この記事では、日本の医学史に名をのこす「秦佐八郎」という人物について学習していこう。

秦佐八郎は感染症の研究に尽力し、ある病気の治療薬を生み出した人物です。秦の研究成果によって命が救われた人も少なくない。彼の生きた時代や、かかわった人々についても触れながら、その功績について知っていこうじゃないか。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

秦佐八郎とはどんな人物?何をした人?

秦佐八郎(はた さはちろう)は明治時代に活躍した日本人の細菌学者です。

後ほど詳しくご紹介しますが、秦はサルバルサンという成分を発見しました。サルバルサンは梅毒などの感染症に対する特効薬として珍重されたのです。

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不明 - 大日本頌徳会編纂部『遺徳顕彰録 第二輯』、大日本頌徳会、1940年, パブリック・ドメイン, リンクによる

秦佐八郎の生涯

誕生から幼少期

秦佐八郎は1873年(明治6年)3月に島根県の都茂村(つもむら)で誕生しました。父親は山根道恭、母親はヒデという人物です。

現在に伝わる秦佐八郎の「秦」という苗字は、彼が養子に出されたことによります。

佐八郎の生まれた山根家は代々の庄屋の家系でした。しかし、当時の山根家には子どもが多く、すべての子どもに教育をまんべんなく施すのが難しかったのだといいます。そのため、1887年、佐八郎が14歳の時に秦家へ養子に出されました。

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兄弟の中でも佐八郎はとくに優秀で、明晰な頭脳をもった子どもでした。

養子に出された秦家は、代々漢方医を生業をしている家系です。養父となった秦徳太の計らいにより、佐八郎は勉学に励むことができました。

岡山で医学の道へ

医学に携わる養父の影響もあったのでしょう。1891年、秦は岡山第三高等学校の医学部に入学しました。これは現在の岡山大学医学部に該当します。

ここでの秦の成績は市場に優秀で、先生方にも一目置かれた存在だったそうですよ。

1895年、22歳で同校を卒業。一年ほど兵役に就いたのちに、岡山県立病院で助手として働くことになりました。

病院で勤務する中で、秦は荒木寅三郎をはじめとする医師たちから多く学びます。とくに荒木の存在は、秦のその後の医師・研究者としての人生に大きな影響を与えました。

東京の伝染病研究所へ

秦はより一層医学の勉強をしたいと考え、東京へ行くことを検討していました。

荒木寅三郎は、彼を伝染病研究所北里柴三郎に紹介・推薦します。

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日本の医療に大きな影響を与えた研究所ですからね。

東京の伝染病研究所は1892年に設立されました。ドイツに留学し、感染症研究で大きな功績をのこした北里柴三郎によって率いられていた研究所で、現在は「東京大学医学研究所」となっています。

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CC 表示-継承 3.0, リンク

そうですね。岡山県立病院の荒木から推薦をもらったことも、大きな要因だったでしょう。1899年、伝染病研究所に赴任した秦は、細菌による感染症の研究をはじめることになります。

ちょうどそのころ、日本では恐ろしい感染症の一つであるペストが確認されたため、秦はその防疫にもあたりました。

また、1904年に勃発した日露戦争でも軍医として働いたり、戦争後は検疫に携わるなど、忙しく働いていたようです。

ドイツへ留学

1907年。それまでの働きが認められ、秦はドイツへ留学できることになりました。行き先はロベルト・コッホ細菌研究所。研究所の名称に冠されている「ロベルト・コッホ」とは、細菌学の第一人者として名高い研究者で、北里柴三郎が師事した人です。北里の支援によって、秦は当時の世界で最高峰の研究所で研究できることになったのでした。

このドイツ留学時代、エールリヒという研究者とともに、秦は最大の功績である「サルバルサン」の発見に成功します。37歳のころです。

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パブリック・ドメイン, リンク

サルバルサンは改良を重ねられ、ドイツの製薬会社から発売されることになりました。1910年のことです。

同年、ロベルト・コッホの臨終をみとった後、秦は日本へ帰国します。

帰国後

日本に帰国した後も、秦は研究に邁進しました。日本国内でもサルバルサンが製造されることになり、発明者の秦も協力します。また、日本結核予防協会の設立に携わるなど、日本の感染症研究に重要な足跡を残しました。

一方で、環境の大きな変化も経験します。1914年、所長の北里柴三郎が伝染病研究所を辞めることになり、秦もそれについて同研究所を後にしました。北里が新しく設立した北里研究所でしばらく研究生活を送ります。

\次のページで「「サルバルサン」とはどんな薬?」を解説!/

image by Study-Z編集部

1920年には慶応義塾大学医学部の教授に着任。恩師ともいうべき北里が亡くなった後は、北里研究所の副所長も務めました。

1938年の7月に脳梗塞で倒れ、11月にこの世を去ります。65年の生涯でした。

「サルバルサン」とはどんな薬?

では、秦の残した最大の功績ともいえる「サルバルサン」について学びましょう。

サルバルサンは、梅毒などの感染症の特効薬として珍重された薬です。

梅毒は梅毒トレポネーマという病原菌によって引き起こされる感染症の一種。性的な接触によって感染することが多いことから、性感染症の一種として紹介されることが多いです。感染した女性が母親となって子どもを産んだ場合は、その子が生まれつき梅毒に感染している(先天性梅毒)こともあります。

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性感染症に関する知見が乏しかった時代にくらべ、現在は感染者が少なくなっている病気ですが、無くなったわけではありません。今も1年間に数千人ほどが日本で感染しています。

今は治療法が確立されていますが、昔の人にとって梅毒は死に至る恐ろしい病気だったのです。

その恐ろしい病気に対抗できたのが、秦とエールリヒの発見したサルバルサンでした。

ただ、サルバルサンはヒ素をふくんだ薬だったため、副作用も少なくなかったのです。改良が重ねられ、薬として販売されるようになってからは、梅毒患者にとっての希望の光になりました。さらに、梅毒以外の感染症にも効果があったのです。

現在は、梅毒の治療にこのサルバルサンは用いられなくなっています。抗生物質(ペニシリン)が発見されたためです。

ノーベル賞にもノミネートされた

現在は名前を聞くことが少なくなった梅毒という病気、そして使われなくなったサルバルサンですが、当時は本当に画期的な発見でした。この研究成果によって、秦らはノーベル賞の候補にも名を連ねていたのです。残念ながら受賞は逃しましたが、秦たちの研究が多くの命を救ったこと、現在にまで続く感染症研究の礎を築いたことには変わりありません。

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サルバルサンの発見者!「秦佐八郎」とはどんな人物?生涯やサルバルサンの効果も現役講師がわかりやすく解説します

この記事では、日本の医学史に名をのこす「秦佐八郎」という人物について学習していこう。

秦佐八郎は感染症の研究に尽力し、ある病気の治療薬を生み出した人物です。秦の研究成果によって命が救われた人も少なくない。彼の生きた時代や、かかわった人々についても触れながら、その功績について知っていこうじゃないか。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

秦佐八郎とはどんな人物?何をした人?

秦佐八郎(はた さはちろう)は明治時代に活躍した日本人の細菌学者です。

後ほど詳しくご紹介しますが、秦はサルバルサンという成分を発見しました。サルバルサンは梅毒などの感染症に対する特効薬として珍重されたのです。

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不明 – 大日本頌徳会編纂部『遺徳顕彰録 第二輯』、大日本頌徳会、1940年, パブリック・ドメイン, リンクによる

秦佐八郎の生涯

誕生から幼少期

秦佐八郎は1873年(明治6年)3月に島根県の都茂村(つもむら)で誕生しました。父親は山根道恭、母親はヒデという人物です。

現在に伝わる秦佐八郎の「秦」という苗字は、彼が養子に出されたことによります。

佐八郎の生まれた山根家は代々の庄屋の家系でした。しかし、当時の山根家には子どもが多く、すべての子どもに教育をまんべんなく施すのが難しかったのだといいます。そのため、1887年、佐八郎が14歳の時に秦家へ養子に出されました。

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