今回は、洞爺丸事故について学んでいこう。

四方を海に囲まれた日本では、船舶による事故が多い。中でも、1000人以上の犠牲者を出して日本で最も悲惨といえる海難事故となったのが、洞爺丸事故です。

洞爺丸事故が起きた原因や、その後に与えた影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

洞爺丸と洞爺丸台風

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まずは、事故の当事者となった船である洞爺丸と、大惨事を起こした洞爺丸台風について見てみましょう。

事故の当事者となった洞爺丸とは

1908(明治41)年、旧国鉄は青函連絡船の運行を開始しました。青森と函館を結ぶ、営業キロ113.0kmの鉄道連絡船という位置付けです。その当時、津軽海峡を通過するには、船で渡るしか方法がありませんでした。そのようなとても重要な航路を、かつて旧国鉄が運営していたのです。

第二次大戦中に青函連絡船は損傷し、当時国鉄が所有していた12隻はすべて損傷します。他の航路から船を集め、津軽海峡を縦断する航路は維持されましたが、新しい船を建造する必要がありました。そういった状況で、1947年に就航した新しい青函連絡船の1つが洞爺丸です。戦後初の大型客船として、洞爺丸は大いに期待されていました。

洞爺丸台風の接近

1954(昭和29)年9月、南太平洋で発生した熱帯低気圧は、発達しながら北上します。台湾の辺りで進路を変え、加速しながら日本へ向かい、鹿児島県に上陸しました。昭和29年の台風15号は、国際名でマリーと命名。のちに洞爺丸台風と呼ばれるようになります。

この洞爺丸台風は結果的に北海道まで北上し、多くの被害を生みました。特に風害が大きく、各地で大木がなぎ倒される被害が発生。フェーン現象による火災が起き、3000戸もの家屋が焼失しました。その時に、函館沖で大きな犠牲を払うこととなったのが、洞爺丸事故だったのです。

洞爺丸が事故を起こすまで

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洞爺丸台風が接近した日に、青函連絡船の洞爺丸は大惨事に巻き込まれます。いったい何があったのでしょうか。

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天候の回復を待って出港

1954(昭和29)年9月26日、青森港を出港した洞爺丸は、11時05分に函館港へ到着。14時台に折り返して、青森港へ向かう予定でした。しかし、のちに洞爺丸台風と命名される台風15号が北海道に接近し、天候が急激に悪化します。洞爺丸は定時での出港を諦め、天候の回復を待つことになりました

荒れた天候はなかなか収まらず、一時は当日の出港を断念する方向にも傾きかけました。しかし、17時半頃から徐々に風が収まり始めます。洞爺丸の船長は、その後は天候が回復すると判断し、出港を決意。18時39分、1000人以上の乗客と貨物を乗せて、洞爺丸は函館港を出ました

出港直後に事故

函館港を出てすぐに、洞爺丸は困難に直面します。治まったはずの風が猛威を振るい、洞爺丸の行く手を阻むことに波も高くなってきて、洞爺丸は行くことも戻ることも難しくなります。船長は、苦渋の決断でアンカーを打つよう指示し、仮泊して風や波が弱まるのを待ちました。

しかし、天候ははますます悪化して、ついにはアンカーが流される事態に。大波を被った船体は機関室にも浸水し、洞爺丸の動力は失われました。緊急避難として近くの砂浜に座礁することを試みましたが、うまくいきませんでした。洞爺丸は大きく傾いて転覆し、ついには沈没したのです

事故後の洞爺丸

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台風による強風と大波で転覆した洞爺丸。救助活動と、その後の海難審判はどのように行われたのでしょうか。

困難を極めた救助活動

洞爺丸の転覆により、多くの乗客が海に投げ出されました。しかし、台風で海が荒れていては、函館港にいた船も近付きようがありません。海上保安庁の船も容易には近付けませんでした。洞爺丸台風による二次被害を防ぐ必要にも迫られたため、洞爺丸の乗客や乗組員を救出する作業は遅れざるをえません。

犠牲者は多く、火葬場での処理が追いつかなかったとも伝えられます。洞爺丸事故による死者・行方不明者は、合わせて1155名に上りました。あまりの規模に、1500名以上の犠牲者を出したことで知られる、1912(明治45)年のタイタニック号沈没に次ぐ事故と表現されることもあります

船長不在で進められる海難審判

洞爺丸など5隻の事故を巡る海難審判は、事故の翌年から開始されます。しかし、洞爺丸の船長は死亡していたため、生き残った二等航海士らが受審人として審理に加わりました。半年ほどかけて出された裁決は、船長に過失があったことに加え、洞爺丸の船体構造や国鉄の運行管理に不備があったことを認めるものでした。

この裁決により、指定海難関係人である当時の国鉄総裁は勧告を受けます。しかし、青函鉄道管理局長や気象台への勧告は見送られました。海難審判の第二審も第一審の裁決をほぼ踏襲した形に。国鉄は裁決を不服として提訴しましたが、最高裁での判決は棄却となりました。

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洞爺丸事故の原因は?

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では、なぜ洞爺丸事故で多くの犠牲者がでたのでしょうか。ここでは、人為的なミスに焦点を絞って見ていきましょう。

出港判断ミス

事故当時、青函連絡船を出港するかしないかの判断は、船長の裁量に委ねられていました。船長の長年の勘や経験を重視したためです。事故を起こした洞爺丸の船長も、津軽海峡の天候予想に定評があったとされます。「天気図」というあだ名が付いていたほどでした。

当時の交通状況も、無謀にも思える出港をした遠因となっています。事故当時、青森と函館を結ぶ交通手段は、青函航路にほぼ限られていました。1954(昭和29)年当時には、航空路線はそれほど整備されておらず、ましてや鉄道で行きようがありませんでした。青函航路をなんとしても運行させたいという責任感が、誤った判断をさせたのです。

当時の気象予報では限界があった

今でこそ、気象予報には民間企業も関わり、多くの地点で3時間ごとの予報を発表しているほどです。しかし、洞爺丸事故当時の1954(昭和29)年では、気象予報がそれほど発達していませんでした。日本での気象衛星の運用は、1978(昭和53)年から観測を開始した「ひまわり」まで待つこととなります。

気象レーダーですら一部で使われ始めたという段階では、船長の長年の経験に頼らざるをえませんでした。洞爺丸台風は、そんな船長が経験したことのない台風だったのです。船長は台風が通過したと判断しましたが、実は一時的に停滞していただけ洞爺丸事故が発生した頃は、台風が発達しながら北海道に接近していました

対応がことごとく裏目に出た

函館港を出港してすぐに台風の影響を受けた洞爺丸。アンカーを打って船首を風上に向け、わずかに前進しながら大波や強風に耐えるという、投錨仮泊法を取っていました。しかし、船を固定してしまったがために強風の影響をまともに受けることに。洞爺丸は大きく揺れ、船内は大量に浸水しました。

また、事故を受けての乗客誘導も、結果的には犠牲者が多くなる原因になったようです。生存者などの証言によりますと、乗組員が乗客を船室から出ないように誘導したとの情報もあります船室から出て波にさらわれないようにしたとされますが、結果的に逃げ場を失うことに。船もろとも多くの人が海に沈んだのです。

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洞爺丸事故で得られた教訓とは?

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では、洞爺丸事故で何か教訓は得られたのでしょうか。事故後に起きた変化について見ていくことにしましょう。

青函連絡船の船体を改良

洞爺丸は車載客船という性質上開口部分が多く、そのために浸水を免れられませんでした。よって、青函連絡船の構造改良が着手されることになりました。具体的には、車両積載口への水密扉の採用船底部水密区画及び水密扉の設置車両甲板下にあった旅客区画の廃止などです。

また、洞爺丸事故後から導入された新造船は、従来の石炭タービンシステムからディーゼルエンジンに転換されています。舵も2枚とし、操船性を向上化させました。1957(昭和32)年に就航した十和田丸が、まさにそのような船でした。洞爺丸事故により必要とされた安全対策を、十和田丸に余すことなく搭載したのです。

青函連絡船の出港判断について変更

洞爺丸事故当時まで、青函連絡船の出港判断は船長の裁量に委ねられ、船長の長年の経験が尊重されていました。しかし、洞爺丸台風のような数十年に一度発生するレベルの天候には、船長が築き上げた経験則が通用しませんでした。そこで、青函連絡船の出航判断を、船長と地上の運行局との合議制に変更したのです。

さらに旧国鉄は、一定の気象条件を超えた場合において、青函連絡船や鉄道を自動的に運行停止させる制度を採用しました。また、荒天時には気象台との連絡を緊密にし、運行判断の材料として積極的に採り入れるように改善。荒天になった場合の退避先も、陸奥湾の奥に位置し高波の影響を受けにくい青森港に変更されました。

青函トンネル工事の着工

本州と北海道を結ぶ海底トンネルを建造する構想は、第二次大戦前からあったとされます。終戦まもない1946(昭和21)年からは、現地で調査が開始されました。着工までにはしばらくかかると考えられていましたが、ある事件を境に構想の具体化への機運が高まりますそれが洞爺丸事故だったのです

1964(昭和39)年より調査坑の掘削が始まり、1971(昭和46)年に本工事開始。軟弱地盤や湧水などで工事は難航しましたが、1985(昭和60)年に本坑が貫通しました。1988(昭和63)年に青函トンネルは開通し、JR津軽海峡線が開業します。それに伴い、旧国鉄(現在のJR)が運営する青函連絡船は廃止されました

洞爺丸事故を教訓として船舶は安全に航行されるべきである

北海道と本州を結ぶ数少ない交通手段として機能していた青函連絡船。しかし、洞爺丸台風が接近しているのにもかかわらず、重要な使命を果たそうとしたばかりに出港を決意します。その結果、多くの乗客を乗せていた洞爺丸は転覆し、日本で最悪といえる海難事故を起こしました。二度と洞爺丸事故のような悲惨な事故が起こらないように、船舶は安全を最優先して航行されるべきでしょう。

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現代社会

日本最大級の海難事故「洞爺丸事故」とは?事故の原因やその後の影響などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、洞爺丸事故について学んでいこう。

四方を海に囲まれた日本では、船舶による事故が多い。中でも、1000人以上の犠牲者を出して日本で最も悲惨といえる海難事故となったのが、洞爺丸事故です。

洞爺丸事故が起きた原因や、その後に与えた影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

洞爺丸と洞爺丸台風

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まずは、事故の当事者となった船である洞爺丸と、大惨事を起こした洞爺丸台風について見てみましょう。

事故の当事者となった洞爺丸とは

1908(明治41)年、旧国鉄は青函連絡船の運行を開始しました。青森と函館を結ぶ、営業キロ113.0kmの鉄道連絡船という位置付けです。その当時、津軽海峡を通過するには、船で渡るしか方法がありませんでした。そのようなとても重要な航路を、かつて旧国鉄が運営していたのです。

第二次大戦中に青函連絡船は損傷し、当時国鉄が所有していた12隻はすべて損傷します。他の航路から船を集め、津軽海峡を縦断する航路は維持されましたが、新しい船を建造する必要がありました。そういった状況で、1947年に就航した新しい青函連絡船の1つが洞爺丸です。戦後初の大型客船として、洞爺丸は大いに期待されていました。

洞爺丸台風の接近

1954(昭和29)年9月、南太平洋で発生した熱帯低気圧は、発達しながら北上します。台湾の辺りで進路を変え、加速しながら日本へ向かい、鹿児島県に上陸しました。昭和29年の台風15号は、国際名でマリーと命名。のちに洞爺丸台風と呼ばれるようになります。

この洞爺丸台風は結果的に北海道まで北上し、多くの被害を生みました。特に風害が大きく、各地で大木がなぎ倒される被害が発生。フェーン現象による火災が起き、3000戸もの家屋が焼失しました。その時に、函館沖で大きな犠牲を払うこととなったのが、洞爺丸事故だったのです。

洞爺丸が事故を起こすまで

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洞爺丸台風が接近した日に、青函連絡船の洞爺丸は大惨事に巻き込まれます。いったい何があったのでしょうか。

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