今回解説する「卑弥呼」は弥生時代に登場する女王です。名前くらいなら知ってるよな?それに、弥生時代は実は日本史上でもかなり変化があった時代です。今回は「卑弥呼」についてそのまわりの時代背景を交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。やや印象の薄い弥生時代ですが、実はかなり大きなことが盛りだくさん。今回はそんな弥生時代に登場する女王「卑弥呼」についてまとめた。

1.縄文時代から弥生時代へ。日本人の大発展

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日本史の最初は、人類は石器を使って狩猟を行い、生き抜くために集団を形成した石器時代に始まり、土から土器を作るようになった縄文時代へ。そして、農耕が始まった弥生時代へとゆるやかに時代が変わっていきます。

「卑弥呼」を知るためには、まず弥生時代について解説していきましょう。弥生時代は紀元前十世紀から紀元前五世紀の間に始まったとされています。今から約2500年から3000年ほど前ですから、今とは全く違う異世界のようなところですよ。

日本のお米のはここから!大陸からもたらされた稲作

「弥生時代」は紀元前十世紀から紀元前五世紀の間に始まり紀元後の三世紀中ごろまで続いたとされています。約1300年から約800年くらい続いたんですね。では、その前の縄文時代はというと、14000年前から紀元前十世紀、あるいは紀元前五世紀まで。実は、一万年以上は縄文時代だったんです。

日本では、一万年以上変わらずずっと縄文時代だったのですが、それがどうして弥生時代へと変わったのでしょうか?

そのきっかけは、中国や朝鮮から「稲作」が伝わったことに始まります。「稲作」、つまりは、お米を作る技術ですね。水田を作ってお米を育て、収穫する。いわゆる「農耕」が行われるようになったのです。日本人の主食として私たちが子どものころから毎日食べているお米が日本で作られるようになったのが「弥生時代」。実はこれ、非常に大きなポイントなんです。

狩猟・採取から稲作へ移行して食糧事情の改善!

稲作を行うようになる以前の縄文人たちは、狩猟や採取によって食料を得てきました。しかし、狩猟や採取は自然によって左右されてしまいます。たとえば、動物を見つけられなくて手ぶらで帰らなければならなかったり、逆に動物にやられてしまったり。あるいは、木の実を取ろうとして木や崖から落ちたり、と怪我どころか死んでしまうリスクもあるわけです。運よく食べ物にありつけても、家族を養えるだけの量がなければなりません。なので、狩猟と採取ではそこまで食糧事情は安定しませんでした。

しかし、「稲作」が伝わったことで、人々はその土地で毎年一定量の食料を得られるようになりました。もちろん、こちらも今のように農薬や機械などありませんから、苦労も失敗もたくさんあったでしょう。けれど、まったく食料がないかもしれないという、常に全滅のリスクを抱えた状態から少しは離れられたことで、縄文人たちの生活は一変したのです。

お米の力で文化も生活も一変、縄文時代から弥生時代へ!

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稲作の登場で日本はやっと縄文時代から次のステージへ進みます。そのころに作られていた土器は、縄目の文様が入った「縄文土器」から、文様のない薄く丈夫な形の「弥生土器」へ変わっていました。そこから、この時代を「弥生時代」というようになったのです。

さて、弥生時代で稲作がはじまり、人々の生活が一変したと前述しましたよね。今までの狩猟と採取で得た食料は、生肉や木の実、あるいは野生の野菜であったりです。それらはあまり長く保存ができないものでした。しかし、お米は生米のままなら長期保存が可能です。つまり、食料の備蓄ができる。そして、備蓄があれば少々の飢饉を耐え忍ぶことはできるのです。

ですが、お米を食べるのはなにも人間だけはありません。ネズミや小鳥だって食べますよね。そういった小さな敵からお米を守るためにできたのが「高床式倉庫」でした。高床式倉庫の柱にはネズミ返しが施され、さらに床を上げたことで風通しがよく、洪水で中身がダメになることもありません。高床式倉庫は日本だけではなくヨーロッパやアフリカなど世界各地で見られる、人類にとって重要な発明ですね。

保存のきかないお肉や魚と違い、保存の効くお米は弥生人たちにとっての重要事項。そして、お米は当時の人々の財産といえるものになりました。お米の過多によって、いわゆる貧富の差がうまれたのです。

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食糧安定で人口増加、王が誕生!

お米の備蓄があれば、飢饉が起こった時の死者が減ります。そして、人が増えれば食い扶持が増えますが、逆に言うと働く人手があるということ。田んぼの拡張や狩りは人数が多い方がメリットが多いですよね。そして、それらがうまくいけばさらに食糧難による死者は減って、一族の子どもたちが増えることに。

しかし、安定したといってもやっぱり当時の稲作は自然に大きく左右されてしまうんです。弥生時代は涼しい気候が続いたとされ、冷夏で十分にお米が育たず食糧が不足してしまうこともしばしば。現在と違って外国から輸入するなんてこともできませんからね。

前節の通り、お米は当時の人々にとっての直接生命に関わる大事な財産でありながら、土地によっては収穫量が異なり、その差が直接貧富の差となりました。その差のために、余所の集落からお米を奪ったり、奪われたり……人々の間に「戦争」が起こるようになったのです。

稲作や高床式倉庫の建設を通し、集団の中でリーダーが誕生します。リーダーは仲間の信頼を得てなるもの、もしくは、占いを行う宗教的な権威を持った指導者がなりました。そして、リーダーを中心に集団は発展し、数家族だけだった集団はムラへ、そして、クニへと成長していきます。クニにまでなると、リーダーは「王」と呼ばれるようになり、そうすると、今度は人々の間に「身分」ができるようになりました。

2.邪馬台国の女王「卑弥呼」誕生

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稲作がはじまり、それを巡って全国各地で戦争が起こるようになりました。争いがあまりにも収まらなかったのですが、弥生時代の後期になって複数のクニがある女性を王に立てます。それが邪馬台国の女王「卑弥呼」でした。

女性シャーマン・卑弥呼

前章で、宗教的権威を持ったものもまた人々のリーダーとなるとお話しましたね。そのような超自然的存在と接触し、交流するものを「シャーマン」と呼びます。シャーマンは占いだけでなく、稲作が上手くいくよう祈ったり、雨乞いを行ったりもしました。天気予報やビニールハウスなんてもののなかった弥生時代当時ではたいへんありがたい存在だったのです。

女王に選ばれた「卑弥呼」もまた、鬼道という呪術を使うシャーマンの女性でした。女王となった卑弥呼は生涯夫を持たず、彼女の弟のみと顔を合わせ、授かったご神託を弟に託していたといいます。なので、誰も卑弥呼の顔を知らなかったのです。

どうやって卑弥呼が後世に伝わったのか?

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弥生時代の日本にはまだ文字はありませんでした。なので、当時の情報は遺跡などから読み取るほかありません。では、いったいどうやって現代に彼女の名前が伝わったのでしょうか?

その答えは日本ではなく、はるか昔の中国にありました。そのころの中国はちょうど「三国志」の時代にあたります。年号だと184年~280年あたりのこと。魏、呉、蜀という三つの国が覇権をめぐって争っていた時期ですね。

その三国のなかでも「魏」の歴史書「魏志」のなか「魏志倭人伝(正確には『「魏書」東夷伝倭人条』)」に邪馬台国の卑弥呼についての記述があります。

これによると、「倭国(日本)は長い騒乱にあり、卑弥呼という女王を立てたことで治まった。倭国の身分制度や税金制度、国々に市場があり、交易が行われていた」とのこと。

邪馬台国・卑弥呼と魏の関係は?

なぜ、遠く離れた魏の歴史書に卑弥呼について書かれていたのでしょうか?

魏の歴史書に記されるためには、まず国交がないといけませんよね。当時、大陸で魏、呉、蜀の三国が争っていたとはいえ、そのもっと昔からあのあたりに建つ国は「秦」や「漢」など強大な国が続いています。そのため、周辺諸国は強い国の後ろ盾を得ようと「朝貢」を行ってきました。

「朝貢」とは、外交手段のひとつで、強い国家の王に周辺諸国が貢物を献上することで、強い王とその国からの庇護を得ようとすること。いわゆる、親分と子分の関係を築こうとすることですね。

邪馬台国は強い国ではありましたが、日本にいくつもある国のひとつであり、その支配に属さない国もあります。そのうちのひとつで、邪馬台国の南にあったとされる狗奴国と対立していました。狗奴国との争いで優位に立つため、邪馬台国は魏に使者を送って朝貢を行います。その結果、卑弥呼は「親魏倭王」という称号と金印、銅鏡100枚を与えられました。

「親魏倭王」を意訳すると「魏と親しくしてもらっている倭(日本)の国王」ということ。要するに、魏が卑弥呼を魏と親しい日本の王として認めた証ということです。

残念ながら、この金印は発見されておらず真偽をつけることはできません。しかし、邪馬台国の朝貢が行われたから、「魏志倭人伝」に邪馬台国と卑弥呼の名前が残されたのでしょう。

\次のページで「邪馬台国はいったいどこにあった?」を解説!/

邪馬台国はいったいどこにあった?

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邪馬台国がどこにあったのかは、長年議論に上がるものの、はっきりと決めることのできない謎です。というのも、「魏志倭人伝」に書かれた魏から邪馬台国への道筋がとてもあいまいだったから。「ここが邪馬台国だ!」という決定的な品が出た遺跡があればいいのですが、残念ながら、それもありません。そのため、いくつもの説ができてしまったのです。

そのなかでも有力なのが「北九州説」と「畿内説」でした。

まず「北九州説」から見ていくと、北九州は中国や朝鮮半島への玄関口として他の地域よりも繋がりやすいのです。金印の授与以降も邪馬台国と魏との交流が続いていたため、両国間が物理的距離が近いことは重要になります。また、弥生時代の大規模な環濠集落が発見された吉野ケ里遺跡の存在など、その裏付けとなりそうな大きな要素がありました。

一方の「畿内説」は、ヤマト政権との繋がりや、大型建物の跡が発見された奈良県の纏向遺跡を邪馬台国の都に比定できること。そして、卑弥呼が亡くなった時、一緒に百人あまりの男女が一緒に生き埋めにした古墳を同じく奈良県の箸中山古墳と比定でき、さらには魏から贈られた三角縁神獣鏡が機内で多く発見されたことから有力とされています。

現在、邪馬台国はいったいどこにあったのかについて、決着はされていません。まだまだ今後の発掘次第ということですね。

卑弥呼の後継者、新しい女王「壱与」

時期は不明なのですが、卑弥呼は狗奴国との戦争中に亡くなったとされています。その後は男の王が立ったとされていますが、男王を不服として内乱状態になったため、また新たに女王が即位しました。それがたった13歳の少女「壱与(いよ)」です。

壱与の即位後にようやく国内が治まった、と「魏志倭人伝」によって伝えられています。

戦乱を治めた女王・卑弥呼と邪馬台国

稲作が伝わったことで縄文時代から弥生時代へ移行、さらに各地で米を巡る争いが起こり始めました。弥生時代は日本に訪れた最初の戦乱の時代といえます。

卑弥呼は戦乱吹き荒れる弥生時代の後期に颯爽と現れ、彼女の登場によって争いが治まったとされました。また、卑弥呼は鬼道を扱うシャーマンであったとされ、人々の宗教的指導者の側面が強くみられます。卑弥呼や邪馬台国に関する資料は日本にはなく、遠い大陸の魏の「魏志倭人伝」に魏に朝貢を行い、「親魏倭王」の称号や銅鏡などを与えられたと記録されていました。

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弥生時代日本史

3分で簡単「卑弥呼」弥生時代の女王?弥生時代の争いを治めた?歴史オタクがわかりやすく解説

今回解説する「卑弥呼」は弥生時代に登場する女王です。名前くらいなら知ってるよな?それに、弥生時代は実は日本史上でもかなり変化があった時代です。今回は「卑弥呼」についてそのまわりの時代背景を交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。やや印象の薄い弥生時代ですが、実はかなり大きなことが盛りだくさん。今回はそんな弥生時代に登場する女王「卑弥呼」についてまとめた。

1.縄文時代から弥生時代へ。日本人の大発展

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日本史の最初は、人類は石器を使って狩猟を行い、生き抜くために集団を形成した石器時代に始まり、土から土器を作るようになった縄文時代へ。そして、農耕が始まった弥生時代へとゆるやかに時代が変わっていきます。

「卑弥呼」を知るためには、まず弥生時代について解説していきましょう。弥生時代は紀元前十世紀から紀元前五世紀の間に始まったとされています。今から約2500年から3000年ほど前ですから、今とは全く違う異世界のようなところですよ。

日本のお米のはここから!大陸からもたらされた稲作

「弥生時代」は紀元前十世紀から紀元前五世紀の間に始まり紀元後の三世紀中ごろまで続いたとされています。約1300年から約800年くらい続いたんですね。では、その前の縄文時代はというと、14000年前から紀元前十世紀、あるいは紀元前五世紀まで。実は、一万年以上は縄文時代だったんです。

日本では、一万年以上変わらずずっと縄文時代だったのですが、それがどうして弥生時代へと変わったのでしょうか?

そのきっかけは、中国や朝鮮から「稲作」が伝わったことに始まります。「稲作」、つまりは、お米を作る技術ですね。水田を作ってお米を育て、収穫する。いわゆる「農耕」が行われるようになったのです。日本人の主食として私たちが子どものころから毎日食べているお米が日本で作られるようになったのが「弥生時代」。実はこれ、非常に大きなポイントなんです。

狩猟・採取から稲作へ移行して食糧事情の改善!

稲作を行うようになる以前の縄文人たちは、狩猟や採取によって食料を得てきました。しかし、狩猟や採取は自然によって左右されてしまいます。たとえば、動物を見つけられなくて手ぶらで帰らなければならなかったり、逆に動物にやられてしまったり。あるいは、木の実を取ろうとして木や崖から落ちたり、と怪我どころか死んでしまうリスクもあるわけです。運よく食べ物にありつけても、家族を養えるだけの量がなければなりません。なので、狩猟と採取ではそこまで食糧事情は安定しませんでした。

しかし、「稲作」が伝わったことで、人々はその土地で毎年一定量の食料を得られるようになりました。もちろん、こちらも今のように農薬や機械などありませんから、苦労も失敗もたくさんあったでしょう。けれど、まったく食料がないかもしれないという、常に全滅のリスクを抱えた状態から少しは離れられたことで、縄文人たちの生活は一変したのです。

お米の力で文化も生活も一変、縄文時代から弥生時代へ!

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稲作の登場で日本はやっと縄文時代から次のステージへ進みます。そのころに作られていた土器は、縄目の文様が入った「縄文土器」から、文様のない薄く丈夫な形の「弥生土器」へ変わっていました。そこから、この時代を「弥生時代」というようになったのです。

さて、弥生時代で稲作がはじまり、人々の生活が一変したと前述しましたよね。今までの狩猟と採取で得た食料は、生肉や木の実、あるいは野生の野菜であったりです。それらはあまり長く保存ができないものでした。しかし、お米は生米のままなら長期保存が可能です。つまり、食料の備蓄ができる。そして、備蓄があれば少々の飢饉を耐え忍ぶことはできるのです。

ですが、お米を食べるのはなにも人間だけはありません。ネズミや小鳥だって食べますよね。そういった小さな敵からお米を守るためにできたのが「高床式倉庫」でした。高床式倉庫の柱にはネズミ返しが施され、さらに床を上げたことで風通しがよく、洪水で中身がダメになることもありません。高床式倉庫は日本だけではなくヨーロッパやアフリカなど世界各地で見られる、人類にとって重要な発明ですね。

保存のきかないお肉や魚と違い、保存の効くお米は弥生人たちにとっての重要事項。そして、お米は当時の人々の財産といえるものになりました。お米の過多によって、いわゆる貧富の差がうまれたのです。

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