ウクライナ進攻により話題になることが増えたプーチン大統領。顔と名前はよく聞くものの、そもそもどんな人物なのか、知らない人も多いでしょう。どうして急に、ウクライナ進攻に邁進しているのか、不思議でならない人も少なくないはずです。

そこで、プーチン大統領がどのような人生を送ってきたのか、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。ウクライナ進攻により時の人となったプーチン大統領。その人物像を、ソ連崩壊なども絡めてまとめてみる。

プーチン大統領は元スパイの大統領

プーチンの正式な名前はウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン。ロシア保安国家委員会のスパイとしての活動経験もありました。ロシア連邦の第2代、今は第4代大統領として君臨しています。

長らくロシア連邦のトップにいるプーチン大統領

プーチンが頭角をあらわしたのはエリツィン辞任後。大統領代行に就任し、そのまま大統領になります。さらに、2004年に再選を果たしました。強大な権力を持っているプーチンですが、憲法により連続2期の大統領就任はNG。

そこで2008年から2012年までは、ドミトリー・メドベージェフの下で再び首相を務めました。そのうえで、2012年の大統領選挙で復帰し、2018年に再選しています。

ロシア経済再生の立役者でもあるプーチン

プーチンが最初に大統領になってから、ロシア経済は8年連続で成長。国内総生産(GDP)は72%アップさせ、ロシア経済の強化に成功させました。それによりロシア人の所得は2.5倍、賃金は3倍以上、失業や貧困のパーセンテージは半分になりました。

同時に、第二次チェチェン戦争や南オセチア紛争に勝利。軍事力アップにも力を入れた大統領です。強硬なところも多く、ウクライナについてはクリミア併合を行い、国際制裁の対象となりました。この流れのなかで、プーチンはウクライナ進攻を継続しています。

貧しいロシアの家庭で育ったプーチン

Vladimir Putin with his mother.jpg
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, Link

両親が41歳のときに三番目の子どもとして生まれたプーチン。しかし兄2人はプーチンが生まれるまえに亡くなっています。そのため実質、一人っ子でした。

プーチンの父親は軍人から機械技師に

父ウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチンは無神論者で、共産党員として熱心に活動する人物。ソビエト連邦の時代には海軍に徴兵され、潜水艦隊で活動していました。

第二次世界大戦のときは、内務人民委員部に所属。破壊工作部隊として活動しました。しかし独ソ戦のときに怪我を負い、その後は機械技師の道へ。レニングラードの鉄道車両工場で生計を立てました。

謎に包まれていた母親と祖父

母の名前はマリア・イワーノヴナ・シェロモーワ。信心深いロシア正教徒でした。プーチンの顔立ちは母親にだったと言われていますが、生みの親は別にいるという話もあり、その存在は謎に包まれています。

また、プーチンの父方の祖父はプロの料理人。レーニンに仕えたのち、スターリンの別荘のひとつで働いていました。祖父については長らく謎に包まれており、存在が語られたのは2018年。ドキュメンタリー映画「プーチン」のなかでした。

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成年時代はスパイとして活躍したプーチン

Putin-Stasi-Ausweis.png
By Ministerium für Staatssicherheit der DDR - https://www.welt.de/geschichte/article185363524/Wladimir-Putins-Stasi-Dienstausweis-Die-Maskirowka.html, Public Domain, Link

プーチンはレニングラード大学で法律を学ぶものの突然の鞍替え。ソ連国家保安委員会(KGB)に就職します。KGB職員になるには、ソビエト連邦共産党への入党が絶対条件。就職のタイミングで共産党員となります。

幼少期からスパイに憧れていたプーチン

プーチン少年は、フランス映画の影響から長らくスパイに憧れを抱いてました。そのため、KGBに入ることを視野にいれて行動しています。14歳のときにKGBを訪問。そのとき、KGBに自ら売り込むと採用が難しくなることを教えられ、接触することなくスパイにるための鍛錬しました。

スポーツマンのイメージが今でも強いプーチンですが、スパイを目指して柔道に打ち込んだのもこのころ。大学ではKGB採用に有利とされる法学部に進みます。そのかいあって、見事KGBからのリクルートを獲得しました。

最初は事務職員からスタート

KGBでは、まずはレニングラード支部事務局で事務仕事に従事しました。それは夢にまで見たスパイ活動とは程遠い、地味な仕事でした。そのあと特別な訓練をおこない、対諜報活動局に配属されます。ここでスパイとしての道が開かれました。

プーチンのスパイ活動のメインとなった場は東ドイツ。NATOに関わる情報収集や諜報活動に従事していました。東西ドイツ統一の際は、ベルリンの壁の崩壊を目の当たりにし、強いショックを受けたと言われています。

プーチンは東ドイツで意外と穏やかな暮らしをしていました。客室乗務員だったリュドミラさんという女性に猛アタック。1983年の31歳で結婚しています。子どもも生まれ、みんなドイツ語を習得。薄暗いバーで内通者候補と面談しながら、地ビールを飲みまくる生活をしていました。このとき、回りにぜい肉がついていたそうですよ。

スパイから政界に進出したプーチン

Vladimir Putin taking the Presidential Oath, 7 May 2000.jpg
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, Link

東西ドイツの統一のあと、東ドイツにとどまることができなくなり、家族を中古車に乗せて命からがら逃げだします。プーチンにとってベルリンの壁の崩壊は屈辱的な出来事でした。

1990年、プーチンはKGBに辞表を提出。レニングラード市ソビエト議長の国際関係担当顧問となります。これがプーチンの政治家の道の第一歩と言えるでしょう。その後も、右腕として政治家のもとを転々とし、陰でその手腕を振るいました。

エリツィンの信頼を得て大統領へ

プーチンがのちに「一番面白い仕事だった」と回想しているのがシア大統領府第一副長官時代。地方の知事との連絡役をつとめました。KGBの後身であるロシア連邦保安庁の長官になったときは、エリツィンに対するクーデターを阻止。エリツィンの信頼を獲得します。

エリツィンの信頼を得たプーチンは第一副首相に抜擢。政治の要職に就くことに成功します。この時点でエリツィンは、プーチンを後継者にすることを明言。すぐにプーチンを首相に格上げしました。第二次チェチェン紛争の制圧で力をふるったことで、強いリーダーとしての印象を確固たるものにしました。

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プーチンは、敵を倒すためには手段をいとわない性格。それをあらわす言葉が「便所にいても捕まえて、テロリストをぶち殺してやる」というもの。プーチンの容赦しない性格をあらわす言葉として、引用されることも多いでしょう。

大統領職に就いたあとは強硬な政策を推進

Putin with Vladimir Konstantinov, Sergey Aksyonov and Alexey Chaly 4.jpeg
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, Link

大統領代行、そして大統領になったあとのプーチンは、自身の利権を守る環境を整えながら、近隣諸国には強硬な行動をとっていきます。「強いロシア」の再建と自分の「保身」が、プーチン大統領の政策のキーワードとなるでしょう。

「強いロシア」のシンボルとなるクリミア併合

2014年にウクライナ領のクリミア半島が突然に独立を宣言。翌日、自らの意思でロシアに併合されました。今でもウクライナはロシアのクリミア半島の実効支配に異議を申し立て、衝突の火種となっています。

クリミアがロシアに併合されるまでの経緯は不可解は今でも謎につつまれたもの。2014年3月16日に独立を問う国民投票を実施、クリミア共和国が樹立されました。しかし独立国としての期間は短く、次の日にロシアに併合されました。不透明なクリミア併合は世界中から批判され、経済制裁の対象となりました。

ロシアがクリミアを併合したとき、世界最大のワインコレクションがあるマッサンドラ・ワイナリーも接収しました。そこでプーチンは、イタリアのシルビオ・ベルルスコーニ元首相を誘ってワイナリーを訪問。そこでなんと、日本円で1000万円を超えるウクライナの国宝のワインを飲んでしまいました。プーチンは告訴されますが、そのままスルーして逃げきる始末。ひどい話です。

大統領経験者を一生安泰としたプーチン

プーチンが大統領になって最初に行ったのが大統領経験者とその一族の生活を保障すること。汚職が告発されていた恩人のエリツィン一族を守ろうとします。エリツィンを守ることで、自らの地位を確固たるものにしようとしました。

その後も保身的な政策は続きます。2020年には、大統領経験者に不逮捕特権を付与。大統領になったことがある人は、永久に訴追されないようにしました。それは自らの身を守ること。自分が退陣したあとも、尋問や捜索の対象にならないように配慮しました。

プーチンによるウクライナ進攻の背景

image by PIXTA / 88404309

2022年にロシアが2月24日にウクライナに攻め込みました。戦争とされていますが、ロシアは「特別軍事作戦」と表現。あくまで国民を守るためにウクライナに侵攻していると説明していますが、国際社会からは激しく非難されています。

\次のページで「ウクライナのNATO接近が許せないプーチン」を解説!/

ウクライナのNATO接近が許せないプーチン

ウクライナはかつてソ連の構成国のひとつ。ロシアの兄弟国という立ち位置でした。しかし、ソ連が崩壊したときに独立。親露政権と親米政権を繰り返しています。ウクライナのゼレンスキー政権は新欧米派。ウクライナのNATO加盟を目指していました。

アンチNATOのプーチンにとって、ウクライナの動向は屈辱。ウクライナを親ロシア政権に変えようとします。親ロシア派が多数を占めているウクライナ東部を守るという名目で侵攻しました。

プーチンの唐突なウクライナ進攻は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)によるものという説もあります。ベルリンの壁崩壊とソ連の崩壊が心の傷となり、ウクライナのNATO加盟の動きで、それがフラッシュバックしているというもの。別人のようになった、理性を失っているなどの証言もあります。

経済制裁により窮地に立たされるプーチン

プーチンのウクライナ進攻を支えているのが軍用の財源。侵攻を止めるためには、財源を枯渇させることが必須です。そこでアメリカやヨーロッパは、ロシアに厳しい経済制裁を実施。ロシア産の製品や農作物の輸入を徐々に止めています。

ロシアは資源大国。原油、天然ガス、石炭などを世界各国にたくさん輸出していました。日本も同様。輸入エネルギーはロシア産が多くを占めています。また、ロシア産の魚介類や小麦も供給が不安定に。あらゆるところで価格の見直しが進められています。

プーチン大統領の評価はまだ未確定

プーチン大統領は、ロシアで強大な力を持つ人物。しかし、国際情勢を無視した強硬な姿勢に難色を示す側近も多いとされています。国際社会からも完全に孤立しているプーチン。ロシア共和国およびプーチン大統領が、これからどのような道を歩むのかリアルタイムで観察していくと、歴史の分岐点に遭遇できるかもしれません。ぜひ、ニュース等を注目してみる機会を作ってみましょう。

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ソビエト連邦ロシア世界史

元スパイのロシア連邦大統領「プーチン」ってどんな人物?半生や行ってきたことを元大学教員が5分でわかりやすく解説

プーチンは、敵を倒すためには手段をいとわない性格。それをあらわす言葉が「便所にいても捕まえて、テロリストをぶち殺してやる」というもの。プーチンの容赦しない性格をあらわす言葉として、引用されることも多いでしょう。

大統領職に就いたあとは強硬な政策を推進

大統領代行、そして大統領になったあとのプーチンは、自身の利権を守る環境を整えながら、近隣諸国には強硬な行動をとっていきます。「強いロシア」の再建と自分の「保身」が、プーチン大統領の政策のキーワードとなるでしょう。

「強いロシア」のシンボルとなるクリミア併合

2014年にウクライナ領のクリミア半島が突然に独立を宣言。翌日、自らの意思でロシアに併合されました。今でもウクライナはロシアのクリミア半島の実効支配に異議を申し立て、衝突の火種となっています。

クリミアがロシアに併合されるまでの経緯は不可解は今でも謎につつまれたもの。2014年3月16日に独立を問う国民投票を実施、クリミア共和国が樹立されました。しかし独立国としての期間は短く、次の日にロシアに併合されました。不透明なクリミア併合は世界中から批判され、経済制裁の対象となりました。

ロシアがクリミアを併合したとき、世界最大のワインコレクションがあるマッサンドラ・ワイナリーも接収しました。そこでプーチンは、イタリアのシルビオ・ベルルスコーニ元首相を誘ってワイナリーを訪問。そこでなんと、日本円で1000万円を超えるウクライナの国宝のワインを飲んでしまいました。プーチンは告訴されますが、そのままスルーして逃げきる始末。ひどい話です。

大統領経験者を一生安泰としたプーチン

プーチンが大統領になって最初に行ったのが大統領経験者とその一族の生活を保障すること。汚職が告発されていた恩人のエリツィン一族を守ろうとします。エリツィンを守ることで、自らの地位を確固たるものにしようとしました。

その後も保身的な政策は続きます。2020年には、大統領経験者に不逮捕特権を付与。大統領になったことがある人は、永久に訴追されないようにしました。それは自らの身を守ること。自分が退陣したあとも、尋問や捜索の対象にならないように配慮しました。

プーチンによるウクライナ進攻の背景

image by PIXTA / 88404309

2022年にロシアが2月24日にウクライナに攻め込みました。戦争とされていますが、ロシアは「特別軍事作戦」と表現。あくまで国民を守るためにウクライナに侵攻していると説明していますが、国際社会からは激しく非難されています。

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