きっかけその3:吉田内閣の崩壊
朝鮮戦争により、再軍備を強いられた吉田茂内閣は警察予備隊を組織します。しかし、日本国憲法第9条の戦力不保持との矛盾が生じてしまいました。吉田茂内閣は治安維持のための組織ということで、政策転換に従います。
再軍備を受け入れた日本はアメリカと日米安全保障条約を締結したのです。アメリカの日本を安全保障に組み込みたいという狙いで、警察予備隊は保安隊へと改組されました。その後、海上警備や航空部隊を新設して、現在の自衛隊が誕生したのです。
このアメリカとの外交や自衛隊と憲法の問題で、政界復帰した鳩山一郎が自由党内で吉田茂と対立します。鳩山一郎は自由党から分離して、日本民主党を結成しました。衆議院で多数派となった日本民主党は内閣不信任案を提出し、吉田茂内閣は総辞職しました。
再編成から55年体制の成立まで
55年体制は自由民主党が与党になることではじまります。しかし、日本民主党の鳩山一郎らが内閣不信任案を提出し、自由党の吉田茂内閣が総辞職をしました。まだ、55年体制の鍵となる自由民主党が出てきていませんね。
では、自由民主党はどのように作られ、55年体制が成立してくのか、その一連の流れを見ていきましょう。
統一?分離?結合?日本の政党の再編成で55年体制成立へ
1948年に吉田茂が第二次内閣を組閣後、1954年までの6年間日本をまとめてきた吉田茂内閣が倒れました。鳩山一郎が新党を結成し、衆議院で多数派となりました。その後、鳩山一郎が内閣総理大臣になりました。
しかし、55年体制は1955年に成立したため55年体制となります。まだ、1年早い!では、この後の動きを見ていきましょう。
保守合同って何だ?自由民主党結成で55年体制が成立!
吉田茂内閣が総辞職し、新たに日本民主党の鳩山一郎が内閣総理大臣になります。ここで問題になったのが、アメリカとの在り方、自衛隊と憲法についてです。鳩山一郎はアメリカ中心でない自主外交や再軍備を推進し、憲法改正を唱えていました。また、鳩山一郎の再軍備や憲法改正に反対という意見もありました。
日本社会党が「安保反対、再軍備反対、憲法改正反対」で左派、右派に分かれていた党が統一されます。日本民主党は自由党と合流して、「安保維持、再軍備容認」で憲法改正を党の目標にしました。つまり、現状維持を目指す保守派となります。日本民主党が自由党に合流して現在までに至る自由民主党が成立し、ここから自由民主党(通称:自民党)が与党になる体制が完成しました。
こうして、政権交代がない安定した時期である55年体制が成立したのです。
日本の安定期?55年体制の進展!
吉田茂内閣が倒閣後、鳩山一郎内閣が成立し、自由民主党が成立したことで55年体制が成立しました。55年体制は政治の安定期と言われていますが、なぜ安定と言えるのでしょうか。
まず、日本の政党政治では各議院で過半数の議席を取れれば、与党になることは知っていますね。55年体制では自由民主党が与党になっています。これは55年体制が成立した際に自由民主党が議席の3分の2弱を占め、日本社会党や日本社会党に賛同する政党が3分の1強を占めるという形になっているためです。
つまり、55年体制で政党の議席数が大幅に変化することがなかったため、政権交代がなく、憲法改正の議論が進まないという状況になりました。変動がないから安定しているという状況であるということです。では、55年体制となった日本はどのような政治を進めていたのでしょうか。
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