護憲三派という政党を知っているか。名前に護憲とつくからには大正時代の護憲運動に関わりがあることはわかるでしょう。
今回は護憲三派の結成とその後に成立した護憲三派内閣について詳しい内容を現役塾講師ライターの明東碧吾と一緒に詳しく見ていきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾講師を務めているライターです。専門科目の社会科の指導には定評があり、いつも楽しく覚えられる授業を展開しています。

護憲三派とは?まずは基本情報を確認

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護憲三派とは三つの政党から構成された派閥であったことから護憲三派と言われます。また、護憲という言葉で大正時代に起きた護憲運動に関連することはわかりますね。

では、結成時期やどういった派閥であるのかを詳しく見ていきましょう。

結成はいつ?なぜ結成された?

護憲三派は1924年に成立した清浦奎吾内閣に反対するために起きた第二次護憲運動を主導した三つの政党になります。1924年に成立した清浦奎吾内閣は超然内閣といって、議会や政党の意見に関わりなく政治を行う内閣でした。

また、この時期に普通選挙を求める声も上がっていました。普通選挙を求める運動が超然内閣に対抗するようになり、「普選断行・憲政擁護・貴族院改革」をスローガンに第二次護憲運動を起こしました。この運動の中心になったのが護憲三派なのです。

キーパーソン・代表は誰?

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Mochizuki, Kotaro - Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 https://archive.org/details/japantodaysouven00mochrich/, パブリック・ドメイン, リンクによる

では、護憲三派を構成した政党は何だったのでしょうか。まず主力になったのが加藤高明を中心とする憲政会でした。憲政会は原敬内閣の国民人気の高さが影響して、議席数などを伸ばせずにいました。しかし、普通選挙実現を主張して、第二次護憲運動前には都市部で強い政党になっていきました。

続いて、普通選挙実現を主張していた犬養毅の革新倶楽部も清浦奎吾内閣に反対します。そして、この二つの政党に呼応したのが、高橋是清率いる立憲政友会でした。これら三つの政党が清浦内閣反対を要求し、手を組んだのが護憲三派です。

護憲三派内閣とは?護憲三派と何が違う?

護憲三派内閣とは第二次護憲運動後に成立した加藤高明内閣のことを指します。護憲三派が1924年の衆議院議員選挙で大勝しました。中でも憲政会の議席数が多かったので、総裁である加藤高明が内閣総理大臣になりました。

また、その内閣には農商務大臣に立憲政友会の総裁である高橋是清が就任しました。同時に革新倶楽部の総裁の犬養毅も逓信大臣に就任し、護憲三派の政党の議員が加藤高明内閣で大臣に就任しました。

つまり、護憲三派の政党で政党内閣を形成したのです。だから、護憲三派内閣と呼ばれるようになりました。

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護憲三派の各政党の主張・特徴はどんなだった?

清浦奎吾内閣を打倒するという目的で第二次護憲運動を起こした護憲三派。では、それぞれの政党はどのような政党だったのでしょうか。各政党の成り立ちや当時の状況を見ていきましょう。

高橋是清率いる立憲政友会:普通選挙で内部対立?

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

立憲政友会はもともと1900年に伊藤博文によって結成された政党になります。第四次伊藤博文内閣から与党になり、多くの内閣で政権の中心に立ってきた政党です。

特に立憲政友会が大きくなったのが1918年の原敬内閣でした。原敬は寺内正毅内閣が米騒動を受けて倒閣したのちに内閣総理大臣になります。原敬内閣は軍部大臣と外務大臣以外は立憲政友会出身の大臣で構成した日本初の本格的政党内閣となりました。立憲政友会はこのとき、最盛期を迎えたのです。

しかし、原敬が東京駅で暗殺されたのち、高橋是清が立憲政友会を率いて内閣を結成します。しかし、原敬の影響力が強かったため、高橋是清では立憲政友会内をまとめきれません。そのため内部対立が起き、合わせて普通選挙運動も加わり、高橋是清内閣は総辞職しました。その後、加藤友三郎内閣から山本権兵衛内閣、続いての清浦奎吾内閣で与党である立憲政友会が政権を担当させてもらえなかったため、分裂する動きとなりました。

加藤高明率いる憲政会:立憲政友会の対抗馬?

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憲政会は第四次大隈重信内閣の終わりに立憲同志会と立憲政友会に反発する中正会や公友倶楽部などが合同して、結成された政党です。立憲政友会に対抗する政党として成立しましたが、寺内正毅内閣に反発して野党に回ったため、選挙で大敗しました。

その後、10年は野党で立憲政友会に押されていましたが、普通選挙確立の運動を続ける中で、都市部の市民から人気が高まります。加藤高明は結成当時から総裁を務めていましたが、「苦節十年」、第二次護憲運動後の選挙で躍進し、与党に返り咲くことができたのです。

犬養毅率いる革新倶楽部:第一次護憲運動で活躍した立憲国民党?

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

革新倶楽部は立憲国民党を解党した後に犬養毅や尾崎行雄などが結成した政党になります。立憲国民党だった犬養毅や尾崎行雄は第一次護憲運動で桂太郎内閣打倒を行った中心人物たちです。

その立憲国民党が1920年の衆議院議員選挙で議席数が伸びなかったため、解党して憲政会を脱退した者などを加えて結成したのが革新倶楽部となります。革新倶楽部は結成時から普通選挙を主張していたことから、憲政会に呼応して護憲三派に入っていきました。

【結成~その後1】対立勢力?清浦奎吾内閣と政友本党!

護憲三派が作られたのは清浦奎吾内閣に反対するためでしたね。では、対立した清浦奎吾内閣はどのように誕生したのでしょうか?また、清浦内閣を支持した政党はあったのかを見ていきましょう。

\次のページで「清浦奎吾内閣誕生で第二次護憲運動が始まる!」を解説!/

清浦奎吾内閣誕生で第二次護憲運動が始まる!

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不明 - http://blogs.yahoo.co.jp/rx7fd3s917/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-21-ee%2Frx7fd3s917%2Ffolder%2F1536828%2F47%2F62942847%2Fimg_9%3F1460959142&i=1, パブリック・ドメイン, リンクによる

清浦奎吾は官僚畑から枢密院の議長を務めていた人物です。また、議員としては貴族院に席を置いています。貴族院内で研究会という派閥にも所属していました。

1923年第二次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件の責任をとって総辞職した際に、内閣総理大臣になるよう大命(元老や天皇からの指名)が降りましたが、枢密院議長という職責や高齢であったことから断ります。しかし、裕仁親王(後の昭和天皇)から大命を受けるように勧められたため、内閣総理大臣になりました。

しかし、清浦奎吾は内閣を組織するときに自分の支持基盤の貴族院派閥である研究会の会員から大臣を任命します。この内閣が超然内閣や特権内閣だと批判を受け、護憲三派が形成される運びとなったのです。

清浦奎吾内閣を政友本党が支持?護憲三派との対立!

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犬養内閣編纂所 - 犬養内閣編纂所編『犬養内閣』(犬養内閣編纂所、1932年), パブリック・ドメイン, リンクによる

清浦奎吾内閣が発足したとき、立憲政友会では内部が分裂する動きが出てきました。高橋是清内閣が崩壊して、議会で与党になる立憲政友会に政権を任せてもらえない状態が清浦奎吾内閣で三度目となったことが大きな原因です。

そうしたことから、高橋是清を総裁から下そうとする床次竹二郎(とこなみたけじろう)を中心とする派閥がありました。高橋是清と床次竹二郎の派閥が話し合いを行います。しかし、床次竹二郎の派閥は立憲政友会を脱党し、政友本党を結成したのです。政友本党は清浦奎吾内閣を支持する側につきました。

高橋是清派閥となった立憲政友会は憲政会や革新倶楽部と合同して護憲三派を構成したのです。そして、護憲三派と清浦奎吾内閣+政友本党という第二次護憲運動の構図が作られました。

【結成~その後2】護憲三派が活躍!第二次護憲運動

清浦奎吾内閣が成立し、清浦奎吾内閣に反対する護憲三派が形成されました。そして、第二次護憲運動が始まります。では、政策の違いや政党同士のいがみあいがある中でどのようにして護憲三派が構成されたのでしょう?

普通選挙が目標?第二次護憲運動始まる!

護憲三派が清浦奎吾内閣に反対した大きな理由が、超然内閣であったことです。超然内閣とは議会や国民の意見を取り入れない内閣のことを言います。原敬内閣で政党内閣が誕生したのに、その後は政党に政権を任せてもらえない状況が続いたため、政党内閣を復活させようと護憲三派は結びつきました。

また、選挙に納税資格をなくした普通選挙の実施を求める民衆の声が高まってきました。もともと憲政会と革新倶楽部は普通選挙実施を政策に掲げていたため、民衆からの支持を得ていました。立憲政友会は憲政会などの票を獲れないかと考え、方針を転換。普通選挙運動に加わり、票獲得を目指します。こうして、護憲三派が結びついたのです。

そして、超然内閣への反対と普通選挙実現という目標を「憲政擁護・普選断行」というスローガンにして、第二次護憲運動を展開していきました。

\次のページで「清浦奎吾内閣倒閣!護憲三派が勝利する!」を解説!/

清浦奎吾内閣倒閣!護憲三派が勝利する!

普通選挙実施と清浦奎吾内閣打倒で結びついた護憲三派の政党は「憲政擁護・普選断行・貴族院改革」をスローガンに第二次護憲運動を始めます。

ただ、問題になったのが立憲政友会で分裂した政友本党は当時の衆議院の中では最大数の与党でした。つまり、清浦奎吾内閣を支援する政党が与党になります。次の選挙では政友本党の議席数を上回ることが護憲三派の課題となったのです。

迎えた1924年の総選挙。都市部で人気が高まっていた憲政会は大きく議席数を伸ばし、選挙前の108議席を大きく上回り151議席を獲得しました。清浦奎吾内閣を支持する政友本党は116議席でした。護憲三派で憲政会が躍進して、立憲政友会と革新倶楽部の護憲三派の議席数を合わせると過半数になり、政友本党に圧勝しました。

この結果を受け、清浦奎吾は内閣が機能しなくなるのが見えたため、総辞職を行います。護憲三派が勝利した結果となったのです。

【護憲三派内閣成立まで】第二次護憲運動で政党内閣誕生!

見事第二次護憲運動で選挙に勝利することができた護憲三派。その後、政策目標である普通選挙法制定に向けて動いていきます。護憲三派内閣の成立とその後を見ていきましょう。

目標達成!加藤高明内閣の普通選挙法

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東京朝日新聞 / Tokyo Asahi Shinbun - http://blog.goo.ne.jp/yousan02/c/afb8fb9068b76da765bb58dbae4ad995, パブリック・ドメイン, リンクによる

清浦奎吾内閣が倒閣したため、新しい内閣を立てる必要が出ました。1924年の総選挙で躍進した憲政会が与党になるので、総裁である加藤高明に内閣総理大臣になる大命が降ります。加藤高明は内閣総理大臣に就任し、閣僚に憲政会の議員や犬養毅、高橋是清など護憲三派の議員を登用、護憲三派内閣が成立したのです。

1925年、護憲三派の政策目標である普通選挙法を制定し、選挙権が「満25歳以上の男子」と納税資格が無くなりました。しかし、社会主義運動が広がるのを恐れ、同時に治安維持法を制定して、社会主義運動の抑制を図ったのです。

護憲三派の変革?憲政の常道が成立する!

護憲三派内閣が成立して、護憲三派の政策目標はほぼ達成しました。大きな課題としては政党内閣の継続です。

加藤高明内閣は普通選挙法を制定して半年後に加藤高明が亡くなることで、終わります。その後継として憲政会の若槻礼次郎が内閣総理大臣になりました。また、憲政会は政友本党と合併し、立憲民政党になります。

また、立憲政友会も革新倶楽部と合同するようになり、田中義一を総裁に迎えました。ここから立憲政友会と立憲民政党の二大政党の第一党が内閣を作ります。これが憲政の常道です。護憲三派の活動が政党内閣の時代を作ったことになります。これで護憲三派の目標が達成されたのです。

護憲三派は現在の連立内閣の成功例!

護憲三派は当時の三大政党が共同して、一つの目標を達成しようとした動きでした。その後に成立した加藤高明内閣も三党が合同することで当初の目標である普通選挙を実現させました。

現代社会でも連立政権が組まれています。大きな目標のために政党が連携して大きな政策を実現していくことができるとより良い社会の実現を達成できるかもしれません。護憲三派が起こした第二次護憲運動は現代社会の政治参加に大きなヒントがあると思います。

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「護憲三派」とは?いつ結成された?政策は?結成からその後の護憲三派内閣成立まで現役講師ライターが細かくわかりやすく解説!

護憲三派という政党を知っているか。名前に護憲とつくからには大正時代の護憲運動に関わりがあることはわかるでしょう。
今回は護憲三派の結成とその後に成立した護憲三派内閣について詳しい内容を現役塾講師ライターの明東碧吾と一緒に詳しく見ていきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾講師を務めているライターです。専門科目の社会科の指導には定評があり、いつも楽しく覚えられる授業を展開しています。

護憲三派とは?まずは基本情報を確認

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護憲三派とは三つの政党から構成された派閥であったことから護憲三派と言われます。また、護憲という言葉で大正時代に起きた護憲運動に関連することはわかりますね。

では、結成時期やどういった派閥であるのかを詳しく見ていきましょう。

結成はいつ?なぜ結成された?

護憲三派は1924年に成立した清浦奎吾内閣に反対するために起きた第二次護憲運動を主導した三つの政党になります。1924年に成立した清浦奎吾内閣は超然内閣といって、議会や政党の意見に関わりなく政治を行う内閣でした。

また、この時期に普通選挙を求める声も上がっていました。普通選挙を求める運動が超然内閣に対抗するようになり、「普選断行・憲政擁護・貴族院改革」をスローガンに第二次護憲運動を起こしました。この運動の中心になったのが護憲三派なのです。

キーパーソン・代表は誰?

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Mochizuki, Kotaro – Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 https://archive.org/details/japantodaysouven00mochrich/, パブリック・ドメイン, リンクによる

では、護憲三派を構成した政党は何だったのでしょうか。まず主力になったのが加藤高明を中心とする憲政会でした。憲政会は原敬内閣の国民人気の高さが影響して、議席数などを伸ばせずにいました。しかし、普通選挙実現を主張して、第二次護憲運動前には都市部で強い政党になっていきました。

続いて、普通選挙実現を主張していた犬養毅の革新倶楽部も清浦奎吾内閣に反対します。そして、この二つの政党に呼応したのが、高橋是清率いる立憲政友会でした。これら三つの政党が清浦内閣反対を要求し、手を組んだのが護憲三派です。

護憲三派内閣とは?護憲三派と何が違う?

護憲三派内閣とは第二次護憲運動後に成立した加藤高明内閣のことを指します。護憲三派が1924年の衆議院議員選挙で大勝しました。中でも憲政会の議席数が多かったので、総裁である加藤高明が内閣総理大臣になりました。

また、その内閣には農商務大臣に立憲政友会の総裁である高橋是清が就任しました。同時に革新倶楽部の総裁の犬養毅も逓信大臣に就任し、護憲三派の政党の議員が加藤高明内閣で大臣に就任しました。

つまり、護憲三派の政党で政党内閣を形成したのです。だから、護憲三派内閣と呼ばれるようになりました。

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