寝殿造とは、大陸渡来の寺社建築が基になっている建築様式のこと。諸説ありますが、10世紀ごろ成立したとされている。教科書などでは、国風文化の象徴のように言われてきた。正確には江戸時代に定義された「理想的な平安貴族の居宅」と言ったほうがいいでしょう。

寝殿造は、平安貴族にとっては、遊びにふけるためのテーマパーク。そんな建築様式について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。お墓参りをかねて京都に行く機会が多く、寺社巡りが趣味、そんなとき、京都でみた平等院鳳凰堂に感動。その建築様式である寝殿造りについて調べてみた。

寝殿造(しんでんつくり)とはどんな建築様式?

image by PIXTA / 29731446

寝殿造とは、大陸渡来の寺社建築が基になっている建築様式のこと。10世紀ごろ成立したといわれています。国風文化の象徴のように言われていますが、正確には江戸時代に「理想的な平安貴族の居宅」として観念的に描かれた絵。

「寝殿」という言葉は平安時代にもありますが、「寝殿造」という言葉は江戸時代の研究者により作られたものです。平安時代の貴族の居宅は現存していません。法隆寺聖霊院・平等院鳳凰堂・中尊寺金色堂・厳島神社などは、当時の寝殿造の面影を残しています。

寝殿造が生まれた時代背景

平安時代になっても最下層の庶民は、昔ながらの竪穴式住居に住んでいました。日本に仏教が渡来すると、寺社建築の様式が入ってきました。これが元祖の寝殿(しんでん)です。寝殿の意味は、寝所(しんじょ)とは別。正殿(せいでん)という意味で、主人の居間や客間という意味合いで使われました。もともとは仏教に関連した儀式を行う建物だったのです。

遣唐使が廃止されると、国が大陸から文物を輸入しなくなり、貴族たちは風雅を求めて贅沢にふけるようになりました。そこで、寺社を自分の屋敷にしたり、自分の屋敷をお寺にしたりします。それにより、本来の宗教的な意味は消えてゆきました。庭は仏様たちをお迎えするために南側に大きく造ります。さらに、仏様たちを楽しませるため、舟遊びや管弦の遊びができるように、築山、池、島も作りました。

寝殿造はどのくらいの大きさ?

もともと平安京が造営されたとき、上級貴族たちは一町(ひとまち)と呼ばれる広大な土地を支給されました。今の計算によれば、120メートル四方、だいたい5000坪の広さです。庭までいれると最低でも5000坪。建物部分だけでも1000坪は下回らなかったようです。この大邸宅には、主人に繋がる親戚の貴族たちが、最低でも20人から30人ぐらい住んでいました。さらには大勢の召使いたちも居住。まさにひとつの宮廷のようなものでした。

建物部分の造りはとても単純。体育館ぐらいの広い空間に、大きな丸柱が立っていて、壁も天井もないという感じです。周囲には築地(ついじ)の塀がめぐらされ、東と西、北と南に大きな門がありました。寝殿は南向きで、その東に「東の対」、西に「西の対」が立てられ、原形は全体が左右対称とされてきました。しかし近年は、そうでない建物も多くあったことが判明しています。

\次のページで「寝殿造は一種のテーマパーク」を解説!/

寝殿造の庭園の面影をわずかに残しているのが神泉苑。大内裏(だいだいり)と呼ばれる平安京の南に広がる広大な池は、当時は8町(4万坪)ほどあったそうです。しかし今は、その一部のみ現存。それでも面影を感じ取ることができるので、機会があったら見に行ってほしいですね。

寝殿造は一種のテーマパーク

image by PIXTA / 84135716

寝殿造は、もともとは寺社建築の様式。現在の寺院の庭や建物が寝殿造と言ってもいいでしょう。実際、藤原道長は、自分の居宅を寺院にしたり、寺院を自分の屋敷にしたりしてしました。庭はできるかぎり大きく立派に造りました。さらには、風流な遊びを楽しめるようにさまざまな仕掛けも。今で言うテーマパークみたいなものです。

寝殿造の様式

寝殿は中国由来の名前で、主人が公式の客を接待するときに使います。寝殿の東西と北に同じつくりの殿舎があり、家族などが住みました。主人の正妻は北の対に住み、「北の方」と呼ばれました。巨大な空間に、御簾や几帳など布を使った家具や、衝立、屏風のように移動できる家具を置いて仕切っただけ。それを部屋と呼びました。

建物の周囲には広くて長い廊下があり、これを屏風や几帳で囲って、部屋としても使いました。今で言う雨戸部分は、大きな蔀(しとみ)という木の板戸で囲まれており、日中は開放。夜は閉めました。渡り廊下には屋根があり、両側には簀子(すのこ)という縁側が設置。それを部屋としても使いました。

寝殿造の庭と門

寝殿造には庭がかかせません。天皇や超高級貴族は、もともと自然の景勝地に離宮を造営し、そのままの自然を庭にしていました。庭と屋敷の調和こそが貴族のセンスのみせどころ。山、中島(なかのしま)のある大きな池、舟遊びのための釣殿(つりどの)などがあり、貴族はそれを使って遊びました。

門は各式そのもの。東西に門を設置、東西のどちらかが正門とされました。大きさと造りによって呼び名が変化。最高格式となるのが「四足門」(よつあしもん)、棟門(むねもん)、唐門(からもん)など。中級以下の貴族たちは、上土門(あげつちもん)と呼ばれました。つまり、どんな門の家に住んでいるのかにより、住む人の地位が分かるようになっていたのです。

寝殿造にはいろんな機能が満載!

寝殿造には、築地(ついじ)と仲門殿間には牛車を入れる「車宿」(くるまやどり)、つまり駐車場がありました。また、護衛の侍たちが休む「侍所」(さぶらいどころ)も用意。塀は門ほどのバリエーションはありませんが、立派な築地から土塀まで、貴族の身分によりさまざまです。落ちぶれた貴族の門は、崩れて穴が開いていることが多く、盗賊が自由に出入りできました。

築地が崩れた場合は、通って来たオトコが入りやすいように、あえて放置していたという話もあります。建物はすべて白木を使った木造。神社仏閣のように彩色は施されていませんでした。石垣などはなく、土・藁・むしろ・竹などを使用して作りました。

\次のページで「さまざまに工夫された寝殿造」を解説!/

さまざまに工夫された寝殿造

image by PIXTA / 84135854

寝殿の構造は、お寺に寝泊まりでもしない限り、体感することはできません。天井も壁もない生活というのは想像しにくいでしょう。大きいだけで使い勝手はとても悪かったようです。そこで、いろいろな工夫がこらされました。

アイデア満載の寝殿造

寝殿を構成するのは、母屋(もや)・廂(ひさし)・簀子(すのこ)の3種類。南には階(はし)と呼ばれる階段を設置しました。階の上にあるのが、雨に濡れないように廂を伸ばした階隠(はしがくし)。柱の外にあるのが簀子です。簀子の外側には、高欄(こうらん)と呼ばれる、低い欄干(らんかん)が付けられました。

柱と柱の間に渡した横木が長押(なげし)。上を上長押(うわなげし)、下を下長押(そもなげし)と呼びました。簀子から廂に入るときは、下長押があるぶん、一段高くなります。バリアフリーとは無縁の状態で、至るところに上下差があることが特徴。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、ヒノキの皮で葺いていました。

この上下差にも大きな意味があります。低いところは身分の低い人が、一段高くなるごとに身分の高い人が座りました。いちばん身分の低い人は外縁みたいな簀子よりなかには入れなかったんですね。

寝殿造の部屋は実用性を重視

母屋の隅には、塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる、四方を壁で囲まれている場所がありました。今で言うところの物置みたいなものです。調度類をしまったり、寝室に使ったりしました。あかりを取るための窓が設置され、入り口には妻戸(妻度)と呼ばれる出入り口がありました。

くわえて、放ち出で(はなちいで)と呼ばれる、別室のようなものもありました。放ち出では、母屋の外に張り出したかたちで建てられた建物。客間代わり、トイレ、泊まり込みの僧の部屋など、諸説ありますが、この別室の用途は不明です。

\次のページで「寝殿造の内部の工夫」を解説!/

寝殿造の内部の工夫

image by PIXTA / 84135599

寝殿造の内部には壁も天井もありません。なかで寝ていると屋根の裏が剥き出し。床から屋根裏まではそうとう高いため、火桶を使っても暖かい空気はどんどん上に上がり、冬はかなり寒かったと言われています。

とにかく仕切るのが寝殿造のスタイル

だだっ広い空間を、上手に区切って使うのみ。母屋は基本的に主人の部屋ですが、東西二つに区切って使いました。仕切りには障子を使用。今の障子ではなく、ふすまのことを指します。西側を仏間、西の庇を客間、剥がしの部屋を姫君が使っていました。仕切った部屋のなかは、さらに小さく仕切って使われました。

仕切る道具類には、いかに繊細かつ優雅にできるのか、センスが求められました。外側の廊下には、高欄(こうらん)と呼ばれる優雅な手すりを設置。廊下を歩くときに、美的な楽しみを味わえるように工夫されていました。

壁の代わりには壁城(かべしろ)というカーテンを取り付け、御簾(みす)という豪華な簾をつけたり、可動式の几帳や屏風を置いたりしました。それら調度品には美しい画を描き、季節によって違う織り方の布を使いました。

室内を美しくアレンジする室礼(しつらえ)

道具類で室内を美しくアレンジすることを室礼(しつらえ)と呼びました。室礼は、北の方に求められる大切な仕事。屏風や几帳の画は、大和絵と呼ばれる日本の草花や風景を扱ったもの、唐絵と呼ばれる中国の風景を描いたものがあり、客人の趣味に合わせて使い分けられました。和歌を書くことも多く、それらを見極めるセンスは、日ごろの勉強の賜物でした。

寝殿の内部は板の間。必要な時に必要な所に移動できる畳を置きました。畳の厚さや長さは一定ではなく、重ねて使うこともありました。畳を使えるのは貴人だけ。庶民は畳を使うことはできませんでした。客と対面するときは藁で作った円座(えんざ)という丸い敷物を用意。住民は、必要に応じて畳やゴザを使いました。

貴族の家では、帳台(ちょうだい)と呼ばれるベッドがありました。板敷きの上に厚い畳を2枚置いて、四方に細い柱を立てます。そのうえに、薄い紙の襖のようなものを乗せました。周囲には布を垂らして装飾。防寒の機能もあったのではないでしょうか。寝殿造の冬は寒くて風邪をひくことも。風邪はあっというまに広がりました。平安時代は疫病が大流行していましたが、建物の作りが影響しているとも言われています。

寝殿造から見えるのは平安貴族の暮らし

寝殿造は、簡略な書院造りへとかたちを変え、さらに質素な数寄屋造りへと変化していきました。平安時代以降も、社会の変化とともに人々の暮らしは変化。それとともに、住居のかたちも変わっていったのです。どの建物にも、その時代に生きた人々の暮らし方や、暮らしの知恵を見ることができます。それは今の建築であっても同じ。そんな目で、現代の密集住宅、団地、高層マンションなどがある街並みを、眺めてみると、思いがけない発見があると思います。ぜひ、週末にのんびり、周りを見渡してみてはいかがでしょうか。

" /> 「寝殿造」は平安貴族のテーマパーク?特徴や構造も元大学教員が5分でわかりやすく解説 – Study-Z
日本史

「寝殿造」は平安貴族のテーマパーク?特徴や構造も元大学教員が5分でわかりやすく解説

寝殿造とは、大陸渡来の寺社建築が基になっている建築様式のこと。諸説ありますが、10世紀ごろ成立したとされている。教科書などでは、国風文化の象徴のように言われてきた。正確には江戸時代に定義された「理想的な平安貴族の居宅」と言ったほうがいいでしょう。

寝殿造は、平安貴族にとっては、遊びにふけるためのテーマパーク。そんな建築様式について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。お墓参りをかねて京都に行く機会が多く、寺社巡りが趣味、そんなとき、京都でみた平等院鳳凰堂に感動。その建築様式である寝殿造りについて調べてみた。

寝殿造(しんでんつくり)とはどんな建築様式?

image by PIXTA / 29731446

寝殿造とは、大陸渡来の寺社建築が基になっている建築様式のこと。10世紀ごろ成立したといわれています。国風文化の象徴のように言われていますが、正確には江戸時代に「理想的な平安貴族の居宅」として観念的に描かれた絵。

「寝殿」という言葉は平安時代にもありますが、「寝殿造」という言葉は江戸時代の研究者により作られたものです。平安時代の貴族の居宅は現存していません。法隆寺聖霊院・平等院鳳凰堂・中尊寺金色堂・厳島神社などは、当時の寝殿造の面影を残しています。

寝殿造が生まれた時代背景

平安時代になっても最下層の庶民は、昔ながらの竪穴式住居に住んでいました。日本に仏教が渡来すると、寺社建築の様式が入ってきました。これが元祖の寝殿(しんでん)です。寝殿の意味は、寝所(しんじょ)とは別。正殿(せいでん)という意味で、主人の居間や客間という意味合いで使われました。もともとは仏教に関連した儀式を行う建物だったのです。

遣唐使が廃止されると、国が大陸から文物を輸入しなくなり、貴族たちは風雅を求めて贅沢にふけるようになりました。そこで、寺社を自分の屋敷にしたり、自分の屋敷をお寺にしたりします。それにより、本来の宗教的な意味は消えてゆきました。庭は仏様たちをお迎えするために南側に大きく造ります。さらに、仏様たちを楽しませるため、舟遊びや管弦の遊びができるように、築山、池、島も作りました。

寝殿造はどのくらいの大きさ?

もともと平安京が造営されたとき、上級貴族たちは一町(ひとまち)と呼ばれる広大な土地を支給されました。今の計算によれば、120メートル四方、だいたい5000坪の広さです。庭までいれると最低でも5000坪。建物部分だけでも1000坪は下回らなかったようです。この大邸宅には、主人に繋がる親戚の貴族たちが、最低でも20人から30人ぐらい住んでいました。さらには大勢の召使いたちも居住。まさにひとつの宮廷のようなものでした。

建物部分の造りはとても単純。体育館ぐらいの広い空間に、大きな丸柱が立っていて、壁も天井もないという感じです。周囲には築地(ついじ)の塀がめぐらされ、東と西、北と南に大きな門がありました。寝殿は南向きで、その東に「東の対」、西に「西の対」が立てられ、原形は全体が左右対称とされてきました。しかし近年は、そうでない建物も多くあったことが判明しています。

\次のページで「寝殿造は一種のテーマパーク」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: