今回は、警察予備隊について学んでいこう。

第二次大戦に敗れた日本は軍を解体することとなったが、その代わりに組織されたのが警察予備隊です。

警察予備隊が創設された経緯や、のちに自衛隊へと改編された理由などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日本軍の解体

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かつての日本には、日本陸軍と日本海軍が存在していました。まずは、それらが解体された時の様子を見ていくことにしましょう。

第二次世界大戦で日本が敗れる

第二次世界大戦に敗れた日本は、ポツダム宣言の受諾により連合国軍の管理下に置かれます。戦闘していた日本軍の兵士は、復員業務に従事することとなりました。日本軍に徴兵された人々は、それぞれの故郷へ帰ったのです。しかし、一部の兵士は戦地に残り、中には30年近く潜伏を続けた者も。

日本軍は解体され、陸軍省は復員省、海軍省は第二復員省へと新たに組織が変わりました。太平洋戦争の残務処理は、今でも厚生労働省が引き継いでいます。参謀本部の陸地測量部は国土地理院に改組。陸軍病院も、国立病院機構へ業務が移管されました。

朝鮮戦争勃発で日本に軍が不在

第二次大戦後は、アメリカとソ連が北緯38度線を境に、朝鮮半島を南北に分けて統治しました。その結果、1948(昭和23)年に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国。それぞれが朝鮮半島で唯一の正当な政府であると主張するようになります。2国の対立は、1950(昭和25)年の朝鮮戦争へと発展しました。

朝鮮戦争に日本は参戦しませんでしたが、アメリカは韓国を支援。北朝鮮に加担したソ連などと対峙することとなりました。日本に駐在していたアメリカ軍も、朝鮮半島へ出動します。その時に、日本を防衛する兵力が存在しないという事態を生みました。

警察予備隊の創設と活動

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では、警察予備隊はどのようにして組織されたのでしょうか。その経緯を詳しく見ていきましょう。

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マッカーサーの要望とは?

第二次大戦の終戦直後に、日本を管理するための組織であるGHQ(連合国最高司令官総司令部)が東京に設置されました。日本の軍隊を解体し、戦犯を逮捕。大日本帝国憲法の改正を指示しました。財閥解体や農地開放なども、GHQの主導で行われています。

朝鮮戦争により日本の防衛力が低下したことを懸念したGHQのマッカーサー元帥は、吉田茂首相に対して書簡を送りました。事変や暴動などに備える治安警察隊の創設を要望したものです。ポツダム宣言により日本には武装解除が要求されていたため、軍隊を置く代わりに警備隊を組織することが想定されていました。

逆コースとは?

1950(昭和25)年、GHQの命を受けて警察予備隊令が公布され、警察予備隊が設置されることとなりました。軍人は公職追放の対象となっていたため、代わりに全国の警察官が集められます。当初は治安維持が目的だったので、警察予備隊の装備は限定されたものでした。しかし、朝鮮戦争の悪化により、警察予備隊は次第に重装備化します。

警察予備隊の重装備化は、逆コースだとする批判を集めました。日本軍を解体したはずなのに、警察予備隊は軍隊同然の活動をしていると。民主化政策を進めているつもりがそれとは逆行しているように感じた人々は、各地で反対運動を起こしました。

警察予備隊の実際の活動は?

第二次大戦後の日本は軍がない状態だったため、朝鮮戦争に直接参戦することはありませんでした。主に海上警備隊が特別掃海隊として、機雷除去などの任に当たっていました。その他にも、民間人が海上輸送や港湾荷役などに従事しています。しかし、その任務は熾烈を極め、50人以上の日本人が命を落としました。

1951(昭和26)年10月、最大瞬間風速60キロメートル以上の猛烈なルース台風が鹿児島県に上陸しました。死者・行方不明者は300名を超え、1000戸以上の家屋が流出するという深刻なものでした。吉田茂首相の命を受け、警察予備隊が災害救助活動のために出動。警察予備隊が初めて災害派遣されたケースとなりました。

警察予備隊はどのような組織だったのか

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では、警察予備隊はどのような組織だったのでしょうか。その特色について詳しく見てみましょう。

75000人の隊員

1950(昭和25)年に発令された警察予備隊令では、総理府の機関として警察予備隊を置くことが規定されています。活動の範囲は、治安維持のため特別の必要がある場合に内閣総理大臣の命を受け行動するものとしました。しかし、あくまでも警察の任務の範囲に限られるとしています。

警察予備隊の職員の定員は、警察予備隊令で75100人と細かく規定されていました。そのうち75000人が警察予備隊の警察官で、残りを幹部職員と想定したものです。警察予備隊の訓練は、アメリカ軍の主導により進められました。訓練が進むにつれて、警察予備隊の装備も次第に本格化していきます。

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実は当初から軍備が想定されていた

警察予備隊の重武装化は、朝鮮戦争の悪化が契機となったものでした。しかし、偶発的に重装備化したのかというと、それは正しくありません。実は、警察予備隊が設立される前の1948(昭和23)年には、GHQで日本の再軍備化についてすでに話し合われていました。

そもそもGHQは、日本を統治管理するため一時的に置かれた組織です。よって、その役目を終えれば解体されると決まっており、日本に駐留していた米軍も撤退することになっていました。撤退する米軍に代わり、日本に軍備を配置することの必要性を当初から感じていたのです。

警察予備隊の組織改編

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日本を防衛するための組織として誕生した警察予備隊でしたが、すぐにその役目は終わります。なぜそうなったのかという理由と、後継となった組織について見ていきましょう。

警察予備隊から保安隊へ

サンフランシスコ講和条約の締結後も、警察予備隊令は有効となるはずでした。しかし、当時の政府は、法的根拠が明らかな組織構築が必要であると考えます。そのため、1952(昭和26)年に保安庁法を成立させ、保安庁を設置。海上警備隊が保安庁警備隊として編成し直されました。

警察予備隊の一部は先に廃止され、部隊などが警察予備隊の名称のまま保安庁の下部組織としてしばらくは存続します。その後の準備期間を経て、警察予備隊は保安隊と名称を変えて改編されました。これにより、警察予備隊はわずか2年で廃止されたことになります。

保安隊から自衛隊へ

1952(昭和27)年に発足した保安隊。初めての大演習は富士山麓で行われ、1000台以上の車両が模擬攻防戦を繰り広げました。1953(昭和28)年には、台風被害による救助活動も行われています。しかし、発足からわずか2年にして、保安隊も廃止されることとなったのです。

1954(昭和29)年、日本とアメリカ合衆国との間で相互防衛援助協定が結ばれました。これにより、日本は自らの手で防衛するという義務が生ずることになります。そこで、防衛庁設置法自衛隊法を制定し、保安隊を自衛隊に改編しました。それに伴い、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊と、それらを管理する防衛庁が発足します。

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自衛隊が抱える問題とは?

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警察予備隊や保安隊を経て、現在も活動を続ける自衛隊ですが、数々の問題が残されています。それらについて1つずつ見ていくことにしましょう。

憲法9条への明記

日本国憲法第9条にある戦力の不保持に自衛隊の存在が反しているのではという指摘は、自衛隊の設立当初からすでにありました。さかのぼれば、警察予備隊の時代でも議論となっています。しかし、最高裁判所は合憲とも違憲とも判断を下していません。

安倍晋三内閣の頃からは、憲法9条に自衛隊を明記するかどうかの議論がなされるようになりました。特に自民党は、解釈を変えないまま自衛隊について憲法9条に明記し、憲法論議を決着させようと提案しています。ですが、自民党と連立政権を組む公明党が自衛隊明記について慎重な姿勢を示すなど、依然として決着の目処は立っていません。

海外派遣での武器使用

自衛隊は、創設以来幾度も海外派遣されました。特に湾岸戦争が起きた1991(平成3)年以降、自衛隊の海外派遣が積極的に行われるようになります。主な任務は、紛争に巻き込まれるリスクが少ない地域での後方支援です。しかし、紛争地帯にいる以上は、万が一に備えなければなりません。

隊員の安全を確保するためには、武器使用という選択肢もありえるでしょう。しかし、武器の使用が憲法9条の武力行使に抵触するかどうかの問題が生じます。そのため、武器の使用は必要最低限にするという方針があるものの、実際の紛争地帯では即時に判断することが難しいはずです。そうした制約が、自衛隊の活動を狭めているとする意見もあります。

集団的自衛権

2014(平成26)年、安倍政権は集団的自衛権の行使を容認する見解を述べました。それまでは、日本への直接的な攻撃に対する最小限の防衛行為しか認めていませんでした。それを、同盟国が攻撃を受けた場合でも一定の条件を満たせば反撃可能と変えたのです。憲法自体は変えませんでしたが、その解釈を変えることで対応しました。

集団的自衛権の容認は、自衛隊の活動範囲を広げるというメリットがあります。しかし、同盟国が起こした戦争に、日本が否応なしに巻き込まれる可能性を排除できません。集団的自衛権の拡大解釈に基づく武力行使の濫用を危惧する声も聞かれます。集団的自衛権の行使には、慎重な判断が求められるでしょう。

警察予備隊から続く諸問題についてもっと議論が必要

日本軍に代わって日本の防衛を担う目的で創設された警察予備隊でしたが、国の方針が変更されたため、警察予備隊はわずか2年で保安隊へと組織を変えました。その保安隊も、2年で自衛隊に改編されます。現行の自衛隊は、海外派遣などで活動の場は広がっていますが、憲法9条の問題は残されたままです。今後の日本の防衛政策を確固たるものにすべく、警察予備隊時代から続く諸問題を議論すべきではないでしょうか。

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現代社会

自衛隊の前身組織「警察予備隊」とは?創設された経緯や自衛隊に改編された理由などを歴史好きライターが分かりやすくわかりやすく解説!

実は当初から軍備が想定されていた

警察予備隊の重武装化は、朝鮮戦争の悪化が契機となったものでした。しかし、偶発的に重装備化したのかというと、それは正しくありません。実は、警察予備隊が設立される前の1948(昭和23)年には、GHQで日本の再軍備化についてすでに話し合われていました。

そもそもGHQは、日本を統治管理するため一時的に置かれた組織です。よって、その役目を終えれば解体されると決まっており、日本に駐留していた米軍も撤退することになっていました。撤退する米軍に代わり、日本に軍備を配置することの必要性を当初から感じていたのです。

警察予備隊の組織改編

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日本を防衛するための組織として誕生した警察予備隊でしたが、すぐにその役目は終わります。なぜそうなったのかという理由と、後継となった組織について見ていきましょう。

警察予備隊から保安隊へ

サンフランシスコ講和条約の締結後も、警察予備隊令は有効となるはずでした。しかし、当時の政府は、法的根拠が明らかな組織構築が必要であると考えます。そのため、1952(昭和26)年に保安庁法を成立させ、保安庁を設置。海上警備隊が保安庁警備隊として編成し直されました。

警察予備隊の一部は先に廃止され、部隊などが警察予備隊の名称のまま保安庁の下部組織としてしばらくは存続します。その後の準備期間を経て、警察予備隊は保安隊と名称を変えて改編されました。これにより、警察予備隊はわずか2年で廃止されたことになります。

保安隊から自衛隊へ

1952(昭和27)年に発足した保安隊。初めての大演習は富士山麓で行われ、1000台以上の車両が模擬攻防戦を繰り広げました。1953(昭和28)年には、台風被害による救助活動も行われています。しかし、発足からわずか2年にして、保安隊も廃止されることとなったのです。

1954(昭和29)年、日本とアメリカ合衆国との間で相互防衛援助協定が結ばれました。これにより、日本は自らの手で防衛するという義務が生ずることになります。そこで、防衛庁設置法自衛隊法を制定し、保安隊を自衛隊に改編しました。それに伴い、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊と、それらを管理する防衛庁が発足します。

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