今回は、野田佳彦について学んでいこう。

民主党から3人目の首相として就任した彼を期待する向きもあったが、力を発揮することなく下野した印象がある人もいるでしょう。

野田政権時代に民主党が総選挙で大敗した理由をはじめ、野田の生い立ちや政治家としての実績などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

国政入りするまでの野田佳彦

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まずは国政入りする前の、若き頃の野田佳彦について見ていきましょう。

松下政経塾で政治を学ぶ

野田佳彦は、1957(昭和32)年に千葉県で生まれました。野田の近親者に政治家はおらず、野田の両親はともに農家の末っ子という珍しい組み合わせの夫婦でした。野田は県内屈指の進学校を卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中には、参議院選挙でビラ配りをしていたとも伝えられます。

大学卒業後の野田は、すぐには就職しませんでした。その代わりに、設立されたばかりの松下政経塾に1期生として入塾「経営の神様」松下幸之助の薫陶を受けて5年間を過ごし、政治や経済を学びました。野田の同期には逢沢一郎、1期下には松原仁などがいます。

千葉県議会議員を務める

松下政経塾を卒業した野田は、家庭教師やガスの点検員などをしながら政界を目指す準備をしていました。松下政経塾卒業から2年たち、野田は千葉県議会議員選挙に地元の船橋市から出馬します。選挙資金はカンパでまかない、選挙員は20代を中心としたボランティアでした。

野田佳彦といえば、毎朝駅前で行う辻立ちが有名ではないでしょうか。野田による朝の演説は、1986(昭和61)年、つまり県議会議員選挙に出馬する前から行われていました。苦戦も予想された選挙でしたが、野田は戦前の下馬評を覆して見事当選。4年後も当選し、野田は千葉県議会議員を2期務めました

初当選後の野田佳彦

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千葉県議会議員となった野田佳彦は、さらに国政を目指します。ここでは、彼が国政に関わっていく様子を見ていくことにしましょう。

最初の国政選挙は日本新党から出馬

1992年(平成4)年、野田佳彦は日本新党の結党に参加します。党の代表は細川護熙で、松下政経塾では評議員を務めていました。野田は1993(平成5)年の衆議院総選挙に出馬。初めての国政選挙だったのにもかかわらず、見事トップ当選を果たしました

日本新党は選挙で躍進し、野党8党による連立政権に名を連ねましたが、連立政権である細川内閣と羽田内閣はともに長続きせず。政界再編が起こり、野田は1994(平成6)年の新進党結党に参加しました。しかし、1996(平成8)年の総選挙で落選。さらに野田は民主党に移籍すると、2000(平成12)年の総選挙で当選し、国政に返り咲きました。

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菅直人内閣の財務大臣に

2009(平成21)年に、初の民主党政権である鳩山由紀夫内閣が成立します。野田佳彦も鳩山内閣に入閣するとの噂もありましたが、大臣にはなりませんでした。野田は予算担当の財務副大臣となりました。その後、大臣が辞任するたびに後任候補として野田の名前は挙がりましたが、鳩山内閣では大臣になっていません。

鳩山内閣の次に成立したのが、同じく民主党政権である菅直人内閣でした。そこで、野田は初入閣にして財務大臣という重要ポストに就任することとなります。野田の財務大臣就任時は、金融市場が1ドル80円台前半にまで上昇。野田は円高となった市場の為替介入などに注力しました。

野田佳彦内閣の誕生と終焉

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2012年に野田佳彦は内閣総理大臣となりますが、任期わずか1年でその座を明け渡します。その様子を一気に見ていきましょう。

民主党政権3人目の総理大臣に

東日本大震災への対応に批判が集まるなどで菅直人内閣の支持率は下がり、任期半ばで退陣に追い込まれます。菅の後任を決める民主党代表選挙には、野田佳彦を含む5人が立候補しました。当初、野田は代表選挙の有力候補と目されていませんでしたが、投票当日になり情勢は一変。決選投票を経て、野田が民主党代表に選出されました

衆参両院での首班指名を経て、野田は第95代の内閣総理大臣となります松下政経塾出身者としては初めて自由民主党に在籍経験がない者としては2代続けての総理となりました。2012(平成24)年の1月・6月・10月の3度に渡り、野田は内閣改造を実施しています。

「近いうち解散」で大敗

2012(平成24)年8月、野田首相は谷垣禎一自民党総裁・山口那津男公明党代表と会談。その席で、審議中の法案が成立すれば「近いうちに国民の信を問う」という趣旨の発言をしました。その事実が広まると、衆議院解散が近いという憶測が流れ始めます。しかし、「近いうち」がなかなか訪れませんでした。

11月、谷垣の後任として自民党総裁になった安倍晋三を相手に、野田は国会で党首討論へ。その場で野田は民主党案の選挙制度改革に言及し、それに応じるなら解散してもいいと発言します。野党側がそれに同意し、12月に総選挙が行われることになりました。結果は民主党が大敗し、自公連立政権の安倍晋三内閣が誕生したのです。

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なぜ野田佳彦率いる民主党は総選挙で大敗したのか?

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では、なぜ野田佳彦率いる民主党は総選挙で大敗したのでしょうか。ここでは、大きな理由として考えられる3つの要因について見ていきましょう。

小沢グループの離反

自由民主党には派閥というものが幅を利かせていますが、かつての民主党もいくつかのグループに分かれていました。そのうちの1つが、小沢一郎率いる小沢グループです。自民党時代には幹事長を勤め、民主党代表にもなったことがある小沢の影響力は、民主党内外に大きく及ぶものでした。

小沢グループは、菅直人政権時に「菅おろし」へと動き、結果的に菅を総理辞任へと追い込みました。菅の後継である野田政権でも、小沢グループは党の主流派と反発。その結果、小沢グループは民主党を離党し、「国民の生活が第一」という新政党を結成しました。衆参合わせて50人ほどの離党は、野田政権にとって致命的でした。

野田の独断で民主党の足並みが乱れる

野田佳彦が国会の党首討論で宣言した衆議院解散の意向は、民主党内でも限られた人にしか伝えられていなかったそうです。野田が不意を突く形で宣言したこともあり、野党からは驚きをもって迎えられました。しかし、それは与党側も同じで、党内に困惑する声が次々と挙がる有様でした。

8月の時点で「近いうちに国民の信を問う」と言った以上、年内に解散をしなかった場合は嘘をついたとして非難が集中していたでしょう。しかし、与党内で意思疎通ができていなければ、反発する者も出るのは当然です。突然の解散宣言は与党内をも揺り動かし、選挙前に10人以上が民主党を離党する事態を招きました。

民主党政権の実績不足

野田政権下で実施された総選挙で問われたのは、野田内閣が行った政策だけではありませんでした。その前に行われた総選挙で民主党への政権交代があったので、実質的に民主党政権全体への信任投票になったといえます。しかし、3年余りの間で、民主党が実績と呼べるものを生み出せませんでした。

目玉ともいえた事業仕分けでは、思ったような予算のスリム化を実現するに至っていません。鳩山由紀夫内閣では普天間基地の沖縄県外移転に頓挫。菅直人内閣では東日本大震災での原発事故対応などに批判が集まりました。それらを支持しなかった人が多かったため、野田政権下での総選挙で民主党に票が集まることはなかったのです。

総理大臣退任後の野田佳彦

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2012年の総選挙で敗れ、野田佳彦は総理の座から追われます。果たして、その後はどうなったのでしょうか。

民進党の幹事長に

野田佳彦が所属していた民主党は、総選挙で大敗後、所属議員の離党が相次ぎます。2013(平成25)年の参議院選挙でも敗れ、2014(平成26)年の総選挙では党代表の海江田万里が落選。存亡の危機に立たされた民主党は維新の党と合併し、2016(平成28)年より民進党として再出発しました。

結党から半年、民進党の代表選挙が行われ、蓮舫が代表に選出されます。蓮舫による党人事で、幹事長となったのが野田でした。しかし、民主党が総選挙で敗れた時の党代表が重要ポストに就くことへ反発する声が上がりました。結局、2017(平成29)年の東京都議会議員選挙で敗れた責任を取り、野田は幹事長を辞任することになります。

\次のページで「希望の党合流を断られる」を解説!/

希望の党合流を断られる

2017(平成29)年の東京都議会議員選挙に敗れてから2ヶ月後に衆議院が解散すると、蓮舫の公認で民進党代表となった前原誠司は奇策に打って出ます。それは、民進党と小池百合子東京都知事率いる希望の党との合流。2つの党が一体となることで、自民・公明両党による連立与党に対抗しようと試みたのです。

しかし、民進党の所属議員がすべて希望の党と合流できるわけではありませんでした。結果的に、希望の党が望む人材としか民進党の議員は合流できないこととなります。野田はその中には含まれておらず、合流を断念。無所属として野田は出馬し、独力で当選しました。

立憲民主党に合流

希望の党との合流協議を経たのちに、民進党は4つに分かれることとなります。1つは、枝野幸男を中心として、立憲民主党となりました。1つは希望の党と合流し、のちに国民民主党へと発展。あとの2つは、民進党に残った者と、野田のように無所属として活動する者です。

立憲民主党と国民民主党の大半は、2020(令和2)年に合併して、新たな立憲民主党として始動野田もそこに加わり、立憲民主党の所属議員となりました。その時に、党の最高顧問に就任しています。2021(令和3)年の総選挙に野田は立憲民主党の議員として初めて出馬し、9度目の当選を果たしました。

野田佳彦は民主党をまとめ切れずに総選挙で敗れた

2009年に民主党政権が誕生したものの、鳩山・菅内閣は短命に終わり、その後を野田佳彦が継ぎました。しかし、離党者が相次ぐ状況を野田政権は止められませんでした。さらには、野田が独断で衆議院解散を決めたことが民主党内で支持されず、野田は党をまとめ切れなくなります。その結果、総選挙で野田佳彦率いる民主党は敗れ、わずか3年で民主党政権は終わりました。

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3分で簡単「野田佳彦」なぜ野田内閣は総選挙で大敗した?政治家としての評価・実績も行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説

今回は、野田佳彦について学んでいこう。

民主党から3人目の首相として就任した彼を期待する向きもあったが、力を発揮することなく下野した印象がある人もいるでしょう。

野田政権時代に民主党が総選挙で大敗した理由をはじめ、野田の生い立ちや政治家としての実績などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

国政入りするまでの野田佳彦

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まずは国政入りする前の、若き頃の野田佳彦について見ていきましょう。

松下政経塾で政治を学ぶ

野田佳彦は、1957(昭和32)年に千葉県で生まれました。野田の近親者に政治家はおらず、野田の両親はともに農家の末っ子という珍しい組み合わせの夫婦でした。野田は県内屈指の進学校を卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中には、参議院選挙でビラ配りをしていたとも伝えられます。

大学卒業後の野田は、すぐには就職しませんでした。その代わりに、設立されたばかりの松下政経塾に1期生として入塾「経営の神様」松下幸之助の薫陶を受けて5年間を過ごし、政治や経済を学びました。野田の同期には逢沢一郎、1期下には松原仁などがいます。

千葉県議会議員を務める

松下政経塾を卒業した野田は、家庭教師やガスの点検員などをしながら政界を目指す準備をしていました。松下政経塾卒業から2年たち、野田は千葉県議会議員選挙に地元の船橋市から出馬します。選挙資金はカンパでまかない、選挙員は20代を中心としたボランティアでした。

野田佳彦といえば、毎朝駅前で行う辻立ちが有名ではないでしょうか。野田による朝の演説は、1986(昭和61)年、つまり県議会議員選挙に出馬する前から行われていました。苦戦も予想された選挙でしたが、野田は戦前の下馬評を覆して見事当選。4年後も当選し、野田は千葉県議会議員を2期務めました

初当選後の野田佳彦

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千葉県議会議員となった野田佳彦は、さらに国政を目指します。ここでは、彼が国政に関わっていく様子を見ていくことにしましょう。

最初の国政選挙は日本新党から出馬

1992年(平成4)年、野田佳彦は日本新党の結党に参加します。党の代表は細川護熙で、松下政経塾では評議員を務めていました。野田は1993(平成5)年の衆議院総選挙に出馬。初めての国政選挙だったのにもかかわらず、見事トップ当選を果たしました

日本新党は選挙で躍進し、野党8党による連立政権に名を連ねましたが、連立政権である細川内閣と羽田内閣はともに長続きせず。政界再編が起こり、野田は1994(平成6)年の新進党結党に参加しました。しかし、1996(平成8)年の総選挙で落選。さらに野田は民主党に移籍すると、2000(平成12)年の総選挙で当選し、国政に返り咲きました。

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