今回は西田幾多郎について学んでいこう。

彼は初めて日本独自の哲学を確立した人です。しかし、西田の著作を読んで難解だと感じる人は多い。それらをできるだけ簡単に知ることが今回の目的です。

西田の生い立ちや名言、それに代表作である『善の研究』の要約などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

西田幾多郎が登場する前の日本の哲学は?

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はじめに、日本の哲学にはどのような歴史があったのでしょうか。簡単に振り返ってみましょう。

長らく仏教や儒教の影響が強かった日本

聖徳太子が政治に仏教を取り入れたことで、日本では仏教が思想の中心となります。奈良時代には東大寺の大仏を建立し、平安時代には末法思想が広まりました。当初は中国から仏教を学んでいましたが、鎌倉時代になり日本の仏教は独自に進化。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、浄土信仰が普及します。

江戸時代になり、儒教が盛んになった影響で朱子学が研究されるようになりました。その反動で、国学の研究も進むようになります。その一方で、江戸幕府は鎖国政策を取っていたため、西洋からの文化や思想を知る機会が限られていました。蘭学だけが西洋思想を知る唯一の術でした。

「哲学」という言葉が出来たのは明治に入ってから

明治維新により、日本の政治システムや産業構造が変わっただけでなく、人々の生活習慣や思想も変化することになります。日本への西洋文化の急激な流入は、西洋思想の流入も招きました。特にイギリスやフランスの思想が日本に紹介されるようになります。

福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で、西洋文化や思想を積極的に取り入れるよう説きました。森有礼は日本初の啓蒙思想団体である明六社を結成し、日本の文明開化を先導します。明六社に参加した西周は、「philosophy」(フィロソフィー)を「哲学」と翻訳。その他にも、「心理学」「理性」「概念」などといった学術用語を生み出しました。

西田幾多郎が『善の研究』を著すまで

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では、哲学があまり浸透していなかった日本において、西田幾多郎はいかにして『善の研究』を著したのでしょうか。ここでは、まず西田の生い立ちを見ていきましょう。

石川県に生まれる

1870(明治3)年、現在の石川県かほく市で西田幾多郎は生まれます。実家は加賀藩で庄屋を務めたほど裕福でした。西田が通った小学校は、西田の父が創立したものです。今でもその小学校やその周辺には、西田にまつわるものが残っています。

しかし、西田は多感な時期に多くのことを経験しました。実家は火災で焼失し、父が事業に失敗。病気などで多くの家族を亡く、西田自身も病気で療養したことがありました。若年期での数々の経験が、その後の西田幾多郎が説いた思想を形成する要素となったのは、想像に難くないでしょう。

禅寺で修行する

西田幾多郎は、金沢市にある旧制第四高等学校に入学。そこで書物を読みあさり、哲学に興味を持ち始めたとされます。ある時には日が暮れるまで土蔵の中で漢書籍を読みふけり、夕食時に親によって発見されたこともありました。四高では退学させられる憂き目にあいましたが、努力して東京帝国大学(今の東京大学)に入学します。

しかし、西田は東大に本科生としてではなく、選科生として入学しました。そのため、図書館で自由に閲覧できないという差別的な待遇を受けます。苦悩の中を過ごした西田が、救いを求めたのがの世界でした。20代後半からの西田は、1日中座禅を組むなどして禅寺での修行に励んでいたのです。

西田幾多郎の著作『善の研究』とは?

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ところで、西田幾多郎の代表作である『善の研究』とはどのような著作なのでしょうか。ここでは、『善の研究』が書かれた経緯やその意義について見てみましょう。

教員生活の傍らでまとめ上げる

西田幾多郎が東大を卒業した後は、故郷の石川県に戻り、教員となります。地元の女性と結婚し、子供も授かりました。しかし、学校内の内紛に巻き込まれたことなどが原因で、赴任先を転々とします。山口県で嘱託の教員を務めたこともありました。

1899(明治32)年、西田は母校である第四高等学校に、心理学やドイツ語などを講義する教授として迎えられます。西田の深く思慮する姿を見て、生徒からは「デンケン先生」とあだ名されました。「デンケン」とは、ドイツ語で「考える」という意味です。四高での講義を中心としたものが、後に西田の代表作となる『善の研究』となりました

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日本で初めて独自体系で書かれた哲学書

1911(明治44)年に出版された『善の研究』は、全4編の哲学書です。「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の4編で構成されています。これらは第四高等学校での講義内容をまとめたもので、はじめに第2編と第3編が出来上がりました。その後に第1編・第4編の順で加筆されています。

『善の研究』以前の日本の哲学書は、西洋の哲学書を翻訳したものしかありませんでした。西田の『善の研究』は、それらの哲学書とは一線を画すものです。西田が学んだ西洋哲学に、西田が体験した禅に代表される東洋の精神世界を合わせたもの。それが、日本で初めて独自の体系で書かれた哲学書『善の研究』です。

最も読まれている日本語で書かれた哲学書

もとは第四高等学校での講義案だったものを、哲学書としてまとめたのが『善の研究』でした。現代に置き換えれば、高校生向けの授業を1冊の書籍にしたということになるでしょう。にもかかわらず、『善の研究』は非常に難解であるとされます。一度読んだだけでは、ほとんどの人が理解できません。

それでも、西田の『善の研究』は広く読まれています。明治・大正時代の学生を始め、多くの人が『善の研究』を手にしました。現代でも、『善の研究』の解説書が数多く出版されています。最も読まれている日本語で書かれた哲学書、それが西田幾多郎の『善の研究』です。

名言やキーワードにみる西田幾多郎の思想

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ここからは、西田幾多郎の名言やキーワードをもとに、彼の思想について簡単に見ていきましょう。

純粋経験

純粋経験とは、哲学用語で「まだ主観・客観に分かれていない直接体験」のことです。たとえば、花が咲いていて、あなたが匂いをかぐとします。その場合、あなたが主観で、客観となるのは花が咲いていて香りが芳しいという事実。この主観と客観を区別せず、あるがままのものとしてとらえるのが純粋体験となります。

純粋体験については、西洋哲学ですでに論じられていました。その中でも、ウィリアム・ジェームズの根本的精神論に西田は影響を受け、西田自身が関わった禅の経験などと融合させます。そのようにして確立させた純粋体験論を、西田は自らの哲学論の原点としたのです。

場所的論理

西田が唱えた純粋体験論は、彼の活動の中期以降になり、自覚論へと発展します。純粋体験を得たということを自覚することで、そこから自己が発展していくというものです。さらに、自覚するということを、西田は根本的な働きであると考えました。

西田は、自覚することの根底に「見るものなくして見るもの」を想定。それを「場所」と呼んで概念化しました。また、西田は「逆対応」と「平常底」という言葉で人間と神や宗教との関係性を示しています。それらの言葉で、西田はキリスト教でも仏教でも通用する論理を提示しようと試みました。

絶対矛盾的自己同一

絶対矛盾的自己同一」は、西田幾多郎の活動後期においてキーワードとなる言葉です。また、1939(昭和14)年に西田が発表した論文のタイトルにもなっています。その意味は相反する2つのものが対立したまま同一化するということで、たとえば主観と客観や、生と死などが当てはまるでしょう。

古代の哲学でも、矛盾や対立するものの意義を認め,そこから事物の運動を説明しようとする弁証法が用いられていました。中世以降では、特にヘーゲルが弁証法を取り入れ、相反するものが対立し合いながら相乗して高め合うものと定義。西田がさらにヘーゲルの弁証法を発展させ、矛盾しながらも自己の中で同一のものであるとして考えました。

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『善の研究』発表後の西田幾多郎

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『善の研究』を発表した西田幾多郎は、その後どんな活動をしたのでしょうか。西田の晩年までを簡単に振り返っていきましょう。

京都大学に招かれる

西田幾多郎は、1910(明治43)年に京都帝国大学(今の京都大学)文科大学の助教授となりました。『善の研究』を発表したのは、その翌年のことです。1913(大正2)年には京都帝国大学文科大学の教授に就任。同じ年に文学博士となりました。

金沢から京都大学に移ってからも、西田の精力的な執筆活動は続きました。京大の機関誌で発表された『自覚に於ける直観と反省』は、5年にわたって連載。1917(大正6)年に、同名の著作として出版されました。『善の研究』と並び、大正時代の哲学を学ぶ若者たちに多大な影響を与えることとなります。

文化勲章を受章

1928(昭和3)年に、西田幾多郎は京都大学を退職。しかし、その後も西田の著作が次々と刊行されます。『自覚における直観と反省』『無の自覚的限定』『哲学の根本問題』など、多くの著作を残しました。西田が発表した思想体系は、「西田哲学」とまとめて呼ばれています。

日本に初めて独自の哲学を確立させたとして、1940(昭和15)年に西田は文化勲章を受章しました。そして、1945(昭和20)年6月、太平洋戦争が終結する直前に西田は亡くなります。ですが、西田の死後も『西田幾多郎全集』などが刊行。西田の門下生や京都学派と呼ばれる哲学者のグループなど、多くの人材を残しました。

西田幾多郎は唯一無二の西田哲学を築き上げた

19世紀までの日本では、哲学という学問が定着しませんでした。しかし、20世紀に入り、西田幾多郎が初めて日本独自の哲学を確立しました。西田が自ら実践した禅の経験を西洋の哲学と融合させて、西田哲学を提示したのです。代表作である『善の研究』をはじめ西田の文章はとても難解ですが、発表されてから100年経ってもなお、西田の哲学を読解しようとする人は後を絶ちません。

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日本を代表する哲学者「西田幾多郎」とは?名言や生い立ち・代表作『善の研究』などを歴史好きライターができるだけわかりやすく解説

今回は西田幾多郎について学んでいこう。

彼は初めて日本独自の哲学を確立した人です。しかし、西田の著作を読んで難解だと感じる人は多い。それらをできるだけ簡単に知ることが今回の目的です。

西田の生い立ちや名言、それに代表作である『善の研究』の要約などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

西田幾多郎が登場する前の日本の哲学は?

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はじめに、日本の哲学にはどのような歴史があったのでしょうか。簡単に振り返ってみましょう。

長らく仏教や儒教の影響が強かった日本

聖徳太子が政治に仏教を取り入れたことで、日本では仏教が思想の中心となります。奈良時代には東大寺の大仏を建立し、平安時代には末法思想が広まりました。当初は中国から仏教を学んでいましたが、鎌倉時代になり日本の仏教は独自に進化。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、浄土信仰が普及します。

江戸時代になり、儒教が盛んになった影響で朱子学が研究されるようになりました。その反動で、国学の研究も進むようになります。その一方で、江戸幕府は鎖国政策を取っていたため、西洋からの文化や思想を知る機会が限られていました。蘭学だけが西洋思想を知る唯一の術でした。

「哲学」という言葉が出来たのは明治に入ってから

明治維新により、日本の政治システムや産業構造が変わっただけでなく、人々の生活習慣や思想も変化することになります。日本への西洋文化の急激な流入は、西洋思想の流入も招きました。特にイギリスやフランスの思想が日本に紹介されるようになります。

福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で、西洋文化や思想を積極的に取り入れるよう説きました。森有礼は日本初の啓蒙思想団体である明六社を結成し、日本の文明開化を先導します。明六社に参加した西周は、「philosophy」(フィロソフィー)を「哲学」と翻訳。その他にも、「心理学」「理性」「概念」などといった学術用語を生み出しました。

西田幾多郎が『善の研究』を著すまで

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では、哲学があまり浸透していなかった日本において、西田幾多郎はいかにして『善の研究』を著したのでしょうか。ここでは、まず西田の生い立ちを見ていきましょう。

石川県に生まれる

1870(明治3)年、現在の石川県かほく市で西田幾多郎は生まれます。実家は加賀藩で庄屋を務めたほど裕福でした。西田が通った小学校は、西田の父が創立したものです。今でもその小学校やその周辺には、西田にまつわるものが残っています。

しかし、西田は多感な時期に多くのことを経験しました。実家は火災で焼失し、父が事業に失敗。病気などで多くの家族を亡く、西田自身も病気で療養したことがありました。若年期での数々の経験が、その後の西田幾多郎が説いた思想を形成する要素となったのは、想像に難くないでしょう。

禅寺で修行する

西田幾多郎は、金沢市にある旧制第四高等学校に入学。そこで書物を読みあさり、哲学に興味を持ち始めたとされます。ある時には日が暮れるまで土蔵の中で漢書籍を読みふけり、夕食時に親によって発見されたこともありました。四高では退学させられる憂き目にあいましたが、努力して東京帝国大学(今の東京大学)に入学します。

しかし、西田は東大に本科生としてではなく、選科生として入学しました。そのため、図書館で自由に閲覧できないという差別的な待遇を受けます。苦悩の中を過ごした西田が、救いを求めたのがの世界でした。20代後半からの西田は、1日中座禅を組むなどして禅寺での修行に励んでいたのです。

西田幾多郎の著作『善の研究』とは?

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ところで、西田幾多郎の代表作である『善の研究』とはどのような著作なのでしょうか。ここでは、『善の研究』が書かれた経緯やその意義について見てみましょう。

教員生活の傍らでまとめ上げる

西田幾多郎が東大を卒業した後は、故郷の石川県に戻り、教員となります。地元の女性と結婚し、子供も授かりました。しかし、学校内の内紛に巻き込まれたことなどが原因で、赴任先を転々とします。山口県で嘱託の教員を務めたこともありました。

1899(明治32)年、西田は母校である第四高等学校に、心理学やドイツ語などを講義する教授として迎えられます。西田の深く思慮する姿を見て、生徒からは「デンケン先生」とあだ名されました。「デンケン」とは、ドイツ語で「考える」という意味です。四高での講義を中心としたものが、後に西田の代表作となる『善の研究』となりました

\次のページで「日本で初めて独自体系で書かれた哲学書」を解説!/

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