京都五山という京都の有名な寺院を知っているか。京都五山というと京都の夏の風物詩、五山送り火を想像すると思うが、それとは全く違うものです。間違っても送り火と混同してはいけない。
今回は現役文系塾講師ライター明東碧吾と一緒に京都五山について詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾講師をしているライター。文系科目を専任で教えているが、中でも社会科授業には定評があり、楽しく、知識豊富な授業を展開している。

京都五山とは何だ?五山と言いながら六つ?五山のお寺を確認してみよう

image by iStockphoto

京都五山とは室町時代に五山十刹の制で、寺院の格付けである寺格が上位5番以内に数えられた臨済宗の寺院のことを言います。なぜ寺院なのに山なのかというと、寺院には山号がつけられているからです。そこから五山と呼ばれています。間違っても送り火が行われる五つの山ではございません。

五山十刹の制とは何だ?寺院の格付け?

五山十刹の制とは室町幕府が保護し、帰依した寺院、いわゆる官寺に寺院の格付けである寺格をつけたことをいいます。この制度は中国の南宋で行われた禅宗制度を日本にも導入したことから始まりました。

室町幕府は官寺の五山十刹とその下の諸山を管理するために僧録司を置いて管理を行います。初代僧録司として春屋妙葩が任命され、相国寺の鹿苑院に置かれたため、鹿苑僧録と呼ばれるようになりました。

京都五山はこれだ!五山に入る寺院をチェック!

では、京都五山に挙げられているのはどこの寺院でしょうか?寺格と寺院をご紹介します。

京都五山別格:瑞龍山 南禅寺(鎌倉五山も含めて、その上の寺格で別格です。)
京都五山第一位:霊亀山 天龍寺
京都五山第二位:萬年山 相国寺
京都五山第三位:東山 建仁寺
京都五山第四位:慧日山 東福寺
京都五山第五位:万寿寺(山号はありません。)

以上が京都五山に挙げられている寺院です。大学受験の覚え方で「天から愛す国を建てようと東へいったがなぜ饅頭を食った」などの語呂合わせが作られています。

別格が存在?六つ目の寺院はここだ!

Kyoto Nanzenji01s5s4272.jpg
663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる

京都五山の寺院を全て見てきましたが、なぜか六つありますね。はじめに挙げられた南禅寺は京都五山と鎌倉にある鎌倉五山の上の別格として挙げられています。

南禅寺は亀山天皇が紅葉の名所で有名な禅林寺永観堂の持仏堂を立てたことが始まりです。当時は禅林寺殿と呼ばれていましたが、その後禅林禅寺となり、1299年に寺観が整ったことで大平興国南禅禅寺となりました。つまり、南禅寺となったのです。

後醍醐天皇が五山制を導入したときは天皇ゆかりの官寺として五山の第一位になっていました。しかし、室町幕府三代将軍足利義満が相国寺を建立し、五山に加えようとしたため、南禅寺を別格扱いとし、鎌倉と京都それぞれに五山を設置したのです。

京都五山はすべて臨済宗のお寺?

京都五山は別格の南禅寺を含めて、全て臨済宗の寺院です。五山十刹の制は禅宗での寺格制度なので、禅宗の寺院につけられている寺格になります。日本では臨済宗と曹洞宗が禅宗として鎌倉時代に伝えられ、広がっていきました。

臨済宗って何だ?鎌倉時代に伝わった新しい仏教のあり方!

臨済宗は鎌倉時代に栄西によって、伝えられた宗派です。曹洞宗とともに坐禅により悟りを開く、禅宗という宗派になります。

ただ、曹洞宗と臨済宗は教義に違いがあるのです。曹洞宗は只管打坐という座る中で悟りを開きます。しかし、臨済宗は公案という問答が出され、答えを見つけるために座禅を行い、悟りを開こうとするのです。

つまり、坐禅の目的が違うというのが臨済宗と曹洞宗の大きな違いになります。ただ、坐禅の中で精神を鍛えるという教えは武士の修行にも似ていることから、武士を中心に受け入れられるようになったのが、禅宗なのです。

室町幕府が保護?臨済宗と室町幕府はどんな関係?

Myoan-Eisai-Kennin-ji-Portrait.png
Unknown - https://www.univie.ac.at/rel_jap/an/Geschichte/Zen#/media/File:Eisai_kenninji.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

曹洞宗は同じ禅宗でも地方豪族や民衆からの帰依を受けるようになります。それに対して、臨済宗は武士に受け入れられたと同時に京都の貴族にも受け入れられました。

栄西は臨済宗の開祖ですが、「茶祖」とも呼ばれ、日本にお茶を紹介した人物でもあります。お茶は茶道としてお稽古事の一つにもなっていますね。そうしたことから、朝廷に近い上級武士から受け入れられたことが影響して、朝廷でも臨済宗は受け入れられました。

そうすると平安京内に禅寺を建立しやすくなり、幕府や朝廷との結びつきが必然的に強くなっていったのです。考えが武士寄りであり、京都を本拠に置く室町幕府は臨済宗と結びついていくことになりました。

京都五山の全仏閣を徹底解説!

臨済宗の総本山は京都の建仁寺になります。建仁寺は栄西が建立した寺院なので、臨済宗の中心的な寺院です。ただ、臨済宗にはさまざまな宗派に分かれています。また、建立した当時の権力者によって寺格がつけられたため、建仁寺は京都五山では第三位の寺格です。

では、京都五山に挙げられる寺院はどのような臨済宗の寺院で、なぜその寺格を有しているのかを見ていきましょう。

京都五山第五位:東福寺の飛び地?東福寺と結びつく万寿寺

Manju-ji Temple Entrance.JPG
Drnakain - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

万寿寺はもともと十刹の第四位の寺格の寺院でした。もとは白河上皇が建立した御堂でしたが、その後東福寺に帰依した東山湛照が万寿禅寺と改め、臨済宗の寺院になります。その後、火災が起きたため、後宇多院の皇女から土地を賜り、移動しました。そうした由緒から五山の五位に昇格しました。

しかし、また火災が起きたため、東福寺近くに移動し、近くの三聖寺を合併しました。もともと東福寺の帰依を起源に持っていたことから今では東福寺の塔頭(高僧の弟子が名刹などの横に建立する塔などのこと)となっています。

京都五山第四位:奈良に負けない!京都最大の大伽藍の東福寺

TofukujiHondo.jpg
PlusMinus - Photo by PlusMinus, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

東福寺は九條道家が奈良の最大寺院の東大寺や奈良で隆盛を極めた興福寺になぞらえて、東大寺の「東」と興福寺の「福」から東福寺と名付けられました。開山にあたり、臨済宗の円爾弁円を招きます。こうして建立されたのが京都最大の大伽藍を有する東福寺なのです。

東福寺を開山した円爾弁円は宋で修行後に福岡で承天寺を開山します。そのとき、疫病が流行った博多で祈祷を行いました。その姿を模して行われるのが博多の夏の風物詩祇園山笠になったといわれています。

また、静岡出身である円爾弁円はお茶を故郷である静岡に持ち帰り、静岡茶のもとを築いた人物でもあるのです。そうしたことから、花園天皇より聖一国師の号を贈られました。

東福寺は京都最大の大伽藍ともち、開山に携わった摂関家や僧が大きな功績を挙げたことから京都五山の第四位に挙げられているのです。

京都五山第三位:臨済宗の開祖栄西が建立!建仁寺

150124 Kenninji Kyoto Japan01s3.jpg
663highland, CC 表示 2.5, リンクによる

建仁寺は臨済宗の開祖である栄西が建立した寺院で、臨済宗の総本山となっています。建仁寺は栄西が宋で修行した百丈山を模して造られた寺院です。また、京都で初めて建立された禅寺ということから京都最古の禅寺としても知られています。

東福寺を開山した円爾弁円や建長寺の開山を行った蘭渓道隆などが入山して、純粋な禅の道場としての気質が強い寺院となりました。臨済宗の開祖栄西が建立し、臨済宗の高僧が寺院に携わったことから臨済宗の中で大きな寺院となり、京都五山第三位として幕府から帰依を受けることとなったのです。

法堂の天井には建立800年を記念して、小泉淳作の双龍図が描かれています。また、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」も建仁寺に置かれていたもの(現在は京都博物館に寄託しています)で、多くの文化財を有する寺院でもあるのです。

京都五山第二位:足利義満が建立?相国寺

150815 Shokokuji Kyoto Japan02s3.jpg
Photo by 663highland, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

相国寺は室町幕府三代目将軍足利義満が花の御所の近くに禅宗寺院を建立しようとしたことからはじまった寺院です。また、相国の名は足利義満が建立当時、朝廷で左大臣を務めていたこともあり、相国寺と名付けられました。

相国寺は室町幕府が建立した寺院であるため、幕府の官寺としての機能が強く、僧録司が置かれた寺院でもあります。つまり、五山を管理する寺院となったのです。また、初代僧録司の春屋妙葩義堂周信など漢詩文に精通した高僧が集結したことから五山文学の中心地になりました。

また、水墨画を大成した雪舟「瓢鮎図」の如拙、「四季山水図屏風」を描いた周文は相国寺の僧でした。そうしたことから、水墨画の中心地にもなっているのです。

創建当初は足利義満が京都五山の第一位に置かれていましたが、義満の死後は第二位とされ、室町時代を支える禅寺として確立しました。

\次のページで「京都五山第一位:中国でお金を集めて作られた天龍寺」を解説!/

京都五山第一位:中国でお金を集めて作られた天龍寺

Tenryuji Kyoto.jpg
osakaosaka - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

天龍寺は室町幕府初代将軍足利尊氏が建立した寺院で、開山には世界史上最高の作庭師の一人とも言われる夢窓疎石が行いました。天龍寺といえば池泉式回遊庭園の曹源池庭園が有名です。この庭園を作ったのも開山した夢窓疎石になります。また、この庭園は日本初の史跡・特別名勝に指定されたことでも有名です。

もともと天龍寺は足利尊氏が敵味方を超えて、後醍醐天皇の菩提を弔うために建立が計画されました。しかし、幕府の財政は厳しい状況でした。そこで、建長寺を建立するときに中国に貿易船を出したことを参考に中国(当時は明)へ貿易船を派遣します。これが天龍寺船です。莫大な利益を手に入れた天龍寺船が帰国したのち、天龍寺が建立されました。

天龍寺は後醍醐天皇を弔うだけでなく、亀山天皇と後嵯峨天皇の陵(みささぎ=天皇のお墓のこと)が置かれていることから朝廷や幕府とのつながりが強いため京都五山第一位となっています。

京都五山で文化が発展?五山文学とは?

五山は幕府や朝廷から保護を受ける官寺であったことから、幕府の外交の手伝いなども行っていました。その中で、外交文書の起草に漢詩の才が必要となり、漢詩や法語などが書けるものが五山の中から多く輩出されます。

こうして、五山の僧が担い手となって、五山文学が形成されました。では、五山文学とはどういったものかを見ていきましょう。

禅を広める出版事業?五山版とは?

五山版とは京都五山を中心に出版された書籍のことを指します。五山版では仏教の経典や禅僧に必要な知識をつけるための中国の書物漢詩文集などが印刷され、発刊されました。

これらの五山版は中国文化の輸入に大きな役割を果たし、禅僧の語録などが発刊されたことから禅宗が日本の文化に大きな影響を与える機会となったのです。

僧侶?それとも外交官?五山文学の担い手たち

五山の禅僧たちは外交文書の起草を起草するだけでなく、自ら幕府の外交顧問になったりもしました。こうした漢詩文に強いことから、監視の捜索などを行うようになります。

特に有名なのが虎関師錬で、日本初の仏教通史である「元亨釈書」を記しました。また、天龍寺と相国寺を開山した夢窓疎石の弟子の初代僧録司春屋妙葩や義堂周信、そして義堂周信と五山文学の双璧と呼ばれる絶海中津などが詩僧として、五山文学の発展に努めたのです。

京都の寺社を束ねる京都五山

京都五山は臨済宗の寺院をまとめて、管理するためにつけられた寺格でした。臨済宗は鎌倉時代に日本に広まって、京都だけでも多くの寺院が建立されました。改めて、日本の中で仏教の教えや仏教文化がいきているということを感じます。

京都五山を知ることで臨済宗が日本に与えた影響を知り、現代文化へと受け継がれているものを感じることができるのです。

" /> 3分で簡単京都五山!五山といっても山ではない?室町幕府が管理する寺格制度を現役講師ライターが詳しくわかりやすく解説! – Study-Z
南北朝時代室町時代日本史

3分で簡単京都五山!五山といっても山ではない?室町幕府が管理する寺格制度を現役講師ライターが詳しくわかりやすく解説!

京都五山という京都の有名な寺院を知っているか。京都五山というと京都の夏の風物詩、五山送り火を想像すると思うが、それとは全く違うものです。間違っても送り火と混同してはいけない。
今回は現役文系塾講師ライター明東碧吾と一緒に京都五山について詳しく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾講師をしているライター。文系科目を専任で教えているが、中でも社会科授業には定評があり、楽しく、知識豊富な授業を展開している。

京都五山とは何だ?五山と言いながら六つ?五山のお寺を確認してみよう

image by iStockphoto

京都五山とは室町時代に五山十刹の制で、寺院の格付けである寺格が上位5番以内に数えられた臨済宗の寺院のことを言います。なぜ寺院なのに山なのかというと、寺院には山号がつけられているからです。そこから五山と呼ばれています。間違っても送り火が行われる五つの山ではございません。

五山十刹の制とは何だ?寺院の格付け?

五山十刹の制とは室町幕府が保護し、帰依した寺院、いわゆる官寺に寺院の格付けである寺格をつけたことをいいます。この制度は中国の南宋で行われた禅宗制度を日本にも導入したことから始まりました。

室町幕府は官寺の五山十刹とその下の諸山を管理するために僧録司を置いて管理を行います。初代僧録司として春屋妙葩が任命され、相国寺の鹿苑院に置かれたため、鹿苑僧録と呼ばれるようになりました。

京都五山はこれだ!五山に入る寺院をチェック!

では、京都五山に挙げられているのはどこの寺院でしょうか?寺格と寺院をご紹介します。

京都五山別格:瑞龍山 南禅寺(鎌倉五山も含めて、その上の寺格で別格です。)
京都五山第一位:霊亀山 天龍寺
京都五山第二位:萬年山 相国寺
京都五山第三位:東山 建仁寺
京都五山第四位:慧日山 東福寺
京都五山第五位:万寿寺(山号はありません。)

以上が京都五山に挙げられている寺院です。大学受験の覚え方で「天から愛す国を建てようと東へいったがなぜ饅頭を食った」などの語呂合わせが作られています。

別格が存在?六つ目の寺院はここだ!

Kyoto Nanzenji01s5s4272.jpg
663highland投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる

京都五山の寺院を全て見てきましたが、なぜか六つありますね。はじめに挙げられた南禅寺は京都五山と鎌倉にある鎌倉五山の上の別格として挙げられています。

南禅寺は亀山天皇が紅葉の名所で有名な禅林寺永観堂の持仏堂を立てたことが始まりです。当時は禅林寺殿と呼ばれていましたが、その後禅林禅寺となり、1299年に寺観が整ったことで大平興国南禅禅寺となりました。つまり、南禅寺となったのです。

後醍醐天皇が五山制を導入したときは天皇ゆかりの官寺として五山の第一位になっていました。しかし、室町幕府三代将軍足利義満が相国寺を建立し、五山に加えようとしたため、南禅寺を別格扱いとし、鎌倉と京都それぞれに五山を設置したのです。

京都五山はすべて臨済宗のお寺?

京都五山は別格の南禅寺を含めて、全て臨済宗の寺院です。五山十刹の制は禅宗での寺格制度なので、禅宗の寺院につけられている寺格になります。日本では臨済宗と曹洞宗が禅宗として鎌倉時代に伝えられ、広がっていきました。

臨済宗って何だ?鎌倉時代に伝わった新しい仏教のあり方!

臨済宗は鎌倉時代に栄西によって、伝えられた宗派です。曹洞宗とともに坐禅により悟りを開く、禅宗という宗派になります。

ただ、曹洞宗と臨済宗は教義に違いがあるのです。曹洞宗は只管打坐という座る中で悟りを開きます。しかし、臨済宗は公案という問答が出され、答えを見つけるために座禅を行い、悟りを開こうとするのです。

つまり、坐禅の目的が違うというのが臨済宗と曹洞宗の大きな違いになります。ただ、坐禅の中で精神を鍛えるという教えは武士の修行にも似ていることから、武士を中心に受け入れられるようになったのが、禅宗なのです。

室町幕府が保護?臨済宗と室町幕府はどんな関係?

曹洞宗は同じ禅宗でも地方豪族や民衆からの帰依を受けるようになります。それに対して、臨済宗は武士に受け入れられたと同時に京都の貴族にも受け入れられました。

栄西は臨済宗の開祖ですが、「茶祖」とも呼ばれ、日本にお茶を紹介した人物でもあります。お茶は茶道としてお稽古事の一つにもなっていますね。そうしたことから、朝廷に近い上級武士から受け入れられたことが影響して、朝廷でも臨済宗は受け入れられました。

そうすると平安京内に禅寺を建立しやすくなり、幕府や朝廷との結びつきが必然的に強くなっていったのです。考えが武士寄りであり、京都を本拠に置く室町幕府は臨済宗と結びついていくことになりました。

京都五山の全仏閣を徹底解説!

臨済宗の総本山は京都の建仁寺になります。建仁寺は栄西が建立した寺院なので、臨済宗の中心的な寺院です。ただ、臨済宗にはさまざまな宗派に分かれています。また、建立した当時の権力者によって寺格がつけられたため、建仁寺は京都五山では第三位の寺格です。

では、京都五山に挙げられる寺院はどのような臨済宗の寺院で、なぜその寺格を有しているのかを見ていきましょう。

京都五山第五位:東福寺の飛び地?東福寺と結びつく万寿寺

Manju-ji Temple Entrance.JPG
Drnakain投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

万寿寺はもともと十刹の第四位の寺格の寺院でした。もとは白河上皇が建立した御堂でしたが、その後東福寺に帰依した東山湛照が万寿禅寺と改め、臨済宗の寺院になります。その後、火災が起きたため、後宇多院の皇女から土地を賜り、移動しました。そうした由緒から五山の五位に昇格しました。

しかし、また火災が起きたため、東福寺近くに移動し、近くの三聖寺を合併しました。もともと東福寺の帰依を起源に持っていたことから今では東福寺の塔頭(高僧の弟子が名刹などの横に建立する塔などのこと)となっています。

京都五山第四位:奈良に負けない!京都最大の大伽藍の東福寺

TofukujiHondo.jpg
PlusMinus – Photo by PlusMinus, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

東福寺は九條道家が奈良の最大寺院の東大寺や奈良で隆盛を極めた興福寺になぞらえて、東大寺の「東」と興福寺の「福」から東福寺と名付けられました。開山にあたり、臨済宗の円爾弁円を招きます。こうして建立されたのが京都最大の大伽藍を有する東福寺なのです。

東福寺を開山した円爾弁円は宋で修行後に福岡で承天寺を開山します。そのとき、疫病が流行った博多で祈祷を行いました。その姿を模して行われるのが博多の夏の風物詩祇園山笠になったといわれています。

また、静岡出身である円爾弁円はお茶を故郷である静岡に持ち帰り、静岡茶のもとを築いた人物でもあるのです。そうしたことから、花園天皇より聖一国師の号を贈られました。

東福寺は京都最大の大伽藍ともち、開山に携わった摂関家や僧が大きな功績を挙げたことから京都五山の第四位に挙げられているのです。

京都五山第三位:臨済宗の開祖栄西が建立!建仁寺

建仁寺は臨済宗の開祖である栄西が建立した寺院で、臨済宗の総本山となっています。建仁寺は栄西が宋で修行した百丈山を模して造られた寺院です。また、京都で初めて建立された禅寺ということから京都最古の禅寺としても知られています。

東福寺を開山した円爾弁円や建長寺の開山を行った蘭渓道隆などが入山して、純粋な禅の道場としての気質が強い寺院となりました。臨済宗の開祖栄西が建立し、臨済宗の高僧が寺院に携わったことから臨済宗の中で大きな寺院となり、京都五山第三位として幕府から帰依を受けることとなったのです。

法堂の天井には建立800年を記念して、小泉淳作の双龍図が描かれています。また、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」も建仁寺に置かれていたもの(現在は京都博物館に寄託しています)で、多くの文化財を有する寺院でもあるのです。

京都五山第二位:足利義満が建立?相国寺

相国寺は室町幕府三代目将軍足利義満が花の御所の近くに禅宗寺院を建立しようとしたことからはじまった寺院です。また、相国の名は足利義満が建立当時、朝廷で左大臣を務めていたこともあり、相国寺と名付けられました。

相国寺は室町幕府が建立した寺院であるため、幕府の官寺としての機能が強く、僧録司が置かれた寺院でもあります。つまり、五山を管理する寺院となったのです。また、初代僧録司の春屋妙葩義堂周信など漢詩文に精通した高僧が集結したことから五山文学の中心地になりました。

また、水墨画を大成した雪舟「瓢鮎図」の如拙、「四季山水図屏風」を描いた周文は相国寺の僧でした。そうしたことから、水墨画の中心地にもなっているのです。

創建当初は足利義満が京都五山の第一位に置かれていましたが、義満の死後は第二位とされ、室町時代を支える禅寺として確立しました。

\次のページで「京都五山第一位:中国でお金を集めて作られた天龍寺」を解説!/

次のページを読む
1 2
Share: