そこで、教科書には出てこない藤原道長の知られざる人生と、その出世の秘訣について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
ライター/ひこすけ
アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は藤原道長について、その人となりや人生について、少し変わった角度からまとめてみた。
藤原道長の野心はどのように生まれたのか?
藤原道長、ほとんどの人が知っている名前でしょう。女性なら紫式部、男性なら藤原道長と言ってもいいくらいの、平安時代を代表する有名人。道長と紫式部の関係は後ほど解説しますが、道長は三代にわたる天皇の外祖父(妻の父)として、摂関政治を完成させ、ゆるぎない権勢を築き上げた人物です。966年に生まれ1027に亡くなりましたが誕生日は不明。当時は誰も道長がそれほど権力を得るとは思っていません。そのため、記録が残っていなかったのです。
こちらの記事もおすすめ
「紫式部」のルーツをたどる旅!元大学教員がわかりやすく解説する現代に残る歴史的スポット8選
期待されていなかった五男の藤原道長
道長は、藤原兼家という権勢家の五男に生れました。当時は一夫多妻の時代。婚外子がゴロゴロいたため、正式に何番目なのかは不明です。母は藤原一門ではあるものの、ほとんど権勢のない一族の出の時姫。兼家の妻は大勢いますが、世間からは時姫が正妻と見なされていました。子どもは5人。長男道隆、次兄道兼、姉超子、次の姉詮子、そこに道長が加わりました。
5人が暮らしていたのは本邸。しかし、その外の京の町のあちこちには、互いに名前さえ知らない兄弟姉妹がたくさんいました。奈良時代までは戸籍が作られていましたが、この時期になると消滅。当時の貴族たちは、たくさんの別宅を持っており、合計何人の妻子がいるかさら把握していませんでした。
当時は夫婦別姓。当時は藤原姓が多かったので、どちらも「藤原」ということもあったが、姓としてはまったくの別物。読み方は長いあいだ音読みされてきましたが、最近の研究では訓読みのルビが振られることが増えてきています。ちなみに、日本で夫婦同姓が導入されたのは明治時代。明治31年に制定された民法にて「妻は婚姻によりて夫の家に入り」「その家の氏を称す」と定義。日本ではじめて夫婦同姓が導入されました。
\次のページで「野心を心に秘めて成長する藤原道長」を解説!/