
「寝殿造」は平安貴族のテーマパーク?特徴や構造も元大学教員が5分でわかりやすく解説
寝殿造は、平安貴族にとっては、遊びにふけるためのテーマパーク。そんな建築様式について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ
アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。お墓参りをかねて京都に行く機会が多く、寺社巡りが趣味、そんなとき、京都でみた平等院鳳凰堂に感動。その建築様式である寝殿造りについて調べてみた。
寝殿造(しんでんつくり)とはどんな建築様式?

寝殿造とは、大陸渡来の寺社建築が基になっている建築様式のこと。10世紀ごろ成立したといわれています。国風文化の象徴のように言われていますが、正確には江戸時代に「理想的な平安貴族の居宅」として観念的に描かれた絵。
「寝殿」という言葉は平安時代にもありますが、「寝殿造」という言葉は江戸時代の研究者により作られたものです。平安時代の貴族の居宅は現存していません。法隆寺聖霊院・平等院鳳凰堂・中尊寺金色堂・厳島神社などは、当時の寝殿造の面影を残しています。
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寝殿造が生まれた時代背景
平安時代になっても最下層の庶民は、昔ながらの竪穴式住居に住んでいました。日本に仏教が渡来すると、寺社建築の様式が入ってきました。これが元祖の寝殿(しんでん)です。寝殿の意味は、寝所(しんじょ)とは別。正殿(せいでん)という意味で、主人の居間や客間という意味合いで使われました。もともとは仏教に関連した儀式を行う建物だったのです。
遣唐使が廃止されると、国が大陸から文物を輸入しなくなり、貴族たちは風雅を求めて贅沢にふけるようになりました。そこで、寺社を自分の屋敷にしたり、自分の屋敷をお寺にしたりします。それにより、本来の宗教的な意味は消えてゆきました。庭は仏様たちをお迎えするために南側に大きく造ります。さらに、仏様たちを楽しませるため、舟遊びや管弦の遊びができるように、築山、池、島も作りました。
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寝殿造はどのくらいの大きさ?
もともと平安京が造営されたとき、上級貴族たちは一町(ひとまち)と呼ばれる広大な土地を支給されました。今の計算によれば、120メートル四方、だいたい5000坪の広さです。庭までいれると最低でも5000坪。建物部分だけでも1000坪は下回らなかったようです。この大邸宅には、主人に繋がる親戚の貴族たちが、最低でも20人から30人ぐらい住んでいました。さらには大勢の召使いたちも居住。まさにひとつの宮廷のようなものでした。
建物部分の造りはとても単純。体育館ぐらいの広い空間に、大きな丸柱が立っていて、壁も天井もないという感じです。周囲には築地(ついじ)の塀がめぐらされ、東と西、北と南に大きな門がありました。寝殿は南向きで、その東に「東の対」、西に「西の対」が立てられ、原形は全体が左右対称とされてきました。しかし近年は、そうでない建物も多くあったことが判明しています。
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