
戦国時代は九州も熱かった!耳川の戦いが3分で簡単!元塾講師がわかりやすく解説
島津、ついに九州統一
耳川の戦いの後、周辺勢力は大きく変化していきます。大友氏の力が弱まったことに乗じた龍造寺氏は大友領へ侵攻。大友家に従属していた秋月家などの北九州の国人衆は続々と離反。島津氏も日向を取り戻します。
島津氏はこうして敵方が減少し、薩摩、大隅に対しても力を強め、ついには三州統一。後には沖田畷(おきたなわて)の戦いで、かつての三大勢力のもう一つである龍造寺家も破り、島津氏は九州統一を果たします。
島津を止めるのは、大友
耳川の戦い以前、足利義昭は島津氏以外に龍造寺氏・長宗我部氏などの近隣の有力大名にも大友氏糾弾を要請する御内書を送っていたため、大友氏は島津氏以外の大名とも対立するようになりました。かつて九州で大きな勢力を持っていた大友氏は九州の覇者としての地位は昔の話に。
しかし、このままでは終わることがないのが大友宗麟のすごいところ。九州ではもう埒があかないと思ったのか中央権力を頼る方向にシフト。織田信長と良好な関係を持ち、周防・長門両国の支配権を与えられるまでに。さらには、九州領土が減少しもはや滅亡の危機になると、豊臣秀吉を頼ります。豊臣秀吉は九州征伐を決行し、島津氏は豊臣氏に敗北。 大友氏は豊臣秀吉傘下で生き延びるのでした。
九州の覇権、明暗は団結力だった
耳川の戦いの勝敗を分けたのは大友氏、島津氏それぞれの統率力の違いといえます。島津氏は島津四兄弟をはじめとした武将たちの団結力が戦を進める上での原動力となっていました。一方で大友氏は家臣間の足並みが揃わず、軍として機能しないことに。
普段自ら出陣することが少なかった島津義久が耳川の戦いでは先頭に立ったのに対し、大友宗麟は大友軍が苦戦を強いられていた時に戦地から遠く離れた地でキリスト教に興じていたところに大きな差があります。
集団の中で、仲間と協力することの大切さ、リーダーは何を求められているのか考えながら行動すること、現代社会で生きる上で参考になる要素が盛りだくさんの戦いであることに改めて気づかされました。