戦後日本の政治で長年続いたという55年体制。今の自由民主党が与党として政治を行っているもとにもなった体制のことだというのは聞いたことがあるでしょう。

今回は55年体制の成立と体制下での政治概要、そして体制の崩壊について深掘りした内容を現役塾講師ライターの明東碧吾と一緒に詳しく見ていきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾の文系講師を務め、社会科の指導は生徒から好評を受けている。豊富な社会科の知識を中心に楽しく、面白い授業を展開している。

「55年体制」とは?まずはざっくり確認

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55年体制は日本の政治史の中で聞いたことがある人も多いかと思います。ただ、ベルサイユ体制ワシントン体制など、似たような言葉が多く混同してしまいがちです。

まず、55年体制とは1955年に自由民主党が与党となったことからはじまった体制になります。そこから約40年間、55年体制は続きました。

では、実際にどのようにして55年体制が築かれたのでしょうか。そして、55年体制が崩壊したのはなぜなのでしょうか。詳しく、見ていきましょう。

「55年体制」を作ったきっかけは吉田茂内閣の崩壊?

55年体制の成立にはその前の内閣を形成していた吉田茂内閣が深く関わってきます。吉田茂内閣は戦後日本で日本国憲法を公布するという大業績に始まり、第二次内閣から第五次内閣まで6年間、日本を引っ張った長期政権でした。

しかし、国際情勢はアメリカとソ連の冷戦が激化して、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。そうした国際情勢の変化がアメリカの占領政策を転換させます。その影響を受けた吉田茂内閣も政策転換を余儀なくされました。これらがきっかけとなって、吉田茂内閣が崩壊したのです。では、どのような形で崩壊していったのか、その一連の流れを見ていきましょう。

きっかけその1:日本国憲法の制定

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http://www.chosakai.gr.jp/kenpou_sengo70/index.html http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/45.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

1945年8月15日にポツダム宣言を受諾した日本は終戦を迎えます。そして、アメリカを中心とするGHQ(連合国軍総司令官総司令部)が日本を占領し、占領政策を行っていきました。

GHQが目指す占領政策は大きく2点!日本の「民主化」「非軍事化」でした。日本国憲法に平和主義の条項や記述を入れたのも「非軍事化」を目指すための動きとなります。第一次吉田内閣では幣原喜重郎内閣で作られた草案をもとに審議を行い、新憲法として公布されました。

きっかけその2:朝鮮戦争はじまる

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Capt. F. L. Scheiber. (Army) - U.S. Army, パブリック・ドメイン, リンクによる

1950年朝鮮半島内で別れていた二つの国が戦争に発展します。朝鮮戦争の勃発です。ソ連の支援と同調を受けた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は大韓民国へ進行します。当然、大韓民国もアメリカの支援を受けて対抗しました。

しかし、地理的にソ連は北朝鮮と陸続きで近いため、支援もしやすい状況でした。逆にアメリカは太平洋をまたがなければならず、支援も難しい状況。そこで日本の地理的優位性が着目されるのです。日本から支援をすれば早い!ということで、占領政策を転換して、再軍備を進めさせます。こうして、警察予備隊が結成されたのです。

アメリカは日本に経済復興を急がせ、再軍備をさせていきます。アメリカにとって役立つ存在になる日本になるように占領政策を転換させたのです。

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きっかけその3:吉田内閣の崩壊

朝鮮戦争により、再軍備を強いられた吉田茂内閣は警察予備隊を組織します。しかし、日本国憲法第9条の戦力不保持との矛盾が生じてしまいました。吉田茂内閣は治安維持のための組織ということで、政策転換に従います。

再軍備を受け入れた日本はアメリカと日米安全保障条約を締結したのです。アメリカの日本を安全保障に組み込みたいという狙いで、警察予備隊は保安隊へと改組されました。その後、海上警備や航空部隊を新設して、現在の自衛隊が誕生したのです。

このアメリカとの外交や自衛隊と憲法の問題で、政界復帰した鳩山一郎が自由党内で吉田茂と対立します。鳩山一郎は自由党から分離して、日本民主党を結成しました。衆議院で多数派となった日本民主党は内閣不信任案を提出し、吉田茂内閣は総辞職しました。

再編成から55年体制の成立まで

55年体制は自由民主党が与党になることではじまります。しかし、日本民主党の鳩山一郎らが内閣不信任案を提出し、自由党の吉田茂内閣が総辞職をしました。まだ、55年体制の鍵となる自由民主党が出てきていませんね。

では、自由民主党はどのように作られ、55年体制が成立してくのか、その一連の流れを見ていきましょう。

統一?分離?結合?日本の政党の再編成で55年体制成立へ

1948年に吉田茂が第二次内閣を組閣後、1954年までの6年間日本をまとめてきた吉田茂内閣が倒れました。鳩山一郎が新党を結成し、衆議院で多数派となりました。その後、鳩山一郎が内閣総理大臣になりました。

しかし、55年体制は1955年に成立したため55年体制となります。まだ、1年早い!では、この後の動きを見ていきましょう。

保守合同って何だ?自由民主党結成で55年体制が成立!

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不明 - 1. [1], 2. Yahoo [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

吉田茂内閣が総辞職し、新たに日本民主党の鳩山一郎が内閣総理大臣になります。ここで問題になったのが、アメリカとの在り方、自衛隊と憲法についてです。鳩山一郎はアメリカ中心でない自主外交や再軍備を推進し、憲法改正を唱えていました。また、鳩山一郎の再軍備や憲法改正に反対という意見もありました。

日本社会党が「安保反対、再軍備反対、憲法改正反対」で左派、右派に分かれていた党が統一されます。日本民主党は自由党と合流して、「安保維持、再軍備容認」で憲法改正を党の目標にしました。つまり、現状維持を目指す保守派となります。日本民主党が自由党に合流して現在までに至る自由民主党が成立し、ここから自由民主党(通称:自民党)が与党になる体制が完成しました。

こうして、政権交代がない安定した時期である55年体制が成立したのです。

日本の安定期?55年体制の進展!

吉田茂内閣が倒閣後、鳩山一郎内閣が成立し、自由民主党が成立したことで55年体制が成立しました。55年体制は政治の安定期と言われていますが、なぜ安定と言えるのでしょうか。

まず、日本の政党政治では各議院で過半数の議席を取れれば、与党になることは知っていますね。55年体制では自由民主党が与党になっています。これは55年体制が成立した際に自由民主党が議席の3分の2弱を占め、日本社会党や日本社会党に賛同する政党が3分の1強を占めるという形になっているためです。

つまり、55年体制で政党の議席数が大幅に変化することがなかったため、政権交代がなく、憲法改正の議論が進まないという状況になりました。変動がないから安定しているという状況であるということです。では、55年体制となった日本はどのような政治を進めていたのでしょうか。

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安定期?その1:岸信介内閣と池田勇人内閣の動き!

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産業経済新聞社(Sankei Shinbun Co., Ltd.) - 『サンケイグラフ』1954年11月7日号、産業経済新聞社 ”The Sankei Graphic”, Sankei Shinbun Co., Ltd. 1954., パブリック・ドメイン, リンクによる

55年体制を成立させた鳩山一郎内閣ですが、1956年の日ソ共同宣言に調印し、公約を達成したこともあり、引退する形で総辞職しました。この後に石橋湛山が首相になりますが、病気で辞任したため、岸信介が代理を務め、次代の内閣総理大臣になります。

岸信介は日米安全保障条約は従属的だとして、新たに日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印しました。しかし、共同防衛を義務付けた今回の条約は日本がアメリカの戦争に巻き込まれるということで、反対の声が広がります。この動きが発展し、安保闘争になるのです。岸信介は安保闘争の責任をとって退陣しました。

次に内閣総理大臣になったのが、池田勇人です。安保闘争で国民の不満が高まった状況であったのを経済面で解消しようと「所得倍増計画」を打ち出し、経済政策を重視します。10年で給料を倍にするというスローガンでしたが、早いペースでの経済成長が起き、早々に所得倍増が実現されました。

安定期?その2:平和を確立した佐藤栄作内閣!

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Bob Moore - このメディアはアメリカ国立公文書記録管理局National Archives and Records Administrationが提供元で、台帳番号 National Archives Identifier (NAID) 194752です。, パブリック・ドメイン, リンクによる

4年にわたる長期政権を樹立した池田勇人内閣ですが、池田勇人自身が病気となり、任期途中で退陣します。その池田勇人の後継者として、内閣総理大臣になったのが佐藤栄作です。佐藤栄作内閣は池田内閣で先送りとなっていた外交問題に着手します。

佐藤栄作内閣は1965年に韓国と日韓基本条約を韓国の朴正煕大統領との間で結びました。これで韓国と国交が正常化します。続いて、当時占領下の沖縄で祖国復帰運動が起きました。この運動をきっかけに沖縄を日本に返還する動きが出てきます。沖縄返還に先んじてまずは小笠原諸島が返還されました。

小笠原諸島返還をするとき、核兵器はどうするのかという質問に佐藤栄作は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず、というルールを適用する」と言いました。いわゆる、「非核三原則」を打ち出したのです。

非核三原則を適応させ、日本本土と同じ施政権を適用する「核抜き、本土並み」の合意のもと沖縄返還協定に調印し、1972年に沖縄が返還されました。佐藤栄作も沖縄返還直後に自由民主党の総裁の任期切れで総辞職します。

混迷期?内閣総理大臣が次々と変わっていく!

佐藤栄作に続いて田中角栄が内閣総理大臣になります。しかし、アメリカ大統領ニクソンが中国訪問やドルと金の兌換の一時停止を行いました。これがニクソンショックです。アメリカの中国訪問をきっかけに日本も中国と国交を回復する日中共同声明を発表しました。

しかし、ニクソンショックでの円高・ドル安が進行してしまい、アメリカへの輸出が不振となりました。これに加えて、オイルショックも起きて、経済成長率がマイナスとなってしまいます。このことで高度経済成長が終わります

この経済状況の打開のため、田中角栄内閣は各地で公共事業を起こしますが、金権体質と批判され、総辞職をしました。次に内閣総理大臣になったのは三木武夫です。しかし、ここで有名なロッキード事件が発覚します。この事件で与野党から攻撃を受け、三木武夫は内閣総理大臣を辞任しました。

続いて、福田赳夫が内閣総理大臣になりますが、自由民主党内の派閥で多数派を獲得できず、総裁選挙で大平正芳に負け、交代となります。続いてその自由民主党総裁になった大平正芳が内閣総理大臣になりますが、急逝してしまい鈴木善幸が内閣総理大臣になりました。しかし、鈴木善幸も総裁選目前で辞任を発表し、総辞職します。

\次のページで「バブル経済が生み出す55年体制崩壊の兆し!」を解説!/

バブル経済が生み出す55年体制崩壊の兆し!

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首相が次々と変わる中で、続いて内閣総理大臣になったのが中曽根康弘でした。このとき日本は自動車や半導体などの産業が伸びて、貿易が黒字になりました。しかし、日本からの輸出を受けるアメリカは貿易赤字となります。加えて、国内の赤字もあるため、「双子の赤字」となりました。

そこで、アメリカは日本を大幅な円高の為替相場に誘導するために会議を開きます。ここでの決定に日本も合意しました。これが「プラザ合意」です。合意の2年後には日本製品が2倍に値上がりをして、円高不況になりました。日本は低金利政策で解決を図ります。

しかし、お金を借りやすくなったことで土地や株式などを買い、高くなったときに売るという投機が始まり、地価や株価は急上昇しました。しかし、いつまでも売れるわけではないので、借金を背負う人や会社が増えて、会社が倒産。返済されない借金で金融機関も倒産するという状況になってしまいました。これがバブル経済です。

55年体制崩壊!その原因は?

バブル経済で地価や株価が上昇している間は景気がいい状況でした。しかし、バブル経済が崩壊してしまうと一気に大不況となります。これが「失われた20年」です。崩壊後20年は不況が続き、経済が混乱した状況になります。

55年体制成立後はいい形で政治が行われてきましたが、経済が混乱することで政治も迷走していくのです。ここから55年体制崩壊へとつながっていきます。

原因その1:汚職事件勃発!政治とカネの問題が明るみになる!

1976年にロッキード事件が起きて、政治とカネの問題が一度明るみに出てきました。このときは三木武夫が辞任することで一度落ち着きました。

1988年にリクルート事件が発覚します。リクルートの関連会社の未公開株が譲渡され、政府高官や政治家が関わる大規模な汚職事件になりました。また、同じ時期に東京佐川急便事件も起きたのです。加えて、1993年にはゼネコン汚職事件が発覚し、政治とカネの問題が再び明るみになりました。

こうした汚職とバブル崩壊の混乱を受けて、宮澤喜一内閣は内閣不信任案を受けて、衆議院を解散します。解散総選挙で、非自民8政党が共同することで自由民主党勢力を上回りました。結果、自由民主党は結党以来初めて政権を奪われました。こうして、55年体制は崩壊したのです。

原因その2:新党ブームきたる!

自由民主党の中では汚職事件を受けて、離党する人が出てきました。これらの人は自分たちで新しい政党を立ち上げ始めるのです。例えば、自由民主党の1年生議員であった鳩山由紀夫などが立ち上げた新党さきがけなどがあります。

また、細川護煕が中心となって日本新党を結成しました。これは自由民主党から分離した政党ではなく、新たに政党を作った例になります。こうしてさまざまな政党が乱立する新党ブームがきたのです。

1993年の衆議院議員選挙で日本新党は多くの議員を当選することになりました。そうしたことから非自民政党の代表として細川護煕が内閣総理大臣となり、55年体制を崩壊させたのです。

55年体制の課題!今こそ立ち上がるとき!

1955年から日本を38年間牽引した自由民主党の55年体制は現代日本の礎になっています。同時にこの時期に発生した課題や解決に至らなかった課題が現代の日本の課題にもなっているのです。55年体制を知ることで現代にも通ずる課題を知り、未来に向けて解決の糸口を見つけられるようにすることが現代を生き抜く私たちの重大な使命なのでしょう。

また、現代の問題を未来に持ち越さないよう、解決のための努力を進めていくことが現代社会に求められているのです。

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公民昭和現代社会

55年体制って何だ?日本の二大政党制が成立?政治の安定期を迎えた?現役講師ライターが成立から崩壊までを詳しくわかりやすく解説!

戦後日本の政治で長年続いたという55年体制。今の自由民主党が与党として政治を行っているもとにもなった体制のことだというのは聞いたことがあるでしょう。

今回は55年体制の成立と体制下での政治概要、そして体制の崩壊について深掘りした内容を現役塾講師ライターの明東碧吾と一緒に詳しく見ていきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾の文系講師を務め、社会科の指導は生徒から好評を受けている。豊富な社会科の知識を中心に楽しく、面白い授業を展開している。

「55年体制」とは?まずはざっくり確認

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55年体制は日本の政治史の中で聞いたことがある人も多いかと思います。ただ、ベルサイユ体制ワシントン体制など、似たような言葉が多く混同してしまいがちです。

まず、55年体制とは1955年に自由民主党が与党となったことからはじまった体制になります。そこから約40年間、55年体制は続きました。

では、実際にどのようにして55年体制が築かれたのでしょうか。そして、55年体制が崩壊したのはなぜなのでしょうか。詳しく、見ていきましょう。

「55年体制」を作ったきっかけは吉田茂内閣の崩壊?

55年体制の成立にはその前の内閣を形成していた吉田茂内閣が深く関わってきます。吉田茂内閣は戦後日本で日本国憲法を公布するという大業績に始まり、第二次内閣から第五次内閣まで6年間、日本を引っ張った長期政権でした。

しかし、国際情勢はアメリカとソ連の冷戦が激化して、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。そうした国際情勢の変化がアメリカの占領政策を転換させます。その影響を受けた吉田茂内閣も政策転換を余儀なくされました。これらがきっかけとなって、吉田茂内閣が崩壊したのです。では、どのような形で崩壊していったのか、その一連の流れを見ていきましょう。

きっかけその1:日本国憲法の制定

1945年8月15日にポツダム宣言を受諾した日本は終戦を迎えます。そして、アメリカを中心とするGHQ(連合国軍総司令官総司令部)が日本を占領し、占領政策を行っていきました。

GHQが目指す占領政策は大きく2点!日本の「民主化」「非軍事化」でした。日本国憲法に平和主義の条項や記述を入れたのも「非軍事化」を目指すための動きとなります。第一次吉田内閣では幣原喜重郎内閣で作られた草案をもとに審議を行い、新憲法として公布されました。

きっかけその2:朝鮮戦争はじまる

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Capt. F. L. Scheiber. (Army) – U.S. Army, パブリック・ドメイン, リンクによる

1950年朝鮮半島内で別れていた二つの国が戦争に発展します。朝鮮戦争の勃発です。ソ連の支援と同調を受けた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は大韓民国へ進行します。当然、大韓民国もアメリカの支援を受けて対抗しました。

しかし、地理的にソ連は北朝鮮と陸続きで近いため、支援もしやすい状況でした。逆にアメリカは太平洋をまたがなければならず、支援も難しい状況。そこで日本の地理的優位性が着目されるのです。日本から支援をすれば早い!ということで、占領政策を転換して、再軍備を進めさせます。こうして、警察予備隊が結成されたのです。

アメリカは日本に経済復興を急がせ、再軍備をさせていきます。アメリカにとって役立つ存在になる日本になるように占領政策を転換させたのです。

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