いざなぎ景気はいつ始まった?由来やきっかけを高度経済成長と共に現役大学院生がわかりやすく解説
所得倍増計画とは?
「国民所得倍増計画」によって、10年間で国民1人あたりの消費は2.3倍にまで拡大します。この計画によって、国民の所得が増加しただけでなく、国民の格差是正を図ることも目指しました。
オリンピック景気(1962~1964年)
1964年10月10日、東京オリンピックが開催されました。オリンピック開催に伴い、競技施設・高速道路・東海道新幹線などが開通します。これは、高度経済成長をプッシュしていていくこととに繋がりました。
しかし、オリンピックが終わった1964年後半から、また一時的な経済不況になります。要因は、好況による輸入の増加が国際収支の赤字を拡大したからです。
幸いなことに、経済不況も比較的短期間のうちに収束します。それまで日本は景気対策のために、金融政策を取りましたが、今回は政府が国債を発行して積極的に公共投資を行い、景気を刺激したからです。その結果、1966年から少しずつ景気は回復していき、いざなぎ景気に入ります。
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いざなぎ景気(1966~1970年)
いよいよ、今回のテーマの本題であるいざなぎ景気に突入します。東京オリンピック後の危機的状況から脱し、この頃には国民総生産(GNP)の伸び率は10%以上が続きました。
特に、自動車産業と電気工業が発展を遂げ、輸出産業が中心となっていきます。経済成長は、設備投資から、技術力を背景とした輸出に転換する拍車となり、経済成長は人材不足をもたらし、賃金の上昇し、国民の生活は豊かになりました。
労働力需要をもたらした高度経済成長
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設備投資や公共投資のために不足した労働力は地方からの集団就職などによって補われます。地方から集団就職してきた若者たちは第二次産業を支える金の卵としてもてはやされました。
しかし、集団就職によって農村部からは労働力の主要な担い手となる若者が減少し、都市部への人口集中と地方の過疎化が起こります。これは現在の限界集落といった地方の過疎化にもつながる問題でした。
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ライフスタイルの現代化
ここまでで、戦後日本の好景気の流れについて説明しました。この時代はなんといっても、国民の暮らしも現代化し、私たちのライフスタイルや意識に少しずつ変化が生じた時代でもあります。
三種の神器が登場した時に最も早く普及したのは、白黒テレビでした。当時の白黒テレビはとても高価だったため、一般家庭で一家に一台持つことは難しかったそうです。1957年の白黒テレビの世帯普及率は30%弱と限られた世帯にしかテレビはありません。そのため、街頭テレビや電気店、銭湯などにある白黒テレビを求めて、集まって鑑賞するというスタイルが形成されました。
雇用形態は年功序列・終身雇用
いざなぎ景気は日本の工業製品などを海外輸出することによって牽引されます。
この時代の日本の雇用形態は年功序列・終身雇用という安定した雇用形態であったこともあり「モーレツ社員」とも形容されました。この時期の日本社会は、「昭和元禄」とも言われ、国民の多くが中流意識を持つようになります。
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