公民大正現代社会

大正政変がみるみる分かる!大正時代に起きた重要な政治変動を現役塾講師が隅々まで解説!

よぉ、桜木健二だ。日本の政治の激動期である大正時代。大正時代の政治といえば民本主義が発展し、自由主義的な風潮が広まった大正デモクラシーが有名だな。
今回はその大正デモクラシーにつながる重大な政治変動の「大正政変」について現役講師ライター明東碧吾と一緒に詳しく解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/明東碧吾

現役で塾の文系講師を務め、社会科の指導は生徒から好評を受けている。豊富な社会科の知識を中心に楽しく、面白い授業を展開している。

大正政変って何だ?主要な人物と政変前をチェック!

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明治維新以来日本は近代化を進めてきました。しかし、明治維新に貢献した雄藩出身の人物が政治を取る藩閥政治が行われ、民主政治には程遠い状況でした。また、議会や政党などの意見を取り入れない超然内閣を進め、藩閥が思うように政治を行っていました。

大正政変はそうした政治の転換点になる事件です。民衆の意見が大きくなると内閣を倒して、意見を反映する政治を目指せることを大正政変は実証します。

では、どのような経緯で大正政変が起きたのでしょうか。まずは大正政変に続く重要な人物と問題を見ていきましょう。

桂園時代を構成した桂太郎とは?

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

大正政変を説明する前にまずはその前史になる桂園時代の理解が必要になります。桂園時代とは桂太郎と西園寺公望が交互に内閣総理大臣を担当した時代です。まず、はじめに内閣総理大臣になったのは桂太郎になります。では、どのような政治を行ったのでしょうか。

桂太郎は元老の山県有朋などから推挙され、1901年に第一次桂内閣を発足させました。その後、1906年まで内閣総理大臣を務めます。この任期は歴代内閣総理大臣の中でも最長記録です。また、1904年の日露戦争からポーツマス条約を締結する重要な政策を行いました。

続いて、1908年に当時の首相であった西園寺公望からの推薦を受けて、第二次桂内閣を発足します。1910年に韓国併合を行い、第一次内閣のように軍事的な手腕を発揮しました。

しかし、1910年に大逆事件が発生したことで、原敬元内務大臣から社会主義の取り締まりが弱かったことを指摘されます。政界引退も要求され、再び西園寺公望に首相職を譲り、総辞職しました。

桂園時代の二人目、西園寺公望登場!

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

1906年第一次桂内閣が当初の目的を達成したとして退陣したのちに首相に就いたのが、当時立憲政友会を率いていた西園寺公望です。西園寺公望は桂から内閣総理大臣の職を譲ってもらうような形で内閣総理大臣に就いたため、桂太郎の藩閥や陸軍勢力に協調する姿勢を取りました。また、桂太郎が山県有朋派閥だったため、元老の山県有朋とも協調するように政治を行います。

しかし、この体制が立憲政友会内で「西園寺は藩閥に迎合している」という反発を招いてしまいました。こののちに西園寺は体調不良を起こし、1908年に桂太郎を内閣総理大臣に推薦し、退陣するのです。

1911年に桂太郎から内閣総理大臣の職を譲り受け、第二次西園寺内閣を成立させます。前回は各勢力のバランスを取る内閣でしたが、今回は立憲政友会の原敬の影響で政友会の勢力が強い内閣となりました。

しかし、ここで陸軍が二個師団の増設を要求してきました。この問題を解決しようとしますが、陸軍の政治的戦術で退陣に追い込まれてしまいます。

影の支配者、山県有朋!

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撮影者不詳 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

大正政変に至るのに大きな影響を与えた桂園時代の桂太郎と西園寺公望ですが、この二人に影から大きな影響を与えていたのが、明治維新の立役者である山県有朋なのです。

山県有朋は明治維新の立役者であり、日本陸軍の創設にも大きく関わりました。また、内閣総理大臣や枢密院議長など近代日本を支えた人物でもあります。ただ、陸軍や政界で山県有朋の派閥が形成されていったことで、影から影響を与える人物として、大正政変のときに批判の対象となりました。

実際、桂太郎は山県有朋内閣期に陸軍大臣として山県有朋の右腕となり、中国の義和団事件への出兵を行っています。つまり、山県有朋派閥の議員や軍人が内閣総理大臣などを歴任していることから裏からも日本の政治を動かしていたと言えるのです。

また、第二次西園寺内閣を倒閣に追い込んだ陸軍の二個師団増設問題の発端も山県有朋にあります。こうした山県有朋を起点とする動きが大正政変の大きな原因を作っていくことになったのです。

二個師団増設問題って何だ?

西園寺公望内閣が倒れた原因であり、山県有朋が提唱した陸軍の二個師団増設問題とは何だったのでしょうか。詳しく見ていきましょう。

1907年に日本では帝国国防方針という軍事的な基本戦略を決めていました。この方針には明治天皇も了承し、軍備増強を図っていきます。陸軍は平時25師団、戦時50師団を目指しました。師団とは軍事作戦を行うときの一つの部隊のことです。海軍も保有戦艦を増やすことを目指しました。

しかし、1904年に起こった日露戦争での講和で賠償金がもらえなかったため、財政が厳しい状況。その中で、さまざまな政治家の思惑が重なり、陸軍が二個師団増設を求めてきます。この要求が二個師団増設問題です。増設を強く訴えた陸軍大臣の上原勇作が天皇に辞表を提出し、辞任しました。

軍部の大臣は「軍部大臣現役武官制」という軍部の大将または中将の職にある人物でないと軍部大臣になれない制度を立てていました。つまり、軍部に人選を委ねていましたが、推薦がなかなか出ないため、内閣の大臣が欠けた状態が続いていたのです。

そして、第二次西園寺公望内閣は陸軍の辞表戦術で総辞職に追い込まれてしまいました。この二個師団増設問題からの第二次西園寺内閣の倒閣が大正政変へとつながってくるのです。

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