自衛隊の前身組織「警察予備隊」とは?創設された経緯や自衛隊に改編された理由などを歴史好きライターが分かりやすくわかりやすく解説!
マッカーサーの要望とは?
第二次大戦の終戦直後に、日本を管理するための組織であるGHQ(連合国最高司令官総司令部)が東京に設置されました。日本の軍隊を解体し、戦犯を逮捕。大日本帝国憲法の改正を指示しました。財閥解体や農地開放なども、GHQの主導で行われています。
朝鮮戦争により日本の防衛力が低下したことを懸念したGHQのマッカーサー元帥は、吉田茂首相に対して書簡を送りました。事変や暴動などに備える治安警察隊の創設を要望したものです。ポツダム宣言により日本には武装解除が要求されていたため、軍隊を置く代わりに警備隊を組織することが想定されていました。
逆コースとは?
1950(昭和25)年、GHQの命を受けて警察予備隊令が公布され、警察予備隊が設置されることとなりました。軍人は公職追放の対象となっていたため、代わりに全国の警察官が集められます。当初は治安維持が目的だったので、警察予備隊の装備は限定されたものでした。しかし、朝鮮戦争の悪化により、警察予備隊は次第に重装備化します。
警察予備隊の重装備化は、逆コースだとする批判を集めました。日本軍を解体したはずなのに、警察予備隊は軍隊同然の活動をしていると。民主化政策を進めているつもりがそれとは逆行しているように感じた人々は、各地で反対運動を起こしました。
警察予備隊の実際の活動は?
第二次大戦後の日本は軍がない状態だったため、朝鮮戦争に直接参戦することはありませんでした。主に海上警備隊が特別掃海隊として、機雷除去などの任に当たっていました。その他にも、民間人が海上輸送や港湾荷役などに従事しています。しかし、その任務は熾烈を極め、50人以上の日本人が命を落としました。
1951(昭和26)年10月、最大瞬間風速60キロメートル以上の猛烈なルース台風が鹿児島県に上陸しました。死者・行方不明者は300名を超え、1000戸以上の家屋が流出するという深刻なものでした。吉田茂首相の命を受け、警察予備隊が災害救助活動のために出動。警察予備隊が初めて災害派遣されたケースとなりました。
75000人の隊員
1950(昭和25)年に発令された警察予備隊令では、総理府の機関として警察予備隊を置くことが規定されています。活動の範囲は、治安維持のため特別の必要がある場合に内閣総理大臣の命を受け行動するものとしました。しかし、あくまでも警察の任務の範囲に限られるとしています。
警察予備隊の職員の定員は、警察予備隊令で75100人と細かく規定されていました。そのうち75000人が警察予備隊の警察官で、残りを幹部職員と想定したものです。警察予備隊の訓練は、アメリカ軍の主導により進められました。訓練が進むにつれて、警察予備隊の装備も次第に本格化していきます。
\次のページで「実は当初から軍備が想定されていた」を解説!/