今回は、1965年から1970年まで続いた戦後最長の好景気と言われる「いざなぎ景気」について戦後の日本経済成長と社会の発展に注目しながら、現役大学院生のライタークララと一緒に解説していきます。

ライター/クララ

社会学修士号を取得し、博士号取得を目指す現役大学院生ライター。読者が社会問題を「自分ごと」として考えることができるよう、「楽しくわかりやすい現代社会の授業」を目指して日々奮闘中。

第二次世界大戦後の日本経済

image by iStockphoto

いざなぎ景気という言葉を日本史や現代社会の授業の中で聞いたことがありますか。高度経済成長の真っ只中であった1966年〜1970年にかけての長期化好景気のことをいざなぎ景気といいます。

では、どのようにしていざなぎ景気という長期間好景気が続いたのでしょうか。そして、いざなぎ景気が終焉したのはなぜなのでしょうか。今回は、いざなぎ景気について、その時代背景となる高度経済成長と結びつけて解説していきます。詳しく見ていきましょう。

高度経済成長とは何か

ここでは、いざなぎ景気について理解するために、その背景にあった高度経済成長の流れを見ていきましょう。

日本の戦後史は大まかに分類すると、戦後直後の1945年〜1960年1961年〜1973年、1973年〜1990年に分けることができます。日本は、1945年の終戦直後、住居や工場・鉄道などのインフラ基盤が崩壊し物資が不足する中で、厳しい食糧難によって国民の生活を苦しめました。そのため、政府はインフラ面では敗戦後の焼け野原から、経済面では激しいインフレーションから少しずつ立て直していきました。

朝鮮戦争による朝鮮特需

1950年に勃発した、朝鮮戦争を機に引き起こされた朝鮮特需によって、生産と輸出は拡大します。これに伴い、少しずつ景気は回復し、高度経済成長の基盤が形成されていきました。

ところで、なぜ朝鮮特需によって景気が回復されたのでしょうか。理由は、日本が、朝鮮戦争に出動した国連軍の軍事・補給基地となったからです。これによって、アメリカ軍から物資・サービスの需要が高まり、その膨大な調達額によって日本は戦後の不況から脱することができるようになりました。

高度経済成長の幕開け

朝鮮特需の恩恵を受け、戦後の不況から脱することができ、1955年頃から石油危機が起こる1973年までの間、高度経済成長の時代となりました。この間に、日本は欧米先進諸国の約2倍にも及ぶ、年間平均実質成長率約10%を超える急速な経済成長を遂げることになります。なんと、1968年にはGNPがアメリカに継いで第2位となり、日本は早くも経済大国へと発展しました。

\次のページで「戦後日本の好景気」を解説!/

戦後日本の好景気

image by iStockphoto

それでは、戦後日本の好景気の流れについて見ていきましょう。
神武景気→岩戸景気→オリンピック景気→いざなぎ景気と進んでいきます。  

神武景気(1955~1957年)

神武景気は、1955~1957年、高度経済成長が始まった時期です。設備の投資が拡大したことによって生産が拡大したことによってもたらされます。

1956年の『経済白書』には、「もはや戦後ではない」とも記されました。このような好景気によって恩恵を受けたのは政府だけではありません。国民の消費・生活スタイルも変化しました。三種の神器といわれる、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが登場し、耐久消費財ブームが起こります。

そして、家事負担が軽くなった女性たちは少しずつ街に出るようになりました。 このようにして日本は少しずつ、国際競争力を高めていくと同時に国民も豊かになっていきます。

なべ底不況(1957年)

1957年には、神武景気の反動で一時的な経済不況となりました。これをなべ底不況といいます。
しかし、政府が早急に金融政策をおこなったこと、国民の個人消費が減らなかったことによって、景気は回復し、後の岩戸景気に移行しました。

岩戸景気(1959~1961年)

岩戸景気とは、1959~1961年までに起きた神武景気を上回る好況の時代です。神武天皇以前の天岩戸(あまのいわと)神話に由来します。

政府は、重化学工業の重点化輸出の拡大を図ったことや、国民の個人消費の拡大によって更なる経済成長が達成されました。1960年に、当時の首相であった池田勇人は「国民所得倍増計画」を掲げ、国民の実質所得を10年間で2倍にすることを目標とします。

\次のページで「オリンピック景気(1962~1964年)」を解説!/

所得倍増計画とは?
「国民所得倍増計画」によって、10年間で国民1人あたりの消費は2.3倍にまで拡大します。この計画によって、国民の所得が増加しただけでなく、国民の格差是正を図ることも目指しました。

オリンピック景気(1962~1964年)

1964年10月10日、東京オリンピックが開催されました。オリンピック開催に伴い、競技施設・高速道路・東海道新幹線などが開通します。これは、高度経済成長をプッシュしていていくこととに繋がりました。

しかし、オリンピックが終わった1964年後半から、また一時的な経済不況になります。要因は、好況による輸入の増加が国際収支の赤字を拡大したからです。

幸いなことに、経済不況も比較的短期間のうちに収束します。それまで日本は景気対策のために、金融政策を取りましたが、今回は政府が国債を発行して積極的に公共投資を行い、景気を刺激したからです。その結果、1966年から少しずつ景気は回復していき、いざなぎ景気に入ります。

いざなぎ景気(1966~1970年)

いよいよ、今回のテーマの本題であるいざなぎ景気に突入します。東京オリンピック後の危機的状況から脱し、この頃には国民総生産(GNP)の伸び率は10%以上が続きました。

特に、自動車産業電気工業が発展を遂げ、輸出産業が中心となっていきます。経済成長は、設備投資から、技術力を背景とした輸出に転換する拍車となり、経済成長は人材不足をもたらし、賃金の上昇し、国民の生活は豊かになりました。

労働力需要をもたらした高度経済成長

image by iStockphoto

設備投資や公共投資のために不足した労働力は地方からの集団就職などによって補われます。地方から集団就職してきた若者たちは第二次産業を支える金の卵としてもてはやされました。

しかし、集団就職によって農村部からは労働力の主要な担い手となる若者が減少し、都市部への人口集中と地方の過疎化が起こります。これは現在の限界集落といった地方の過疎化にもつながる問題でした。

ライフスタイルの現代化

ここまでで、戦後日本の好景気の流れについて説明しました。この時代はなんといっても、国民の暮らしも現代化し、私たちのライフスタイルや意識に少しずつ変化が生じた時代でもあります。

三種の神器が登場した時に最も早く普及したのは、白黒テレビでした。当時の白黒テレビはとても高価だったため、一般家庭で一家に一台持つことは難しかったそうです。1957年の白黒テレビの世帯普及率は30%弱と限られた世帯にしかテレビはありません。そのため、街頭テレビや電気店、銭湯などにある白黒テレビを求めて、集まって鑑賞するというスタイルが形成されました

雇用形態は年功序列・終身雇用

いざなぎ景気は日本の工業製品などを海外輸出することによって牽引されます。
この時代の日本の雇用形態は年功序列・終身雇用という安定した雇用形態であったこともあり「モーレツ社員」とも形容されました。この時期の日本社会は、「昭和元禄」とも言われ、国民の多くが中流意識を持つようになります。

\次のページで「国民の所得増加とモータリゼーション」を解説!/

新三種の神器とは、カラーテレビ・クーラー・自動車のこと。カラーテレビは1964年開催の東京オリンピックによって普及しました。クーラーはまだこの時代には一般家庭には普及しておらず、デパートや商業施設などにしかありませんでした。

国民の所得増加とモータリゼーション

image by iStockphoto

国民の所得増加によって自動車産業も拡大します。特に、1000ccクラスの大衆乗用車が拡大し、マイカーブームが起こりました。

所得が上昇することによって、自動車の販売台数は増加し、1970年代には乗用車需要が273万台となります。モータリゼーションによって、道路の整備も行われ、高速道路も開通し、1965年には名神高速道路、1969年には東名高速道路が開通しました。

いざなぎ景気とベトナム戦争

1968年には、西ドイツを抜き、欧米資本主義国を抜いて世界第2位の経済規模に達しました。日本の国際社会の中での存在感も高まるようになった時代です。

今回は、いざなぎ景気の背景について、日本社会に焦点を当てて解説しましたが、経済成長の背景にはベトナム戦争の深刻化や輸出拡大もありました。東南アジア諸国へ輸出をおこなったことによる戦争特需となったからです。戦争特需が経済成長に寄与するとは、なんとも皮肉なことですが…。

いざなぎ景気の終焉

戦後、長期間にわたる好景気が達成されたいざなぎ景気ですが、成長率も徐々に伸び悩み、5年間にも及んだ経済成長も1970年に入ると後退に向かいました。その原因は、景気加熱による賃金・物価の上昇を抑制するために政府が行った金融引締め政策と過度な設備投資にあると言われています。

また、戦後直後は、道路や新幹線などのインフラが整っていませんでした。こうした中で、公共投資や設備投資を通じて景気を刺激することは可能です。しかし、現代のようにインフラが整い、一定程度の国民の物質的な豊かさが達成された時代には、設備投資も耐久消費財の需要もかつてのように拡大させることには無理があると言われています

高度経済成長がもたらしたひずみ

image by iStockphoto

ここまでで、高度経済成長と好景気による国民の所得増加、消費を前提とした経済基盤が成立したことを確認しました。耐久消費財などの家電製品が一般家庭に普及し、国民のライフスタイルは大きく変化しました。

大量生産・大量消費が進むと、公害問題が表面化します。具体的には四大公害病と言われる、熊本県水俣市の水俣病、新潟県阿賀野川流域で発生した新潟水俣病、富山県神通川流域で発生したイタイイタイ病、三重県四日市で発生した四日市ぜんそくです。

経済発展を優先した結果、公害問題、土地開発による住環境の変化、ごみの増加など現在の環境問題にも及ぶ問題が生じてきました。ここから、経済発展が国民の恩恵につながるという理念に、人々は疑義を持つようになります。

そこで、1966年には公害対策基本法が、1967年には公害対策本部が内閣府に設置され、1971年には環境庁が発足しました。環境庁は2001年に環境省に昇格しています。

高度経済成長から学べること

57年間という長期間の好景気であったいざなぎ景気は、戦後の日本社会の発展の基盤となりました。1960年代後半から高速道路や新幹線などのインフラ基盤も次々と整備され、自動車産業や電気工業品は高度な技術力が輸出主導の経済を牽引し、欧米先進諸国と肩を並べるまでに日本は発展します。

しかし、生産や開発を優先した結果、公害問題や環境汚染なども生じ、”経済発展が国民の恩恵につながる”という理念が揺らぎ始めた時代でもありました。
景気の拡大と景気の後退の流れを見ることによって、産業構造や人口動態、私たちが生活する生活環境について真剣に考え直すきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。

" /> いざなぎ景気はいつ始まった?由来やきっかけを高度経済成長と共に現役大学院生がわかりやすく解説 – ページ 3 – Study-Z
現代社会

いざなぎ景気はいつ始まった?由来やきっかけを高度経済成長と共に現役大学院生がわかりやすく解説

所得倍増計画とは?
「国民所得倍増計画」によって、10年間で国民1人あたりの消費は2.3倍にまで拡大します。この計画によって、国民の所得が増加しただけでなく、国民の格差是正を図ることも目指しました。

オリンピック景気(1962~1964年)

1964年10月10日、東京オリンピックが開催されました。オリンピック開催に伴い、競技施設・高速道路・東海道新幹線などが開通します。これは、高度経済成長をプッシュしていていくこととに繋がりました。

しかし、オリンピックが終わった1964年後半から、また一時的な経済不況になります。要因は、好況による輸入の増加が国際収支の赤字を拡大したからです。

幸いなことに、経済不況も比較的短期間のうちに収束します。それまで日本は景気対策のために、金融政策を取りましたが、今回は政府が国債を発行して積極的に公共投資を行い、景気を刺激したからです。その結果、1966年から少しずつ景気は回復していき、いざなぎ景気に入ります。

いざなぎ景気(1966~1970年)

いよいよ、今回のテーマの本題であるいざなぎ景気に突入します。東京オリンピック後の危機的状況から脱し、この頃には国民総生産(GNP)の伸び率は10%以上が続きました。

特に、自動車産業電気工業が発展を遂げ、輸出産業が中心となっていきます。経済成長は、設備投資から、技術力を背景とした輸出に転換する拍車となり、経済成長は人材不足をもたらし、賃金の上昇し、国民の生活は豊かになりました。

労働力需要をもたらした高度経済成長

image by iStockphoto

設備投資や公共投資のために不足した労働力は地方からの集団就職などによって補われます。地方から集団就職してきた若者たちは第二次産業を支える金の卵としてもてはやされました。

しかし、集団就職によって農村部からは労働力の主要な担い手となる若者が減少し、都市部への人口集中と地方の過疎化が起こります。これは現在の限界集落といった地方の過疎化にもつながる問題でした。

ライフスタイルの現代化

ここまでで、戦後日本の好景気の流れについて説明しました。この時代はなんといっても、国民の暮らしも現代化し、私たちのライフスタイルや意識に少しずつ変化が生じた時代でもあります。

三種の神器が登場した時に最も早く普及したのは、白黒テレビでした。当時の白黒テレビはとても高価だったため、一般家庭で一家に一台持つことは難しかったそうです。1957年の白黒テレビの世帯普及率は30%弱と限られた世帯にしかテレビはありません。そのため、街頭テレビや電気店、銭湯などにある白黒テレビを求めて、集まって鑑賞するというスタイルが形成されました

雇用形態は年功序列・終身雇用

いざなぎ景気は日本の工業製品などを海外輸出することによって牽引されます。
この時代の日本の雇用形態は年功序列・終身雇用という安定した雇用形態であったこともあり「モーレツ社員」とも形容されました。この時期の日本社会は、「昭和元禄」とも言われ、国民の多くが中流意識を持つようになります。

\次のページで「国民の所得増加とモータリゼーション」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: