国風文化とは、平安中期の10世紀から11世紀ごろに生まれた文化のことです。朝廷による遣唐使の廃止をきっかけに、中国文化(唐風文化)の模倣から抜け出して、日本風の文化を生み出した。言葉だけ聞くと純粋に日本風と思うかもしれないが、それまで影響を受けてきた大陸の様式を基に、日本風にアレンジするという感じです。

国風文化は藤原道長の一強時代の象徴でもある。そんな国風文化の背景、特徴、作品について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。日本は中国からの影響のもと発展してきたが、実は独自の文化が開花した時期もあったので紹介してみたい。

国風文化とはどんな文化?

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国風文化とは、平安中期、10世紀から11世紀ごろに生まれた文化のこと。朝廷による遣唐使の中止をきっかけに、中国文化(唐風文化)の模倣から抜け出して、日本風の文化を生み出しました。純粋に日本風というよりは、それまで影響を受けてきた大陸の様式を基に、日本風にアレンジすると考えたほうがいいでしょう。

別の言葉に言い換えると藤原氏を中心とした貴族文化。浄土教の影響が色濃くあらわれています。

新しい文化を摂取する意欲がなくなる平安時代

平安時代の中期になると、貴族たちは海を渡り大陸文化を摂取する気力も志も失ってゆきます。そのころは大陸でも唐王朝が衰退。菅原道真の進言で遣唐使の廃止が決まりました。

貴族たちが喉から手が出るほど欲しがっていた唐の文物や宝物は、危険を冒してまで遣唐使を派遣しなくても、渡来する中国船を通じて入手できたのです。つまり、人命を犠牲する必要はないと判断されています。

大陸と日本による公の交流がなくなっただけで、突然、今まで輸入してきた文化を捨てたわけではありません。そのころ大陸では、宋が権力を握り、政治の体制も変化しつつありました。そのような時代を背景に、大陸風を基調としつつ、日本風の優雅繊細な衣装を上にまとったという感じでしょう。

大陸と日本の交流がなくなった結果

中国の商船はひんぱんに九州の港湾に訪れ、貴族たちは競って異国の香料・絹・陶磁器・薬品・書籍を手に入れました。遣唐使の廃止後も、貴族たちは自分たちが欲しいものはしっかり手に入れていたのです。

朝鮮半島では女真族が高麗を襲って大暴れ。九州に何千人も来襲し、海賊行為を行いました。しかし、都の貴族たちは慌てふためくことなく無関心。月見や雪見など自分たちの遊興にふけっていました。

国風文化が生まれる宗教的な土壌

国風文化について学ぶうえで避けて通れないのが宗教的な土壌。中核となったのが、仏経における教えのひとつで、現世で阿弥陀如来を(あみだにょらい)を念じることで、来世は浄土と呼ばれる理想郷に生れることを約束する浄土教です。

浄土教とはどんな宗教?

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浄土教は、奈良時代に生れ、平安時代中期に空也という僧が広めました。空也は人々に念仏を唱えれば極楽浄土に往生できると説き、貴族以外の庶民の間に浄土教を急速に広めました。それは末法思想と結びつき、建築・文学・彫刻・絵画・和歌などあらゆる文化を国風化していきました。

ちなみに浄土教は12世紀、鎌倉時代に法然(ほうねん)が開いた浄土宗として発展。さらに6派に別れます。江戸時代には徳川家が浄土宗。天下のお墨付きを得たこともあって、庶民の間でも大変盛んになりました。

末法思想とはどんな考え?

平安社会の最も大きな特徴は末法思想の流行です。これは仏教における歴史観のひとつ。釈迦の入滅後、仏教がどのようになるかが予言するものです。世の中は、正法・像法の時代を経て末法の時代へ。仏の教えは廃れて国が乱れるとされました。

その時期がいつであるかは諸説ありますが、日本では1052年から末法時代に入るとされました。現在の世は取るに足りないもので、死後に極楽浄土へ行けることが一番大切というこの思想は、10世紀ごろから人々の間に大流行します。

その背景にあるのは藤原一門の権力集中です。藤原一門といっても、道長一派だけが権力を手にし、他の貴族たちは出世の望みもなく、能力を発揮する場もなく、女遊びと信仰に没頭するのみ。目標を見失った貴族たちは、悲観的に物事をとらえるようになり末法時代になると天変地異と戦争が起こり、仏の教えも役に立たなくなると信じました。

国風文化によりもたらされた文化の変化

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不明 - 高野切, 倉田実、昭和18年, パブリック・ドメイン, リンクによる

遣唐使の廃止後、貴族たちは大陸の文物を採りいれようとする意欲は消え失せました。少なくとも平安初期のころまでは政治的なエネルギーは残っていました。しかし、それが消えうせ、自分たちが楽しければよいという風潮に変わっていきます。

和歌のラブレターが大流行

そこで貴族たちは風雅に遊び暮らしました。その結果、恋心を伝えるツールである和歌を重要視。贅沢な香を焚き染めたり、贅沢な絹織物をまとって家集を編纂したりします。また、日々の歯磨きから寝るまでのことを記した日記をつける貴族もあらわれました。それらがいわゆる和風文化のです。

漢詩にかわって和歌が日常生活の必須教養。花見も梅ではなく桜を愛で、庭に桜を植えるようになります。万葉集のころは花と言えば「梅」でしたが、平安中期以降は花と言えば「桜」に変化。また、漢字の当て字で文章を書いていた日本人が「仮名」を使って文章を書くようになりました。

仮名文字が出現する

平安時代のいちばん画期的な出来事は「仮名文字」が生れたこと。中国からもたらされた漢字だけで文章を書いていた日本人は、「仮名」を生み出します。それにより、日本生まれの和歌を「ひらがなで書く」ことができるようになりました。男は漢字を使うものという束縛から解放され「仮名だっていいじゃない」と仮名を認める風潮になりました。

そして醍醐天皇の命令により、日本最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が誕生。奈良時代の万葉集はすべて漢字。今でいうなら、英語の本のようなものです。『古今和歌集』は、国家によってつくられた「平仮名の本」。それでも漢字はオトコが使う公用語、仮名はオンナが使う遊びの字、と言う概念は残っていたようです。

国風文化を牽引した文学作品

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さらに平安時代になると、美しい書体がもとめられるようになり、「仮名文字」の書道が盛んになりました。そこから、これまでとは異なる文学の形があらわれました。

\次のページで「国文学が開花する」を解説!/

国文学が開花する

仮名は女性の分野でした。そのため、女性が仮名で書く文学が盛んになり、国文学が生れました。私たちが「女流作家」と呼ぶ女性たちが、数多くの文学作品を残しました。国風文化と女性作家の輩出は、切っても切れない関係というわけです。

男性貴族たちは、公式文書・日記については、これまで通り漢字オンリーでした。仮名は女の遊び道具。オトコはオンナより偉い立場のため「漢字」を使うというのが建前でした。それでも恋心を伝えるツールである和歌のなかでは、男性たちも仮名文字を使いました。そうしたなかで、仮名文字を使った文学が生み出されました。

国風文化の時代の文学作品

紫式部による54帖の大作『源氏物語』、初めての随筆文学である清少納言の『枕草子』は、知っている人も多いと思います。これらは、藤原摂関家の娘たちが皇妃となり、他の貴族たちは才能ある娘たちを女官として送り込んだことで、執筆活動が活発に。女官たちが、仮名を使って『源氏物語』や『枕草子』を書き、国文学の勃興を生み出しました。

そのほかの有名なものとしては、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が挙げられます。また、在原業平を主人公とする『伊勢物語』、伝奇物語の『宇津保物語』も国風文化のひとつ。そのほか、紀貫之の『土佐日記』、藤原道綱の母による散文『蜻蛉日記』も国風文化に該当します。

国風文化の具体例

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Sergeisemenov - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

文学における国風文化の総決算は、平安文学の最高傑作『源氏物語』。いっぽう建築では平等院鳳凰堂、彫刻では法隆寺講堂の薬師三尊像や興福寺の櫛如来像などが、それに該当します。

国風文化の建築

浄土教の影響により、極楽浄土を目指す様式が流行りました。平等院鳳凰堂は、藤原道長の子どもである頼通が、宇治の別荘を寺に改めたことが起源。阿弥陀如来像を安置するために阿弥陀堂を建立しました。鳳凰が翼を広げたかたちに似ているので鳳凰堂と呼ばれました。

醍醐寺の五重塔はとても長い相隣が特徴的。全体の高さの3分の1を占めています。それは上を目指すという野望を鮮明にあらわすデザインが採用されました。東三条殿は、平安時代の代表的な寝殿造。藤原嫡流の邸宅として利用されてきました。

寝殿は主人の住居で、公式の来客に会ったりするとき使われました。もともとは中国の寺院の様式。寝殿の東西と北に同じような作りの屋敷があり、家族が住みました。正妻は北の対に住むので、「北の方」と呼ばれました。南にあるのが大きな庭と池。貴族たちは池に船を浮かべて管弦の遊びを催しました。

美術の世界にも変化をもたらした国風文化

彫刻の分野では、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像が有名でしょう。定朝が作成したもので、多くの弟子を率いて分業で仏像を作る手法を完成させました。この分業的な手法は後世の模範となります。

また、仏教絵画の分野の代表作は高野山阿弥陀聖衆来迎図。浄土信仰の高まりは、極楽浄土から阿弥陀如来が多くの菩薩を伴って使者を迎えにくるという思想を生みました。これに基づいて描かれた仏画が聖衆来迎図。高野山の図は、現存する仏画の中で最大のものです。

\次のページで「書と画の分野における国風文化」を解説!/

書と画の分野における国風文化

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Imperial court in Kyoto - Genji Monogatari Emaki published by the Tokugawa Museum in Nagoya, Japan, 1937., パブリック・ドメイン, リンクによる

本家中国では古くから書が重んじられ、芸術的な文字を書く名人がたくさんいました。日本でも書は平安初期には中国本家に劣らない名人が登場。しかし、国風文化の流れの中、中国風な書体から日本風の書体へと変化していきます。

書では美しい平仮名を追求

漢字の名人が平仮名も書くようになり、平仮名は美しい書道として発達。小野東風、藤原佐藤理、藤原公任、藤原行成たちにより、平仮名は美を極めました。これらの人々の書体は今でも平仮名書きの理想とされています。

仮名の発展とともに漢字も微妙に変化。王義之(おうぎし)という中国の書家の書に、丸みを加えるという方法が生み出されました。

絵画は唐絵から大和絵へ

絵画でも中国風の画風から日本的な画風が生れました。中国風の画風は唐絵。いっぽう日本風の画風を大和絵と呼びました。室内を飾る画も、これまでのように中国風ばかりではなく、日本的な題材を描くようになりました。

屏風絵に和歌を書きこむ、屏風絵のために和歌を詠む、中国の詩に日本の紅葉の和歌を書きこむなどしました。このようにして大和絵が完成していきました。

国風文化は夜を憂う貴族の心を映し出す

国風文化とは、貴族が野心を失った、平安時代の政治的退廃期に起こった日本独自の特徴のある文化。藤原道長一強時代に最高に達しました。国をあげて大陸の文化を取り入れようとする志が消え、自分の楽しみだけを追求する雰囲気のなかで発展しました。

国風文化は日本の独自性を追求するポジティブマインドのあらわれのように思えます。しかし実際は、ポジティブというよりネガティブな風潮から生まれた独自の文化と言えるでしょう。

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平安時代日本史

藤原道長の時代を支えた「国風文化」の背景・特徴・作品などを元大学教員が5分でわかりやすく解説

国風文化とは、平安中期の10世紀から11世紀ごろに生まれた文化のことです。朝廷による遣唐使の廃止をきっかけに、中国文化(唐風文化)の模倣から抜け出して、日本風の文化を生み出した。言葉だけ聞くと純粋に日本風と思うかもしれないが、それまで影響を受けてきた大陸の様式を基に、日本風にアレンジするという感じです。

国風文化は藤原道長の一強時代の象徴でもある。そんな国風文化の背景、特徴、作品について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。日本は中国からの影響のもと発展してきたが、実は独自の文化が開花した時期もあったので紹介してみたい。

国風文化とはどんな文化?

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国風文化とは、平安中期、10世紀から11世紀ごろに生まれた文化のこと。朝廷による遣唐使の中止をきっかけに、中国文化(唐風文化)の模倣から抜け出して、日本風の文化を生み出しました。純粋に日本風というよりは、それまで影響を受けてきた大陸の様式を基に、日本風にアレンジすると考えたほうがいいでしょう。

別の言葉に言い換えると藤原氏を中心とした貴族文化。浄土教の影響が色濃くあらわれています。

新しい文化を摂取する意欲がなくなる平安時代

平安時代の中期になると、貴族たちは海を渡り大陸文化を摂取する気力も志も失ってゆきます。そのころは大陸でも唐王朝が衰退。菅原道真の進言で遣唐使の廃止が決まりました。

貴族たちが喉から手が出るほど欲しがっていた唐の文物や宝物は、危険を冒してまで遣唐使を派遣しなくても、渡来する中国船を通じて入手できたのです。つまり、人命を犠牲する必要はないと判断されています。

大陸と日本による公の交流がなくなっただけで、突然、今まで輸入してきた文化を捨てたわけではありません。そのころ大陸では、宋が権力を握り、政治の体制も変化しつつありました。そのような時代を背景に、大陸風を基調としつつ、日本風の優雅繊細な衣装を上にまとったという感じでしょう。

大陸と日本の交流がなくなった結果

中国の商船はひんぱんに九州の港湾に訪れ、貴族たちは競って異国の香料・絹・陶磁器・薬品・書籍を手に入れました。遣唐使の廃止後も、貴族たちは自分たちが欲しいものはしっかり手に入れていたのです。

朝鮮半島では女真族が高麗を襲って大暴れ。九州に何千人も来襲し、海賊行為を行いました。しかし、都の貴族たちは慌てふためくことなく無関心。月見や雪見など自分たちの遊興にふけっていました。

国風文化が生まれる宗教的な土壌

国風文化について学ぶうえで避けて通れないのが宗教的な土壌。中核となったのが、仏経における教えのひとつで、現世で阿弥陀如来を(あみだにょらい)を念じることで、来世は浄土と呼ばれる理想郷に生れることを約束する浄土教です。

浄土教とはどんな宗教?

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浄土教は、奈良時代に生れ、平安時代中期に空也という僧が広めました。空也は人々に念仏を唱えれば極楽浄土に往生できると説き、貴族以外の庶民の間に浄土教を急速に広めました。それは末法思想と結びつき、建築・文学・彫刻・絵画・和歌などあらゆる文化を国風化していきました。

ちなみに浄土教は12世紀、鎌倉時代に法然(ほうねん)が開いた浄土宗として発展。さらに6派に別れます。江戸時代には徳川家が浄土宗。天下のお墨付きを得たこともあって、庶民の間でも大変盛んになりました。

末法思想とはどんな考え?

平安社会の最も大きな特徴は末法思想の流行です。これは仏教における歴史観のひとつ。釈迦の入滅後、仏教がどのようになるかが予言するものです。世の中は、正法・像法の時代を経て末法の時代へ。仏の教えは廃れて国が乱れるとされました。

その時期がいつであるかは諸説ありますが、日本では1052年から末法時代に入るとされました。現在の世は取るに足りないもので、死後に極楽浄土へ行けることが一番大切というこの思想は、10世紀ごろから人々の間に大流行します。

その背景にあるのは藤原一門の権力集中です。藤原一門といっても、道長一派だけが権力を手にし、他の貴族たちは出世の望みもなく、能力を発揮する場もなく、女遊びと信仰に没頭するのみ。目標を見失った貴族たちは、悲観的に物事をとらえるようになり末法時代になると天変地異と戦争が起こり、仏の教えも役に立たなくなると信じました。

国風文化によりもたらされた文化の変化

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不明 – 高野切, 倉田実、昭和18年, パブリック・ドメイン, リンクによる

遣唐使の廃止後、貴族たちは大陸の文物を採りいれようとする意欲は消え失せました。少なくとも平安初期のころまでは政治的なエネルギーは残っていました。しかし、それが消えうせ、自分たちが楽しければよいという風潮に変わっていきます。

和歌のラブレターが大流行

そこで貴族たちは風雅に遊び暮らしました。その結果、恋心を伝えるツールである和歌を重要視。贅沢な香を焚き染めたり、贅沢な絹織物をまとって家集を編纂したりします。また、日々の歯磨きから寝るまでのことを記した日記をつける貴族もあらわれました。それらがいわゆる和風文化のです。

漢詩にかわって和歌が日常生活の必須教養。花見も梅ではなく桜を愛で、庭に桜を植えるようになります。万葉集のころは花と言えば「梅」でしたが、平安中期以降は花と言えば「桜」に変化。また、漢字の当て字で文章を書いていた日本人が「仮名」を使って文章を書くようになりました。

仮名文字が出現する

平安時代のいちばん画期的な出来事は「仮名文字」が生れたこと。中国からもたらされた漢字だけで文章を書いていた日本人は、「仮名」を生み出します。それにより、日本生まれの和歌を「ひらがなで書く」ことができるようになりました。男は漢字を使うものという束縛から解放され「仮名だっていいじゃない」と仮名を認める風潮になりました。

そして醍醐天皇の命令により、日本最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が誕生。奈良時代の万葉集はすべて漢字。今でいうなら、英語の本のようなものです。『古今和歌集』は、国家によってつくられた「平仮名の本」。それでも漢字はオトコが使う公用語、仮名はオンナが使う遊びの字、と言う概念は残っていたようです。

国風文化を牽引した文学作品

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さらに平安時代になると、美しい書体がもとめられるようになり、「仮名文字」の書道が盛んになりました。そこから、これまでとは異なる文学の形があらわれました。

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