

image by Study-Z編集部

屋井先蔵が完成させた連続電気時計ですが、売れ行きはよくありませんでした。そもそも電池が世間に浸透していなかったこともありますが、連続電気時計には大きな欠点がありました。当時使っていた「ルクランシェ電池」は液体電池とも呼ばれ、電解質に液体を使っていたことです。

液体を使っているため、「すぐに液漏れする」「冬になると電解液が凍る」ことが原因で、すぐに壊れてしまうということが最大の欠点だったのですね。

そこで屋井先蔵は、液体を使わない新たな電池の開発に着手します。地道な作業の末、液体だった電解液は、石膏を混ぜて糊状に固めて、持ち運んでも液漏れしないような工夫がされました。

しかし、それでも正極から薬品が染み出してくるという問題が最後まで残りました。そこで、正極に使う炭素棒にロウを染み込ませて液漏れを防ぎ、ついに屋井先蔵が追い求めた電池が完成します。この電池を乾電池と名付けました。

\次のページで「乾電池が注目されたある出来事とは?」を解説!/

屋井先蔵がモデルにしたルクランシェ電池はマンガン乾電池の前身といえる一次電池です。1866年にフランスの「ルクランシェ」によって発明された電池で、負極活物質に亜鉛、正極活物質に二酸化マンガンを、電解液に20%塩化アンモニウム水溶液を使っています。

乾電池が注目されたある出来事とは?

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en:Georges Ferdinand Bigot (1860-1927) - "Empire of Comic Visions: Japanese Cartoon Journalism and its Pictorial Statements on Korea, 1876-1910", Jung-Sun N. Han, Japanese Studies, Volume 26, Issue 3 December 2006 , pages 283 - 302., パブリック・ドメイン, リンクによる

屋井先蔵が乾電池を開発した当時、日本では電気製品が普及していなかったため、乾電池は思うように売れませんでした。

そんな時、ある事件が起こります。それが日清戦争です。1894年から始まった日清戦争は、中国の満州が戦場になりました。厳冬の満州でも、照明や通信機器を使用するため、電源として電池が必要不可欠だったんです。

当時主流だった「ルクランシェ電池」は液漏れし、冬の満州では電解液が凍ってしまい、十分に使うことができませんでした。そこで、液漏れせず・冬でも電解質の凍らない乾電池に白羽の矢が立ったんです。

乾電池がなければ、日本は戦争に勝てなかった

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Aney - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

その後、日清戦争に勝利した日本では、新聞である記事が紹介されました。それは「戦争に勝てたのは、屋井先蔵の乾電池のおかげ」という内容の記事でした。そして、屋井先蔵の乾電池は知名度と信頼度が一気に上昇していきました。屋井乾電池という会社を作り、本格的に乾電池の量産に取り掛かった屋井先蔵は、数年後には乾電池王と謳われるようになりました。

しかし、電池や電気という存在がまだ世間に浸透していなかった当時、屋井先蔵は軍を中心に商売を進めていきます。

乾電池を世間に広めたのはあの大企業の創設者だった

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不明 - 時事画報社「フォト(1961年8月15日号)」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

屋井先蔵は、1927年に胃がんと急性肺炎により亡くなります。後継者のいなかった屋井先蔵の会社は潰れてしまい、屋井先蔵は自分で発明した乾電池を自分の手で世間に広めることはできませんでした。

しかし、屋井先蔵の意思を継ぐ人物が現れます。それがパナソニックの創設者である「松下幸之助」でした。松下幸之助は砲弾型電池ランプの開発に成功します。当時の電池式ランプの寿命が3時間ほどであったのに対し、松下幸之助の開発した電池式ランプは30時間以上も点灯し続けました。

このランプには乾電池が必要不可欠でした。この砲弾型電池ランプをきっかけにし、乾電池は世間に一気に広まり、屋井先蔵は乾電池の生みの親として認知されるようになったんです。

パナソニックという会社名は一度は聞いたことがあると思います。松下幸之助の開発した砲弾型電池ランプの大ヒットが、現在も続く巨大企業パナソニックのはじまりだったのかもしれません。

\次のページで「乾電池王と呼ばれた「屋井先蔵」の人生と乾電池の歴史を紹介」を解説!/

乾電池王と呼ばれた「屋井先蔵」の人生と乾電池の歴史を紹介

今回は乾電池王と呼ばれた屋井先蔵の人生と乾電池が世間に広まっていくまでを紹介しました。

乾電池の誕生は、そもそも屋井先蔵の遅刻がきっかけでした。また、当時使われていたルクランシェ電池の問題点に注目し、問題点を解決するために試行錯誤した屋井先蔵の粘り強さがあったからこそ、乾電池は誕生したといえます。

そして、乾電池が世間に広まったのは屋井先蔵の死後、パナソニック創設者である松下幸之助の発明した電池式ランプがきっかけでした。

テストに出題されることはほぼありませんが、乾電池の歴史や乾電池王と呼ばれた屋井先蔵をぜひチェックしておいてください。

" /> 屋井先蔵って誰?乾電池王と呼ばれた屋井先蔵の生涯を理系ライターがわかりやすく解説! – Study-Z
化学理科生活と物質

屋井先蔵って誰?乾電池王と呼ばれた屋井先蔵の生涯を理系ライターがわかりやすく解説!



今回のテーマは「屋井先蔵(やい さきぞう)」という人物です。
教科書に出てくることはほとんどないが、現代日本を作った人物といっても過言ではない。屋井先蔵は、普段の生活に欠かせない「乾電池」を発明した人物です。
乾電池発明の裏には屋井先蔵の人生が大きく関わっている。屋井先蔵がどのような人生を歩んだのか、ぜひチェックしてほしい。

今回は「屋井先蔵はどのような生涯を送ったのか」「乾電池が世間に広まったきっかけ」を化学に詳しいライターリックと一緒に解説していきます。

ライター/リック

高校生で化学にハマり、大学院までずっと化学を勉強してきた化学オタク。今は化学メーカーで働きながら化学の楽しさを発信する。

乾電池王と呼ばれた「屋井先蔵」とはどんな人物なのか

Yai Sakizo.jpg
不明 – http://blog.miraikan.jst.go.jp/topics/20141111post-552.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

「乾電池」普段の生活で当たり前のように使っていますよね。デジタル化の進む現代の日本を支えている乾電池は、実は日本生まれなんです。日本で初めて乾電池を発明したのが「屋井先蔵」という人物。教科書で紹介されることはほとんどないですが、今の日本を作ったといっても過言ではないほど、重要な人物です。

今回は乾電池王と呼ばれる「屋井先蔵」がどのような人生を歩んだのか、紹介していきます。

新潟で生まれた屋井先蔵、夢は永久機関の発明

ここからは、「屋井先蔵」の生涯を紹介していきます。

屋井先蔵は、1863年、新潟県の長岡で生まれました。元々手先が器用だった屋井先蔵は、幼いころから天体や水車など回り続ける物に興味を寄せていました。13歳で時計店で働くようになり、「永久に運動し続ける『永久機関』を作りたい」と大きな夢を抱くようになりました。

その後、機械についてさらに詳しく学ぶために上京し、東京職工学校(現在の東京工業大学)への入学を目指し勉強します。しかし、受験には2度失敗し、2度目の試験当日、人生を変える出来事が起こりました。

きっかけは遅刻から!?正確な時計を作りたい

image by iStockphoto

2度目の試験当日、屋井先蔵は、なんと寝坊してしまったのです。急いで試験会場に向かいましたが、5分遅刻してしまい試験すら受けることができませんでした。しかし、街中にある時計は試験開始時刻の1分前でした。

当時の時計は手動のゼンマイ式が主流で、街中の時計が示す時刻もバラバラだったんです。この出来事が引き金になり、屋井先蔵は電気で常に正確な時刻を示す、「連続電気時計」の発明に情熱を注ぐようになりました。当時、電池というものは存在していたが、世間に浸透はしていなかったんです。

電気時計の発明から乾電池の開発に着手

電気時計の発明から乾電池の開発に着手

image by Study-Z編集部

屋井先蔵が完成させた連続電気時計ですが、売れ行きはよくありませんでした。そもそも電池が世間に浸透していなかったこともありますが、連続電気時計には大きな欠点がありました。当時使っていた「ルクランシェ電池」は液体電池とも呼ばれ、電解質に液体を使っていたことです。

液体を使っているため、「すぐに液漏れする」「冬になると電解液が凍る」ことが原因で、すぐに壊れてしまうということが最大の欠点だったのですね。

そこで屋井先蔵は、液体を使わない新たな電池の開発に着手します。地道な作業の末、液体だった電解液は、石膏を混ぜて糊状に固めて、持ち運んでも液漏れしないような工夫がされました。

しかし、それでも正極から薬品が染み出してくるという問題が最後まで残りました。そこで、正極に使う炭素棒にロウを染み込ませて液漏れを防ぎ、ついに屋井先蔵が追い求めた電池が完成します。この電池を乾電池と名付けました。

\次のページで「乾電池が注目されたある出来事とは?」を解説!/

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