
大正政変が民主的な風潮へとつながる!
大正政変は第一次護憲運動という民衆の意見が内閣を倒すという民主政治の基本が芽生えた事件です。民衆の意見が大きな運動になることで、内閣を打倒できることは現代の政治にもつながる大事な動きでもあります。では、大正政変後の日本がどのような社会になったのかを深掘りしていきましょう。
桂内閣が退陣!大正政変の重大な意味
1885年の内閣制度が成立して以来、大正政変が起きるまでは藩閥政府内の意見のすれ違いや政党間の対立などで内閣総理大臣が変わるという状況でした。
しかし、今回の大正政変では民衆の圧力が内閣を倒した初の事件となりました。大正政変を通じて、民衆は「力を合わせれば内閣も倒せる!」と感じ始めます。同時に民衆は自分達の考えを政治に通すため、民衆運動を盛んに行うのです。
また、この民衆運動が展開されることを政府は見逃せなくなり、事件があると民衆の運動が展開されて、内閣が倒れるという状況になっていきました。大正政変は現代の民主主義政治の原型として大事な事件であったと考えられますね。だから、大正政変は現代社会を築く転換点であったと言えるのです。

大正政変以外にも原因はあるが、大正時代には社会運動が盛んに行われた。例えば日本初のメーデー(1920年)や小作農民の小作争議といった労働運動。全国水平社の成立や新婦人協会の成立とさまざまな社会運動が起こったんだ。
大正政変後に広がる大正デモクラシー!
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大正政変後、桂太郎に代わって内閣総理大臣に就いたのが、海軍大将の山本権兵衛です。山本権兵衛は日露戦争時に海軍大臣で、日本海海戦を勝利に導いた政治手腕を持っています。さまざまな行政改革に着手しましたが、ドイツのシーメンス社から賄賂を受けるシーメンス事件で再び民衆に国会を取り囲まれ、総辞職しました。再び、民衆の意見が内閣を倒す結果となxつたのです。
その後、1912年に美濃部達吉が天皇主権に反対する「天皇機関説」を発表しました。1916年には吉野作造が「民本主義」を提唱しまします。民主主義的な思想が広がる中で、普通選挙を求める運動も広がっていったのです。
大正政変やジーメンス事件、そして1917年に起こった米騒動で当時の寺内正毅内閣が倒閣してしまいました。民衆意見が強い状況になり、民主主義的な風潮が広がります。これが大正デモクラシーです。つまり、大正政変は大正デモクラシーを広げるために必要な事件であったと言えます。大正政変により、現代の民主主義の基本が作り上げられたのでした。
大正政変は現代民主政治の始まり!
大正政変を知ることで、第一次護憲運動を理解することにつながります。そして、大正デモクラシーという風潮が広がったのも大正政変があったからこそです。大正政変が日本の民主的な政治の基本になっています。つまり、大正政変は現代社会の民主的な政治の根幹にもつながっているのです。