
「寝殿造」は平安貴族のテーマパーク?特徴や構造も元大学教員が5分でわかりやすく解説
寝殿造の庭園の面影をわずかに残しているのが神泉苑。大内裏(だいだいり)と呼ばれる平安京の南に広がる広大な池は、当時は8町(4万坪)ほどあったそうです。しかし今は、その一部のみ現存。それでも面影を感じ取ることができるので、機会があったら見に行ってほしいですね。
寝殿造は一種のテーマパーク

寝殿造は、もともとは寺社建築の様式。現在の寺院の庭や建物が寝殿造と言ってもいいでしょう。実際、藤原道長は、自分の居宅を寺院にしたり、寺院を自分の屋敷にしたりしてしました。庭はできるかぎり大きく立派に造りました。さらには、風流な遊びを楽しめるようにさまざまな仕掛けも。今で言うテーマパークみたいなものです。
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寝殿造の様式
寝殿は中国由来の名前で、主人が公式の客を接待するときに使います。寝殿の東西と北に同じつくりの殿舎があり、家族などが住みました。主人の正妻は北の対に住み、「北の方」と呼ばれました。巨大な空間に、御簾や几帳など布を使った家具や、衝立、屏風のように移動できる家具を置いて仕切っただけ。それを部屋と呼びました。
建物の周囲には広くて長い廊下があり、これを屏風や几帳で囲って、部屋としても使いました。今で言う雨戸部分は、大きな蔀(しとみ)という木の板戸で囲まれており、日中は開放。夜は閉めました。渡り廊下には屋根があり、両側には簀子(すのこ)という縁側が設置。それを部屋としても使いました。
寝殿造の庭と門
寝殿造には庭がかかせません。天皇や超高級貴族は、もともと自然の景勝地に離宮を造営し、そのままの自然を庭にしていました。庭と屋敷の調和こそが貴族のセンスのみせどころ。山、中島(なかのしま)のある大きな池、舟遊びのための釣殿(つりどの)などがあり、貴族はそれを使って遊びました。
門は各式そのもの。東西に門を設置、東西のどちらかが正門とされました。大きさと造りによって呼び名が変化。最高格式となるのが「四足門」(よつあしもん)、棟門(むねもん)、唐門(からもん)など。中級以下の貴族たちは、上土門(あげつちもん)と呼ばれました。つまり、どんな門の家に住んでいるのかにより、住む人の地位が分かるようになっていたのです。
寝殿造にはいろんな機能が満載!
寝殿造には、築地(ついじ)と仲門殿間には牛車を入れる「車宿」(くるまやどり)、つまり駐車場がありました。また、護衛の侍たちが休む「侍所」(さぶらいどころ)も用意。塀は門ほどのバリエーションはありませんが、立派な築地から土塀まで、貴族の身分によりさまざまです。落ちぶれた貴族の門は、崩れて穴が開いていることが多く、盗賊が自由に出入りできました。
築地が崩れた場合は、通って来たオトコが入りやすいように、あえて放置していたという話もあります。建物はすべて白木を使った木造。神社仏閣のように彩色は施されていませんでした。石垣などはなく、土・藁・むしろ・竹などを使用して作りました。
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