藤原道長は平安時代に摂関政治を確立させた大物貴族。966年に生まれ1027に亡くなった。平安時代の女流作家のパトロンとして、平安文学ブームを作り出した人物でもある。実際、道長とはどのような人物だったのか、多くのことは語られていない。しかし、彼の出世の道を見ていくと、たくさんの女性が関わっていることに気が付く。

そこで、教科書には出てこない藤原道長の知られざる人生と、その出世の秘訣について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は藤原道長について、その人となりや人生について、少し変わった角度からまとめてみた。

藤原道長の野心はどのように生まれたのか?

image by PIXTA / 45729795

藤原道長、ほとんどの人が知っている名前でしょう。女性なら紫式部、男性なら藤原道長と言ってもいいくらいの、平安時代を代表する有名人。道長と紫式部の関係は後ほど解説しますが、道長は三代にわたる天皇の外祖父(妻の父)として、摂関政治を完成させ、ゆるぎない権勢を築き上げた人物です。966年に生まれ1027に亡くなりましたが誕生日は不明。当時は誰も道長がそれほど権力を得るとは思っていません。そのため、記録が残っていなかったのです。

期待されていなかった五男の藤原道長

道長は、藤原兼家という権勢家の五男に生れました。当時は一夫多妻の時代。婚外子がゴロゴロいたため、正式に何番目なのかは不明です。母は藤原一門ではあるものの、ほとんど権勢のない一族の出の時姫。兼家の妻は大勢いますが、世間からは時姫が正妻と見なされていました。子どもは5人。長男道隆、次兄道兼、姉超子、次の姉詮子、そこに道長が加わりました。

5人が暮らしていたのは本邸。しかし、その外の京の町のあちこちには、互いに名前さえ知らない兄弟姉妹がたくさんいました。奈良時代までは戸籍が作られていましたが、この時期になると消滅。当時の貴族たちは、たくさんの別宅を持っており、合計何人の妻子がいるかさら把握していませんでした。

当時は夫婦別姓。当時は藤原姓が多かったので、どちらも「藤原」ということもあったが、姓としてはまったくの別物。読み方は長いあいだ音読みされてきましたが、最近の研究では訓読みのルビが振られることが増えてきています。ちなみに、日本で夫婦同姓が導入されたのは明治時代。明治31年に制定された民法にて「妻は婚姻によりて夫の家に入り」「その家の氏を称す」と定義。日本ではじめて夫婦同姓が導入されました。

\次のページで「野心を心に秘めて成長する藤原道長」を解説!/

野心を心に秘めて成長する藤原道長

藤原家のなかでは重視されていなかったにも関わらず、道長は子供のころから野心家だったと伝えられています。そのほとんどが、道長が大権力家になってから捏造された逸話という説が濃厚。なぜならその内容は出来過ぎているからです。そのうちのひとつを紹介しましょう。

父親の兼家は不遇だったころ、いとこの息子である公任の秀才ぶりをうらやみ、「家の息子たちは公任の影さえ踏めそうもない」と愚痴をこぼしました。そんな父親の言葉を兄たちは大人しく聞いていましたが、道長は「影なんか踏まない。私はあいつの顔を踏んづけてやる」と言い返したと伝えられています。

藤原道長に関する伝説は賛否両論

image by PIXTA / 32340664

藤原道長については、数々の武勇伝が伝えられ、詩文作成の才能についても賞賛されています。一方、藤原実資の遺した日記では、「和歌は下手」「漢字もろくに知らない」「怨霊を怖がっている」「うそつき」と、その評価は散々。このように道長に関する言い伝えは多様なものとなっています。

青年時代の藤原道長の伝説

ある雨の日の話です。天皇が3人の肝試しをすることを思い立ち、妖怪が出ると噂されている大極殿へ行くように命じました。二人の兄は途中で怖くなって退散。しかし道長は大極殿の柱を削り、その木屑を手に「ただいま大極殿から戻りました」と天皇に報告。そんな道長の勇敢な姿を見て、天皇は感心したと伝えられています。

道長の文才も褒め称えられる傾向がありますが、道長の『御堂関白日記』は誤字脱字だらけ。有名な道長の歌である「この世をば我が世とぞおもふ望月の欠けたることもなしと思へば」は、当時としては貴族たちが冷や汗をかくほど幼稚な内容でした。そのため妻の倫子は、恥ずかしさのあまりその場を逃げ出したと伝えられています。

当時の和歌の世界では、自慢話や物事をズバッと詠った和歌は嫌がられる傾向がありました。そのため道長の自分の権力を賛美する「この世をば」の歌は、当時の平安貴族にとっては聞くに堪えない出来栄えでした。藤原実資(さねすけ)は日記『小右記』のなかで「聞いているだけでいたたまれなかった」と記しています。一部の人が道長を誉めそやし、紀貫之に勝るなど讃えたのは、道長に対する忖度だったのでしょう。

文学コンプレックスがあった藤原道長

image by PIXTA / 80351526

実は道長には文学コンプレックスがあったと言われています。兄道隆の妻の高階貴子は名高い才女で、子どもの定子と伊周は和歌や漢詩の才能にあふれた人物。兄も文学が大好きで、毎日のように娘の部屋で文学談義をしていました。

一条天皇の最初かつ最愛の后である定子の学識のレベルは相当なもの。一条時代の文化は定子が作ったと言われるほどです。その定子に仕えたのが清少納言でした。定子のサロンは大人気でしたが、道長は彼女を追い出して自分の娘の彰子を筆頭后にしました。

\次のページで「藤原道長の出世の道を開いた女たち」を解説!/

藤原道長の出世の道を開いた女たち

image by PIXTA / 47044237

藤原北家による独裁政治を完成させた道長は、どれだけの政治能力があったのでしょうか。そもそも平安時代は「政治とは単なる儀式」。最高権力者は天皇の母方祖父。外祖父が摂政関白の座を独占するのが慣例でした。藤原一族でも、道長の血筋である北家以外の貴族は出世の望みなし。このような摂関政治に強く働いたのが女性の力です。

名門の源(みなもと)家の婿となった道長

平安時代の男性の出世の道は玉の輿のみ。妻の実家に衣食住の世話をしてもらい、妻の父親の後ろ盾で出世する、これが平安時代の男の生き抜き方だったからです。藤原道長も同様、左大臣源雅信の娘で二つ年上の倫子の婿となったことで、出世の足掛かりを得ていきます。

源家と言えば、天皇家から出ている藤原家よりもはるか格上の名門。雅信は「道長は五男で大した取り柄もなさそうだ」と反対しましたが、妻が「なんとなく非凡なものを感じる」と伝え、雅信はしぶしぶ道長を婿にしたと言われています。これにより道長はあこがれの「源氏」との結びつきを得ることに成功しました。

ちなみに道長の兄の道隆は、学者というだけで政治力がまったくない高階家の貴子と大恋愛。周囲の反対を押し切って結婚しています。出世という点だけを見ると、道長の結婚のほうが大成功。母系社会の名残があるこの時代、道長は、倫子の母親に気に入られた時点で出世が約束されていたのでしょう。

姉の詮子に「大ひいき」された道長

道長の姉の詮子は、円融天皇の女御(后)となり権力をふるっていました。そんな詮子が兄弟のなかでも道長を特別にひいき。自分が育ての親となっていた源明子を道長の妻に差し出しました。道長はたくさんの妻がいるなか、源氏の姫を正妻と二人目の妻に迎えることに成功しました。

それに対して長兄の道隆は酒と漢詩と和歌に明け暮れる毎日。定子サロンを一大文化サロンに成長させましたが、伝染病で亡くなりました。次の兄の道兼は兄の死を大喜び。次兄は運よく転がってきた関白の座に就きましたが、やはり伝染病で急死しました。

詮子は高階一族が大嫌い。彼女にも文学コンプレックスがあったのかも知れません。才女である定子に対する敵対心は相当なもので、高階一族に政権を渡したくないあまり詮子はウルトラ技を使いました。詮子は息子である一条天皇の寝室に乗り込み、道長を関白にするように訴え、それに根負けした一条天皇は道長に関白に内定させました。

藤原道長の権力の総仕上げは娘の力

image by PIXTA / 28667751

それからの道長は身内の排除に邁進。伊周、隆家、定子の兄妹潰しを徹底的に行います。兄の伊周と弟の隆家は道長と大ゲンカ。しかし権力を手にした道長の前ではふたりにはなんの力もありません。最終的にふたりは都を追放され、定子は悲しみのあまり出家しました。普通ならここで最終幕となりますが、一条天皇がことを複雑にしていきます。

一条天皇に愛された定子の悲劇

父親が追放されたことで出家した定子を、一条天皇はなんと再び宮中に妃として呼び寄せます。その理由は単純で、定子への愛を断ち切れなかったから。一度は出家した身でありながら定子はなんと一条天皇の子供を出産。それにより「出家した身でなんということか」と貴族たちの総攻撃に合います。道長の陰湿な嫌がらせも追い打ちをかけ、力尽きた定子は3人の子を遺して亡くなりました。

一方、娘彰子もまた一条天皇の后となり、9年後に男児出産。道長は定子の遺児かつ一条天皇の長男である敦康を無視し、孫を皇太子にしました。それにより道長は外祖父として君臨。彰子が男の子を生まなければ、慣例として定子の遺児が皇太子になっていたでしょう。

\次のページで「仏にすがった藤原道長の最期」を解説!/

仏にすがった藤原道長の最期

1027年12月4日、道長は62歳で一生を終えます。晩年は病気で苦しみ、自分が陥れた人たちの怨霊に怯える毎日でした。その恐怖から逃れるためか、道長は出家。しかし、その祈りは届かず次々と息子と娘が亡くなっていきました。そのショックにより道長はさらに弱っていったようです。

なかでも道長が怯えていたのが定子の怨霊。彼女に対する壮絶な苛めを自覚していたのでしょうか。先が長くないと悟った親族たちは、道長を阿弥陀堂のなかに運び込みます。そこで道長は阿弥陀如来に導いてもらうために五色の糸を握りしめ、念仏を唱えながらこの世を去りました。

道長の苛めのせいでボロボロになってしまった定子。彼女に仕えていたのが『枕草子』の作者である清少納言です。清少納言は、『枕草子』のなかで定子のすばらしさを書き記しますが、一言も道長の悪口を書きませんでした。おそらく、枕草子を後世に残して定子の存在を伝えるための知恵だったのでしょう。

女性により支えられた藤原の道長の栄華

藤原道長は摂関政治を確立させたことから、とびぬけた政治力があると思いがちですが、実は女運がよかったことで出世を成しえたとも言えます。「そんなことで?」と思うかもしれませんが、平安時代は母系社会の名残がある時代。男性はいかに権力のある家の女性とつながるかに、出世の道がかかっていました。最期は自分が追いだした定子の亡霊に覚える日々。そういう意味で女性に翻弄され続けた男性ともいえるでしょう。

" /> 女性に支えられた摂関政治の確立者「藤原道長」の知られざる激動の人生を元大学教員が5分でわかりやすく解説 – Study-Z
平安時代日本史

女性に支えられた摂関政治の確立者「藤原道長」の知られざる激動の人生を元大学教員が5分でわかりやすく解説

藤原道長は平安時代に摂関政治を確立させた大物貴族。966年に生まれ1027に亡くなった。平安時代の女流作家のパトロンとして、平安文学ブームを作り出した人物でもある。実際、道長とはどのような人物だったのか、多くのことは語られていない。しかし、彼の出世の道を見ていくと、たくさんの女性が関わっていることに気が付く。

そこで、教科書には出てこない藤原道長の知られざる人生と、その出世の秘訣について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は藤原道長について、その人となりや人生について、少し変わった角度からまとめてみた。

藤原道長の野心はどのように生まれたのか?

image by PIXTA / 45729795

藤原道長、ほとんどの人が知っている名前でしょう。女性なら紫式部、男性なら藤原道長と言ってもいいくらいの、平安時代を代表する有名人。道長と紫式部の関係は後ほど解説しますが、道長は三代にわたる天皇の外祖父(妻の父)として、摂関政治を完成させ、ゆるぎない権勢を築き上げた人物です。966年に生まれ1027に亡くなりましたが誕生日は不明。当時は誰も道長がそれほど権力を得るとは思っていません。そのため、記録が残っていなかったのです。

期待されていなかった五男の藤原道長

道長は、藤原兼家という権勢家の五男に生れました。当時は一夫多妻の時代。婚外子がゴロゴロいたため、正式に何番目なのかは不明です。母は藤原一門ではあるものの、ほとんど権勢のない一族の出の時姫。兼家の妻は大勢いますが、世間からは時姫が正妻と見なされていました。子どもは5人。長男道隆、次兄道兼、姉超子、次の姉詮子、そこに道長が加わりました。

5人が暮らしていたのは本邸。しかし、その外の京の町のあちこちには、互いに名前さえ知らない兄弟姉妹がたくさんいました。奈良時代までは戸籍が作られていましたが、この時期になると消滅。当時の貴族たちは、たくさんの別宅を持っており、合計何人の妻子がいるかさら把握していませんでした。

当時は夫婦別姓。当時は藤原姓が多かったので、どちらも「藤原」ということもあったが、姓としてはまったくの別物。読み方は長いあいだ音読みされてきましたが、最近の研究では訓読みのルビが振られることが増えてきています。ちなみに、日本で夫婦同姓が導入されたのは明治時代。明治31年に制定された民法にて「妻は婚姻によりて夫の家に入り」「その家の氏を称す」と定義。日本ではじめて夫婦同姓が導入されました。

\次のページで「野心を心に秘めて成長する藤原道長」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: